オオカミの心、ウサギ知らず

 ウサギの耳つきのカチューシャをつけた柚子は、「おいしい〜」と目を細めて長いチュロスをかじっていた。ハロウィーン限定のパンプキンチュロスは、このエリアでしか売っていないものだ。幸せそうに微笑んでいる柚子の顔を見ながら、ちゃんと下調べをしてきてよかった、と思う。

 今日の柚子はうっすらと化粧をしているらしく、頰がいつもより明るいピンクに染まっていた。長い睫毛はくるりとカールしていて、瞼の上になにかキラキラしたものがついている。柚子はいつのまに化粧を覚えたのだろうか。おれにいじめられて泣いていた幼馴染が、おれの知らない女性になっていくようで、なんだか寂しいような気もした。


「……おまえ、さっきキャラメルポップコーンも食べてなかったっけ。よく食うな」


 そんな内心の屈託を悟られないよう、おれはわざと軽口を叩いてみせる。柚子は「うっ」と言葉を詰まらせた。不安げに眉を下げて、柔らかそうなほっぺたをむにむにと軽くつまんでいる。


「たしかにちょっと太ったの……最近、花梨先輩とお菓子ばっかり食べてるから。先輩はあんなに細くてきれいなのに」

「……柚子は丸くて可愛いよ」

「もう! じゃあ、朔ちゃんも丸くなって」


 むくれた柚子にチュロスを差し出されたので、おれは細い手首を掴んで引いた。彼女の手ずからチュロスをかじる。「うまい」と言うと、柚子は嬉しそうに頷いた。

 すれ違った女子の四人組が、チラリとおれたちに視線をやって通り過ぎていく。傍から見ると、人目を憚らずイチャつくバカップルにでも見えるかもしれない。別に見えても構わない。

 半ば父に押しつけられるようにして手に入れたチケットだったが、来て良かった。オオカミの耳をつけるのは照れくさかったが、柚子がつけろと言うなら仕方がない。柚子が楽しんでいる姿を見るのは純粋に嬉しいし、おれ自身もかなり楽しんでいる。


「次どうする? 五時からショーだけど、まだかなり時間あるだろ。あっちでグリーティングやってるけど、行ってみる?」


 おれの提案に、柚子はチュロスを咥えたまま「うーん」と唸った。もぐもぐと咀嚼し飲み込んでから、おずおずと口を開く。


「……朔ちゃんは、乗りたいものないの?」

「へ?」

「もしかして朔ちゃん、ああいうの乗りたいんじゃないの? 好きでしょ?」


 柚子が指差したのは、猛スピードでぐるりと一回転するジェットコースターだった。キャアだかギャアだかよくわからない悲鳴がここまで聞こえてくる。

 柚子の言う通り、おれは絶叫系アトラクションがかなり好きだ。幼い頃ここに来たときは何度も何度も乗りたがって、付き合わさせられた両親は相当げんなりしていた。あのときの柚子は一度もコースターには乗らず、ご機嫌にはしゃいでいるおれを下から見上げているだけだった。たぶん、あまり得意ではないのだろう。


「いや、いいよ。柚子ああいうの無理だろ」

「そ、そうでもないよ」


 柚子は自信なさげに「たぶん」と付け加えた。そういえばウォータースライダーは案外平気そうにしていたし、そこまで苦手ではないのかもしれない。それでも、柚子をおれの趣味に付き合わせるのは気が引ける。


「別に気遣わなくていいよ」

「なんで? 朔ちゃんはいつもわたしのこと気遣ってるのに?」


 そう言って、柚子はしょんぼりと下を向いてしまった。どうやら悲しませてしまったらしい。おれは慌てて、柚子の顔を覗き込む。


「別に、気遣ってるわけじゃねーよ」

「……朔ちゃん、いつも無理してわたしに合わせてくれてるよね……」


 悲しげに呟いた柚子に、おれは強い口調で「そんなことない」と言った。おれはいつだっておれがそうしたいから柚子を優先しているだけで、無理をしているつもりはこれっぽっちもない。

 電車の乗り換えを調べるのも、柚子の好きそうなアトラクションやスイーツを探すのも、ショーやパレードの時間を確認するのも、全部、柚子の笑顔が見たいがためにやっていることだ。……あと、柚子に「すごい、かっこいい」と思われたい、という下心も当然ある。

 そういう気持ちを、今のおれはまだ柚子に伝えることができない。おれが何も言えずにいると、柚子は悲しげに下を向いたまま、チュロスをさくさくと食べている。細長いチュロスをきれいに食べ終わった後、ぐしゃりと包み紙を握りしめた。


「……やっぱり、乗ろうよ。わたし、大丈夫だから」

「うーん……じゃあ、行くか。直前でやっぱ無理ってなったら言えよ」

「うん」


 頷いた柚子の手を引いて、おれはジェットコースターへと足を向ける。絶叫マシンに乗るのは久々だ。まるで断末魔のような金切り声が聞こえてくるたびにワクワクして、つい足早になってしまった。



