穿て壊て破け

湊川晴日

第1話

【一章】


伊波は四角く切り取られた術野の前に立っていた。

患部は患者の左耳の後ろのあたり。短く刈りそろえられた患者の髪の毛が見える。伊波はマジックで引いたような黒い切開のラインの端に、力を入れてズブリとメスを刺す。傷の深さは一定でないと、あとでまた切り直さなければならず、傷がガタガタになってしまうからだ。

ボイパーラーというピンセットのような道具で、出血点を焼きながら、一息に奥まで皮膚を切り裂く。傷口をへらのような道具でぐぐっとと剥がし、クリップで固定すると、側頭筋膜が現れる。

筋肉は骨に強固に張り付いているので、モノポーラという電気メスで剥がしていくと、焦げ臭い匂いがする。ようやく、頭蓋骨が現れる。電動のドリルで骨を切り、卵の薄膜のような硬膜を切り開けば、手術の準備は完了だ。

「開頭終わりました」

すぐ近で手元を見ていた、脳神経外科外科部長の青島が、2センチ程の頭蓋骨に開いた穴に顔を寄せる。手術ガウンがすれ、しゅるりと音がする。

「開頭が2ミリ大きい。あとここを内側に向かって広がるように削る」

「はい」

青島が重く響く声で言った。伊波は鋭匙を受け取りながら、もう一つのベッドの方をちらりと見た。今日は2台のベッドが手術室に並んでいる。三叉神経痛と顔面けいれんの患者の同時手術だった。いつもより大きな手術室を使っていたが、それでも狭く、圧迫感を感じた。

研修医の西藤も伊波と同じように、開頭をしている最中だった。上級医の五日市が、最近はやっているグラビアアイドルの年齢はぜったいに嘘やで、と話す声が聞こえる。今日の手術は、青島と五日市、研修医の西藤、そして伊波直人というメンバーだった。青島が執刀医で、五日市が第二助手。頭蓋骨を開けて閉じる、開頭閉頭の作業は、伊波と西藤の役目だ。あとはいつものメンバーで、機材を渡す器械出しの看護師、外回りの看護師、麻酔医、検査技師だ。彼らも忙しく手術台の周りで動いている。機械だし看護婦が道具を滅菌されたビニールから出すカシャカシャという音。そしてモニターのピッピッと言う音がずっと鳴っている、

「伊波、見ろ」

術野の上に、ビニールでぐるぐる巻きにされたクレーン車のような電子顕微鏡が設置されている。青島が電子顕微鏡をのぞき込みながら、伊波に声をかけた。モニターに写っているのは、脳表から13センチ程の深さを、10~20倍に拡大した世界だ。

頭蓋骨に開いた穴は、1円玉程度の大きさだ。これはとても小さい開頭と言えた。小さな穴から手術すれば、もちろん患者の回復が早い。しかし、必要とされる技術は格段に上がる。青島の技術は高く、他病院からも出張手術を頼まれる程だ。見学に来る医者も後を絶たない。青島はモニターを見ながら言った。

「手術は何回も見てるな」

「はい」

「ここからさきはおまえがやれ」

「はい」

伊波は身体の中心がぞわりと震えるのを感じなら、内視鏡を受け取った。初めての症例の時はいつもそうだ。伊波が視線を動かすと、強いライトに照らされた術野の残像がついてくる。伊波がゆっくりと内視鏡とマイクロハサミを穴に沈めると、太い静脈が見える。これを切ってしまうと小脳出血が起こることがあるため、脳をわずかに牽引し、静脈やほかの器官をずらすようにしてスペースを作っていく。

「神経の場所もよく確認しろ」

「はい」

「そやで伊波。前、新米がうっかり吸引管で滑車神経吸ってまって、その患者さん眼が常に上見るような状態になってんからな~」

隣のベッドから五日市の野次が飛んでくる。

気をつけます、と答えながら、伊波は電子顕微鏡のハンドルをすいと動かし、極細のバイポーラを進ませる。よし、と伊波は小さく息を吐いた。機械のどれかが立てるウィーンという音がやけに耳に響く。マスクの中で、自分の息づかいが煩い程だ。身体がどんどん熱くなっていくのを感じた。体中の血がサイダーになったような、しゅわしゅわした高揚した感覚。

顔面けいれん、三叉神経痛はどちらも、血管が神経を圧迫することで起こる。顔面けいれんはその名の通り、意図せずに顔がビクビクと引きつってしまう病気だ。三叉神経痛は会話や食事などのタイミングで誘発され、突発的な激痛が数秒続く。

手術法は単純で、神経を押してしまっている血管ループの位置を、神経に接触しないようにずらして固定してやればいい。しかし、方法は単純でも、手術は言う程簡単ではない。幹部にたどり着くまでには、大切な静脈や、聴神経、眼球の動きを司る動眼神経などを傷つけないように、細心の注意を払って進んでいかなければならない。

