夏の魔物②

 おれが柚子のことを「女の子」なのだと意識したのは、おそらく中学二年の夏のことだと思う。

 中学の頃は、夏になると体育で水泳の授業があった。カナヅチの柚子は、毎年それをひどく憂鬱がっていた。当時のおれは柚子と同じクラスだったので、「おれが泳ぎ教えてやろうか」なんてことを言っていた。


「朔ちゃんがいるのは嬉しいんだけど……プールが男子と一緒なの、ほんとは嫌なの」

「なんで?」

「なんか男の子って……変な目でじろじろ見てくるんだもん」


 そう言って柚子は、憂鬱そうに溜息をついた。そのときのおれには、柚子の言葉の意味が今ひとつ理解できず、黙って首を傾げていた。

 当然だが、水泳の授業になると男子も女子もスクール水着を着ることになる。クラスの男連中は、女子の水着姿を盗み見ながら「誰の胸が大きいか」という下世話な噂話をしていた。おれは他人事のようにぼんやりとそれを聞き流していたのだが、耳に飛び込んできたのは予想外の名前だった。


「蓮見、チビのくせに意外と胸でかいよな」


 今まで柚子がこういった話題の槍玉に挙げられることがなかったので、おれは衝撃を受けた。思わずプールサイドの反対側にいる柚子に視線を向けると、彼女はニコニコと笑みを浮かべて手を振ってくる。

 ぺたんこだったはずの彼女の胸元は、いつのまにかふっくらと膨らんでいた。制服姿だとあまりわからないけれど、水着を着ると顕著だ。クラスメイトはそんな柚子を見て、あれやこれやと卑猥な単語を並べている。

 おれは愕然とした。おれに泣かされてばかりいた小さな柚子が、同級生の男に性的な視線を向けられている。

 気付けばおれは、ヒソヒソ話をしていた男を二人まとめてプールに蹴り落としていた。教師からはこっぴどく叱られたが、おれは何の言い訳もしなかった。落とされた奴も何も言わなかったので、結局「ふざけた男子同士の些細な諍い」ということで片付けられた。柚子にも理由を問いただされたが、おれは絶対に口を割らなかった。

 おれがあいつらに腹を立てたのは、他でもないおれ自身の中にも、似たような欲が潜んでいることに気がついてしまったからだ。

 その日の夜、他人には言えないような夢の中に柚子が出てきた。おれがよく知る柚子は、夢の中ではおれの知らない女の顔をしていた。翌朝、おれは柚子の顔がまともに見られなかった。

 可愛い可愛い柚子は、心の底からおれのことを信頼している。おそらくおれが柚子に対して妙な欲を抱えていることなんて、想像もしていないだろう。おれだって一皮剥いてしまえば、あいつらとまったく同じ男なのに。そんな自分を、おれは柚子にだけは知られたくない。



「朔ちゃーん、早く早く」


 ポニーテールを揺らした柚子はいつもよりはしゃいでいて、満面の笑みでおれの手を引いている。「コケるなよ」と声をかけたそばから足を滑らせていたので、おれは慌てて彼女の身体を支えた。


「おまえな! まじで、ケガだけはすんなよ」

「う、うん……ありがとう」


 おれの腕の中で、柚子は頰を染めて俯いた。おれは柚子の手をしっかりと握ると、足元に気をつけながら歩き出す。

 家族連ればかりだと思っていたのだが、意外とおれたちと同世代の若者も多い。やんちゃそうな男子四人組が柚子の方に下卑た目を向けているのに気がついて、おれは柚子を背中に隠して睨みつける。これだから、柚子に露出の高い水着を着せるのは嫌だったのだ。

 中学二年の夏から、おれは柚子に対してますます過保護になった自覚はある。柚子のスタイルをからかう奴には容赦なく制裁を加え、一度柚子が変質者に遭遇してからは、毎日登下校を共にするようになった。柚子に性的な視線を向ける奴のことが許せなかった。他でもない、おれ自身に潜む欲は棚に上げて。

 ぱしゃんと飛沫を立てて飛び込んだ水の中は、思っていたよりもぬるかった。浮き輪を持った柚子がおれに続いてプールに入ると、おれよりも小さな飛沫が跳ねる。ひとまず柚子の身体が見えなくなって、おれはちょっとホッとした。


「ぬるいねー」


 おれと同じ感想を抱いたらしい柚子は、ぷかぷかと浮かびながらへらっと笑った。小さい頃、自宅の庭に小さなビニールプールを出して、柚子と二人で遊ばされていたことを思い出す。あの頃のおれは、嫌がる柚子の顔に水をぶっかけては泣かせていた。あれから柚子は、水面に顔をつけるのも嫌がるようになった。……もしかすると今も柚子が泳げないのは、おれのせいなのかもしれない。


「えいっ」


 そんなおれの罪悪感を跳ね飛ばすように、柚子がばしゃりと水をかけてきた。顔面に直撃した水を拭って、おれは柚子の浮き輪を掴む。


「このやろう。沈めてやろうか」

「きゃーっ」


 楽しげな声をたてた柚子は、きっとおれが本気ではないことをわかっている。今のおれは、柚子が少しでも嫌がることは絶対にできないのだから。

 柚子の手が、濡れて額に張りついたおれの前髪をかき上げる。ちっとも濡れていない柚子の分厚い前髪は、おれが残した傷跡をきれいに隠してくれていた。



 ウォーターパークの目玉であるウォータースライダーは、行列に並んだ甲斐があってかなり楽しかった。柚子も口では「怖かったあ」と言いながらも、案外平気そうだった。一足先にプールサイドに上がったおれは、柚子の腕を掴んで引き上げる。