 そういえばおれは昔から、人の嫌がる顔を見るのが好きな子どもだった。ギャーギャーと周囲から響く悲鳴を聞きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 猛スピードで走り回るコースターはかなりスリリングで楽しかったが、おれが何より好きなのは怖がっている人間の顔を見ることだった。こればかりは、悪趣味だと言われても仕方がない。

 びゅんびゅんと風を切るコースターに乗りながら、おれは隣にいる柚子の様子ばかりを窺っていた。彼女はぎゅっと固く目を瞑ったまま、微動だにもせずしっかりとバーを握っていた。怖がる顔が見れるかと思っていたのに、ちょっと残念だ。

 おれに支えられながらコースターから降りた柚子は、思っていたよりもケロッとしていた。乗っている最中は一言も声を発さないので心配になったものだが、それほど顔色は悪くない。


「怖かった?」

「だ、大丈夫!」


 おれの問いに、柚子は力いっぱい答えた。ぶんぶんと両手を振り回すと、「ほらね!」と得意げに言われて、おれは思わず吹き出した。なにが「ほらね」なのか全然わからない。


「わたし、朔ちゃんが思ってるよりも頑丈だよ」

「……わかってるよ」

「わたしは大丈夫だから、朔ちゃんはしたいこと我慢しないでね?」


 そう言って小首を傾げた柚子に、おれは思わず生唾をごくりと飲み込んだ。

 柚子は本当に、こういうことを他意なく言ってのけるところがタチが悪い。我慢しないでね、だなんて、思春期の男に間違ってもそんなことを言ってはいけない。おれは柚子に対して無理をしているつもりはないが、我慢はそれなりにしているのだ。おれはぶんぶんと頭を振って、余計な煩悩を追い払った。


「ね。たぶん、あの滝の上から落ちるやつも乗れるよ」

「……いや、やめとく。そろそろショー始まるし、見ようぜ」


 おれは湧き上がった欲をやんわりと押し込めると、できるだけ優しい笑みを取り繕う。

 ギリギリの時間になったせいか、ショーを見るのに良さそうな場所は満員になっていた。柚子は小柄だし、人が前にたくさん立っている場所はやめておいた方がいいだろう。半ば本気で「肩車してやろうか」と言ったのだが、全力で拒否された。


「ここにしようよ。あんまり人が多いと疲れちゃうし」


 柚子はそう言って、少し離れたところにあるベンチに腰を下ろした。特等席とは言い難いが、多少遠くともなんとか見えそうだ。おれも柚子の隣に座る。

 少しずつ日は暮れかけていて、周囲はやや薄暗くなっていた。あまり遅くならないうちに、きちんと柚子を家まで送り届けなければならない。ショーが終わったら土産を買って帰ることにしよう。

 アトラクションに乗るために外していたウサギの耳を、柚子はいそいそとつけ直している。じっとこちらを見つめて、「朔ちゃんはつけないの?」と言われた。こうなると、おれには耳をつける以外の選択肢はない。リュックにしまっていたオオカミの耳を出して、頭に装着した。

 それにしても、オオカミのジョナサンとウサギのエミリーは「仲良しカップル」らしいが、肉食獣と草食動物の交際には問題がないのだろうか。そんなこと、気にするだけ野暮か。


「朔ちゃん、かわいい」


 おれの耳に触れながら、柚子が笑う。おまえの方がよほど可愛い、と考えながら、長い耳を引っ張ってやる。


「ちょっと寒いね。わたし、ストール持ってきたの」


 そう言って柚子は、背負っていたリュックの中から紺色のストールを取り出す。いそいそと広げて、「結構大きいから、一緒に使えるよ」と微笑んだ。おれたちは身を寄せ合って、大判のストールに包まる。ぴたりとくっついてきた柚子は、おれの肩にこてんと頭を預けた。かなり距離が近いので、心臓の音が聞こえないかと少し不安になってしまう。

 ジェットコースターに乗ったせいか、柚子の前髪が僅かに乱れていた。直してやろうと手を伸ばすと、はっとしたように両手で前髪を押さえられる。おれは慌てて手を引っ込めた。

 分厚い前髪に隠れた傷の存在を、おれが忘れるわけにはいかない。調子に乗るな、と自分で自分を戒める。いくら時間が経とうとも、おれが彼女に残した傷が消えることはないのだ。

 すぐそばにあるふわふわとした髪から、甘い匂いが漂ってくる。肘のあたりにぶつかる胸はふにゃふにゃと柔らかい。柚子の方が、ポップコーンよりもチェロスよりもよほど美味そうだ。「ショー始まったよ」とはしゃいでいる可愛いウサギは、飢えたオオカミの隣で無防備に笑っている。

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