第6話 初めての厩務員



 初めてのアルバイトの日がやってきた。陽が昇る前、志賀葵は母が寝ている間に家を出て、静まり返った真っ暗闇に自転車を走らせる。



 厩舎街はとっくに目覚めて光を放っていた。続々と関係者が集まってきて、あちこちでは龍たちが厩務員に連れ出されている。若い女が珍しいのか葵に視線が集中した。葵は挨拶をしようとして、龍の近くで大声を出すなという三砂の言葉を思い出す。危険な龍を驚かせてはいけない。会釈で応えるだけに留めて一萬田厩舎に急いだ。



 既に、三砂と重連は仕事を始めていた。三砂は龍房から龍を連れ出して表の鉄杭に龍を繋ぎ、重連は龍たちの様子を調べている。



「おはようございます」



 声を抑えて言うと、三砂がぱっと振り返った。



「おはよう。自転車は家の前で良いから。それと着替える時は厩舎の横の家を使って、荷物は好きに置いて良いからね。分からない事があったら呼んで」



「はい、直ぐに準備します」



 言われた通り、厩舎横の一軒家に入る。親の実家のような懐かしい臭いがした。話には聞いていたが、ここが重連の家か。老人の一人暮らしなだけあって空き部屋がいくつかあり、一つを借りてTシャツとジーンズに着替え、長靴を履いて外に出た。



「終わりました。何をすれば良いですか」



「調教する子たちを先に龍房から出しておきたいから、それが終わるまでそこの箒で厩舎の前を掃いてくれる?」



 三砂が厩舎前の水洗い場を指差した。そこには仕事で使うであろう道具がいくつも置かれ、竹箒も三本立て掛けられている。



「石は絶対に見逃さないでね。終わったらちゃんと仕事教えるからそれまでよろしく」



 言い終わるや、三砂は他の龍房に入っていく。葵は竹箒を手に取り、厩舎の中にいる重連に挨拶してからぬかるんだ地面の掃き掃除を始めた。



「……葵? 何でここにいるんだよ」



 陽が昇り雲が見えてきた頃、怪訝そうな顔をした親次が姿を現した。右脚を引きずり右手はだらんと下がっているが、杖は無くなっている。



「おはよう、チカ」



 親次は葵のTシャツにジーンズ、長靴という格好を見て、溜息を吐いた。



「三砂さんか。新しい厩務員が来るとは聞いてたけど、だから隠してたのか」



 三砂のいたずらっぽい笑みが頭に浮かぶ。自分の想像に笑ってしまうと、親次に肩を叩かれた。



「まあ、怪我だけはするなよ」



 言いながら厩舎に入っていき、少ししてから出てきた。ちらと葵を見て、厩舎横の事務所に歩いていく。



「何しに来たの?」



「これからどう調教するかとかのミーティング。で、競龍場に調教に行くの」



 そういう動きになっているのか。右足を引きずって事務所に消える親次を見ながら、葵は掃除を再開した。ややあって厩舎から出てきた重連が事務所に入り、調教予定の競翔龍を表に出し終えた三砂が話しかけてきた。



「どう? 困った事あった?」



「大丈夫です」



 三砂は笑顔で頷いた。



「良かった。道の掃除だけど、暇を見つけたら取り合えずする。それぐらいの気持ちでいてね。大切な事だから」



 その念の押しように、葵は疑問を覚えて質問した。



「それはね、もし龍が石とかを踏んで肢の裏に傷が出来れば、運が悪いと壊死脱落、つまり脚が腐って取れちゃんだよ」



 肢が腐って取れる。想像するだけで身の毛がよだった。



「そうなると予後不良、安楽死になるかもしれないから、この厩舎の前以外でも石が落ちてたら拾ってあげてね」



 石一つでも馬鹿にできない。葵は深く頷く。



「さてと、今からちゃんと仕事教えるね。これからは教えながら私も一緒に作業をするから遠慮なく頼って。じゃ、着いてきて」



 三砂に続いて厩舎の中に行き、空になった龍の個室である龍房に入る。



「ここの掃除をしてもらいます」



 三砂がばっと両手を広げる。そこは、中に入ると一層広く感じた。



 面積は二十メートル四方、高さは十五メートルほどの大きな空間だ。隅にはプールのような水浴び場があり、それ以外の床には何層にも重ねた人工芝が敷かれている。龍房の前部と後部は鉄格子になって風通しが良いからか、想像していた動物園のような獣臭さはほとんどしなかった。



「基本的にする事は三つ。人工芝の入れ替え。水浴び場の掃除と水の張替え。壁と床は汚れがあったら落とす」



 手順は単純だが、広さが広さだ。一つの龍房を掃除するだけでどれだけの時間が掛かるか。嫌ではないが、想像すると気が重くなる。



「大丈夫大丈夫」



 葵の内心を察したのか、三砂が笑って手を振った。



「広いけど龍房はそんなに汚れないから、それに毎日するってわけでもないし。今日は私も手伝うからちゃちゃっと終わらせよう」



 最初に水浴び場の水を抜き、汚れた人工芝を丸めて外に出す。一つ一つは結構な重さだ。葵は直ぐに汗水垂らして息を乱した。隣で作業する三砂は慣れているだけあって、表情を崩さず仕事をこなしている。