「すげー面白かった! 柚子、もっかい行こうぜ!」

「ま、待って……ちょ、ちょっと休憩しようよ」


 ふらつく柚子を見てはっと我に返る。しまった。柚子のことも考えず、つい童心に返ってはしゃいでしまった。おれは柚子をパラソルの下のベンチに連れて行って座らせる。


「ソフトクリーム食う?」

「食べる……」

「買ってくるから、絶対ここから動くなよ」


 柚子は素直に首を縦に振った。上からの角度だと、胸の谷間が強調されてますますやばい。おれはベンチに置いていた自分のパーカーを柚子に着せて、ファスナーを一番上まで上げた。よし、これなら大丈夫だろう。

 売店に向かったおれは、ソフトクリームをふたつ購入した。柚子はチョコレート味を選ぶだろうと思ったのだが、念の為もうひとつはバニラ味にした。柚子が選ばなかった方を、おれが食べればいい。

 足早に柚子のところに戻ると、何やら水着姿の男に声をかけられている。柚子は困り果てた様子で目を泳がせて、パーカーの裾を握りしめていた。くそ、ちょっと目を離すとすぐこれだ。

 おれは舌打ちをして、ずんずんと男の元へと歩み寄った。がしりと肩を掴んで、なるべく低い声で威圧する。


「おい、何か用……」


 そこで振り向いた男の顔を見て、おれは「あっ」と声をあげた。柚子に声をかけていたのが、クラスメイトの白河だったからだ。白河は特に驚いた様子もなく、呑気に「よっ」と片手を上げる。


「やっぱ高辻も一緒だったのかー」

「……おまえ、なに柚子のことナンパしてんだよ」

「ナンパじゃねーって! 知ってる顔見かけたから、声かけただけじゃん! な、蓮見さん」

「う、うん……」


 柚子は不安げに瞬きをすると、助けを求めるような目をおれに向けてくる。柚子はおれ以外の男子のことが基本苦手だ(どうやら王子は例外のようだが)。おれは白河と柚子のあいだに強引に割り込んだ。


「白河、こんなとこで何やってんの?」

「クラスの奴らと遊びに来てんだよ。高辻、クラスLINE見てねーの?」


 そういえば、夏休み前にそんな話題が上っていた気がする。一応既読はつけていたが、興味がないので特に反応していなかった。「あー」と生返事をしていると、背中から勢いよく何かに抱きつかれた。


「高辻くん! 来てたんだー!」


 ぎょっとして振り返ってみると、黒いビキニ姿の三橋がおれに抱きついていた。腰のあたりに腕を回されて、無遠慮に身体を寄せてくる。

 三橋は柚子に負けずにスタイルが良かったし、露出の高い水着姿の女子に抱きつかれるのが嬉しくないわけではない。が、あまり柚子に見せたい光景でもない。おれがやんわりと引き剥がすと、三橋は不満げに頬を膨らませた。


「……あ。幼馴染ちゃんも一緒なんだ。ふーん」

「こ、こんにちは……」


 柚子がそう言ってぺこりと頭を下げたので、三橋も「こんにちは」と挨拶を返していた。ふたりの視線がかち合ったその瞬間、バチバチと火花が散った気がした。なんだか妙な雰囲気が漂っている。三橋はどうやらおれに好意を抱いているらしいが、柚子に妙な火の粉がかかるのは絶対に避けたい。


「ねえ高辻くん、せっかくだし一緒にウォータースライダー乗ろうよ!」


 三橋はそう言って、甘えるようにおれの腕にしなだれかかってくる。白河はおれの手からソフトクリームを奪い取ると、柚子の隣にどかっと腰を下ろした。


「いいじゃん、行って来ればー? オレ、蓮見さんのこと見といてやるから」


 おれが思わず柚子の方を見ると、柚子は強張った表情でこちらを見上げていた。人見知りの柚子が、ほぼ面識のない男と二人で平気なはずもない。その瞳の奥に不安げな色を見つけて、おれはすぐにかぶりを振る。


「どけ白河。そこ、おれの場所」

「えーっ、柚子ちゃんと交友深めようと思ったのにー」

「誰に許可取って名前で呼んでんだ。あと、アイス返せ」


 おれは白河の手からソフトクリームを取り返すと、しっしっと奴を追い払った。白河は「ちぇーっ」と唇を尖らせると、クラスメイトの輪の中へと戻って行く。三橋は軽く柚子を睨みつけた後、「またね」と言って去って行った。


「柚子、バニラとチョコどっちにする」

「チョコがいい……。ねえ朔ちゃん、行かなくてもよかったの?」


 予想通りチョコレート味を選んだ柚子が、おずおずと尋ねてきた。おれは柚子にソフトクリームを手渡しながら答える。


「いいよ。今日は柚子と遊びに来てんだし」

「ごめんね」


 柚子はしゅんと眉を下げたが、本当はおれがここに居たかっただけなのだ。柚子の水着姿を、おいそれと他の男に見せたくもない。パーカーを着せておいてよかったな、とおれは思う。

 柚子は赤い舌でソフトクリームをぺろりと舐めると、「甘くておいしい」と微笑んだ。おれは横目でそれを眺めている。ぶかぶかのパーカーが身体のラインを覆い隠していたけれど、裾から覗く白い太腿が妙にエロい。隠されている方が、その下にあるものを想起させて妄想を掻き立てるものなのだ。

 ……前言撤回。やっぱりパーカー着せたの、失敗だったかも。

 おれはやや溶けかけたソフトクリームにかぶりつきながら、なんとかして合法的に白河の記憶消せねーかな、と物騒なことを考えていた。

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