「葵ちゃんは、バンブルフットって知ってる?」



 ふと、三砂が聞いてくる。フットという事は、肢に関わるものだろうか。葵は手を止めて知らないと答えた。



「脚の病気の事。野生の龍に比べて競翔龍はほとんど地面に肢を着けてるから、肢に疲労が溜まるんだよ。で、肢の裏が蜂に刺されたみたいに腫れるから、バンブルフット。日本語だと肢瘤症だったかな。最悪は脚を切断しなくちゃならないから、これも予後不良の原因になる。だからこうして、何枚も人工芝を敷いて肢を保護してるってわけ」



 やり過ぎにも思える何枚にも重ねた人工芝にはそういう意味があったのか。流石に五層もあるとふかふか過ぎて人間には歩きにくいが、一トンを超えるという体重の龍にはこれくらい必要なのだろう。



 まもなく汚れた人工芝を出し終えた。次にデッキブラシは握る。水浴び場と龍房の壁と床の掃除だ。しかし壁と床は奇麗なもので水浴び場の掃除が主になり、二人が掛かりもあって直ぐに終わった。それから水浴び場に水を張り、新しい人工芝を敷いていく。



「後は外に出した汚れた人工芝の掃除だけど、これは専門の業者の人がいるから、厩舎の前に置いとけば良いから」



 丸めた人工芝を台車に乗せて表に出た。繋いでいた競翔龍は調教に行って辺りはがらんとしている。厩舎の隣にある人工芝置き場のような場所に行って人工芝を下すと、それで龍房の掃除は終わった。



「ね、簡単でしょ?」



「はい。何とかなりそうです。他にどんな仕事があるんですか」



「後は、食餌の準備かな。正直こっちの方が面倒臭いと思う。今さらだけど、丸々一羽の鶏を解体するのに抵抗とかってある?」



 鶏の解体。血や生肉は平気かという意味だろうか。



「それは大丈夫だと思いますけど、大変なんですか」



 三砂は気弱な唸り声を漏らした。



「骨をね、小さくしないといけないんだよ。小さいって言っても龍の躰は大きいからそこまで小さくしないで良いんだけど、尖ってたりしたら危ないから結構気を使うし、それなりに体力も使うかな」



 力仕事か。それで思い出すが、この厩舎には調教師の一萬田重連、騎手の親次、厩務員の三砂と葵、その四人しかない。通りすがりに見た他の厩舎は十人以上厩務員がいるところも珍しくなく、一萬田厩舎と違って男手もあった。



「この厩舎って、他に人はいないんですか」



「いないよ。ここはお爺ちゃんがほそぼそとやってるところだから、厩務員は私たちだけ。龍も五騎しかいないし、私が高校に入って手伝うようになるまでお爺ちゃん一人でやってたぐらいだから」



 一人で厩舎を切り盛りしていた。調教師の仕事はまだ分からないが、いくら龍が少ないとは言え一人ではとてつもなく忙しいだろう。



「ま、龍は危険だけど手間自体はそんな掛からない生き物だから。……あれ?」



 不意に、三砂が山頂に眼を向けた。何騎もの龍が飛んでいる。その内の一騎を、三砂が指差した。



「親次君かな、あの赤いの。あ、やっぱりレッドマーモセットだ。おーい」



 三砂は声を抑えて、腕を大げさに振る。距離もあって反応はない。そもそも親次はこちらを見てもいないだろう。



 葵は、親次の扇山競龍場での初騎乗を思い出した。



 親次は今、騎乗に必死の筈だ。杖こそ使わなくなったが、それでも右足はまだ不自由でぎこちなく、右手に至っては全く動かない。乗ると言うよりも、捕まっているという感じだろう。



「チカってどうなんですか。その、騎手として」



 三砂は手を下ろし、神妙な顔付きで空を眺めた。



「上手かったんだろうな、お爺ちゃんはそう言ってた」



 上手かった、過去形だ。



「前みたいに乗れるようになると思いますか」



「分かんないよ。私だって龍に関わり始めて六年目、最近になってようやく一騎の龍を任せられるようになった新米なんだから」



 それもそうか。葵は納得しかけて、三砂の言葉に遅れて驚いた。



「六年も掛かったんですか!?」



 途端、三砂は頬を膨らませた。



「言っとくけど、私がマヌケって意味じゃないからね。お爺ちゃんが危険だからって言って、許可してくれなかっただけだから」



 六年目でようやく一騎の龍を任せられるようになった。葵が厩務員として龍の世話する日は、どうやら来なさそうだ。残念だが仕方ない。



 それにしても、何かにつけて龍は危険だと言われるのが引っ掛かった。一萬田厩舎には三騎の龍が調教に行かずに残っているが、どの龍も大人しそうにしている。その巨体が暴れれば確かに危険だが、口酸っぱく言われるほど危険とも思えない。



「龍って、そんなに危険なんですか」



「本当に危ない子は競翔龍になれないから、基本的には安全だよ。それに龍はヒトの次に頭が良いから、自分の強さを理解してる。よっぽどしつこく嫌がらせをしない限り怖がる必要はないかな。でも、あの大きさだから。陸上なら象だって狩るし、海だって滅多にないけどシャチやクジラを狩ったっていう記録もあるんだって」



 象やシャチ、クジラを狩った。龍もそれらに比肩するほどのサイズである事を考えると納得は出来るが、それでも驚くほかなかった。



「生き物の王様ですね」



 三砂は微笑んだ。



「うん。だからこそ、龍が暴れたら止められない。だから葵ちゃんも、しばらくは自分を龍に慣れさせてね。良い? 自分が慣れるんじゃなくて、自分の存在を龍に慣れさせるのが大事だからね」



 独特な言い方だ。怯えとは違う、どこか敬っているような響きだ。葵はその言葉を心の中で繰り返し、それから返事をした。



「うん。じゃ、次は食餌の準備ね」



 それは仕事というより、ストレス解消だった。



 取り出した骨を鉈で割っていく。余りにも尖ったものは細かく砕くが、ほとんどは力任せに鉈を振り下ろすだけ。力仕事であってもスポーツをするような爽快感があり、用意された数十羽の丸鶏の解体を終えても休む必要も感じなかった。



「すみません」



 不意に声を掛けられ、前掛けを血で汚した葵は鉈を振るう手を止めた。スーツを着た男が調理場の入り口に立っている。葵のスプラッターな姿を見ても涼しい顔をして、手には水滴のついた傘を下げていた。



 その時になって、葵は雨に気付いた。



「こんなところまで入ってきてすみません。人がいなかったものですから。申し遅れましたが、私は中央競龍会のものです。戸次親次騎手はいらっしゃいますか」



 どう答えようか迷った。



 親次は随分前に調教を終えて戻ると、葵のいる厩舎の中央にある調理場に顔を見せ、事務所で仮眠を取ると言っていた。



 仮眠を取る。以前の親次なら考えられない事だ。それだけ今の躰では調教が堪えるのだろう。休ませてあげたいが、中央競龍会の人間に嘘を吐いて追い返すのも躊躇われる。



「……多分、事務所で寝てると思います」



 もしかすると墜落に関わる事かもしれない。悩んだ末に正直に言うと、中央競龍会の男は礼を言って事務所を再度訪ねていった。



 葵は食餌の準備に戻る。残りも少なく直ぐに終わり、人間の昼食の材料を買いに行っていた三砂が帰ってくる。



「一人にしてごめんね。後は私がするから休んでて良いよ」



「いえ、最後までしますよ」



「良いよ良いよ。初めてで疲れたでしょ? 傘は入り口のところに置いといたからそれ使って」



 無理に断る事もないか。それに親次と競龍協会の人がどうなったのかも興味がある。葵は三砂の言葉に甘えて調理場を後にした。



 傘を差して事務所に歩いていくと、先ほどの中央競龍会の男が出てきた。葵に一礼して急ぎ足で去っていく。早い帰りだ。一体、何の話をしていたのか。葵は事務所の休憩室に入る。親次は、難しい顔で競龍のレース映像を見ていた。



「今の人、お見舞いに来たの?」



 PCモニターに眼を向けたままの親次の眉間に、深い皺が刻まれた。明らかに不機嫌そうだ。その口から出た声もいつもより低かった。



「そんなわけないだろ。騎手免許の話だ」



「免許って、資格の事?」



「ああ。地方競龍で乗るなら地方の騎手免許、中央競龍で乗るなら中央の騎手免許が必要になる。で、原則二つの免許は同時に持てないんだよ」



 免許については分かったが、状況については良く分からない。



「つまり、どういう事?」



「俺は二つとも持ってるから、このまま地方競龍に乗り続けるなら中央の免許を返納しろだとさ」



「返納したの?」



 親次は鼻から息を吐いた。



「まさか。俺がここにいるのはリハビリだ。近いうちに中央に戻るのに返納なんかできるわけない。追い返したに決まってる」



 ようやく状況が分かった。幸い怒鳴り合いにはなっていないようだ。葵は一安心して親次の隣に座った。



「また来るんじゃないの?」



「来るよ。地方から中央に移籍する事はあっても、その逆は前例が無かったから今日は何とかなった。けど、中央の免許が強引に取り消されるのは眼に見えてる」



 親次の眼はレース映像に向いていたが、明らかに集中できていなかった。指は苛立ちを紛らわすように小刻みに動き、膝を何度も机の脚にぶつけている。



「……時間がねえ」



 雨は勢いを増し、瞬く間に土砂降りになった。

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