伊波が小脳を少し引くと、まず、太い静脈が見えた。上錐体静脈だ。普通、静脈は邪魔なら切っても良い場合が多い。だが、この静脈は切断すると、小脳梗塞を引き起こし、患者の意識がなくなることもある。伊波は静脈の周りに張り巡らされたくも膜を切り、静脈とそのまわりの血管を自由に動かせるようにしていった。こうすることで、小脳を牽引したときに血管をちぎってしまうリスクを減らすのだ。伊波はもくもくと作業を進めていたが、ふと作業を止め、内視鏡の視野を引いた。

目を見開き、血管と神経のうごめく脳内に目をこらす。様々な角度からゆっくりと術野を視認していくと、先ほど死角になっていた部分に、直径0.3ミリ程の細い穿通枝があった。くも膜にひっつくように、あみだくじのような不安定な形で血管が伸びている。伊波は全身の皮膚が泡立ち、次に冷たくなるのを感じた。穿通枝だ。穿通枝は細い血管だが、脳底の動脈から直接出ている。そして脳底の動脈は小脳や脳幹といった、生命活動に欠かせない部分にに栄養や酸素を送っている。穿通枝を引き裂くと、寝たきりになったり、最悪の場合死ぬこともある。伊波は心の中でほおっとため息をつき、くも膜を切り、血管を丁寧に術野の脇によけた。ねじれたりすると、術中に脳梗塞や脳出血を起こすこともあるから、慎重に行う。

脳の真ん中に向かう三叉神経を辿りながら、くも膜をさらに切っていくと、上小脳動脈が見えた。

真っ赤な、太いつやつやとした血管がぐるっと曲線を描いている。その一部が、真っ白い神経を押すように当たっている。神経は強く押されて平べったく伸び、血管に張り付いている。伊波はその奥にある滑車神経に注意しながら、周りのくも膜をさらに切った。血管が自由に動く鳴るようにつれ、神経を押す力も弱くなっていく。

伊波はふー、とマスクの中で小さく息を吐いた。瞬きをし、スクラブの中で少し肩を回した。背中が汗でひやりとした。

伊波が青島を見ると、いつもの無愛想な顔で頷いていた。何もを言われていないということは、このまま続行しても大丈夫、ということだ。

伊波はもういちど、機器を持って、ゆっくりと手を穴の中に下ろした。モニターを凝視しながら、血管を神経とは反対方向に注意深く移動させる。血管をテフロンのテープとフィブリン糊という手術用の糊で固定したら、手術は終わりだ。

「これで良いでしょうか」

青島は頷き、だまって伊波と場所を変わった。伊波は青島の横に立って、一緒にモニターの患部を確認する。青島の身長は183センチだ。こんなに大きな人間が、超繊細な手術をすることに、伊波はいつも不思議な感覚を覚える。青島が患部を確認するように内視鏡を移動させ、血管を止めているテープにわずかに触れる。

「ああ。大丈夫だ。テープの固定もしっかりしてる」

「ありがとうございます」

伊波の肩の力が抜け、ずしりと身体の重みを感じた。

「お、伊波終わったか」

「はい」

隣のベッドから五日市が声をかける。五日市の患者の、顔面けいれんの手術はもうとっくに終わっていたようだ。西藤が閉頭の作業を進めている。

「なんや、ものすごいほっとした顔しとるな」

そう言って五日市が身体を揺らしながらうきゃきゃと笑う。丸眼鏡が下に少しずれた。

「もっと手を抜くべきところとそうじゃないところを見極めないとあかんで。そうそう、前来た奴に、真面目すぎる奴がいてな。血管ひとつ凝固するのにものすごい時間をかけてたわ。あんまり長いと障害起きるでって注意したんやけど、そいつは他のことにも変なこだわりあってな。一日おきにおんなじ洋服着とんねん。白、黒、白、黒って――――」

「あ、そういえば。新しい先生来るんですよね。吾妻先生でしたっけ」

伊波は硬膜をちくり、ちくりと縫合しながら、話を逸らした。五日市の語りは長くなる場合が多いからだ。適当に選んだ話題だったが、五日市はにこやかな表情を一変させて言った。

「あ~、そういえば。あいつ来るの今週か」

伊波は穴の際に極小のドリルで穴を開ける。ここから糸を通して、硬膜をつりあげるのだ。

「青島先生と、五日市先生と、同期の先生なんですよね」

「青島はな。俺はただ、前にしばらく一緒に仕事してたってだけやで」

五日市が言った。青島はモニターからは目を離さずに、黙っている。五日市はこの病院に来る前も、青島と一緒に働いていた。青島がこの病院の脳外科部長に任命されて、五日市も一緒にこの病院に移ったらしい。本人は「無理矢理連れてこられた」と言っているが。

「でも、先生方が引き抜いたって事ですよね。だったら、その先生もきっとすごい先生なんでしょうね。どんな先生なんですか?」

五日市は苦い物でも食べたような、渋い顔になった。

「あんま期待せん方がええで」

「え?何でですか」

「まぁ手術は上手いけどな」

「手術が上手いなら、それで十分なんじゃ無いですか」

伊波がそう言うと、五日市はますます口を曲げる。筋肉を縫合していた西藤が五日市に言った。

「縫い目、この間隔で良いですか」

「ええで~」

どれどれ、と五日市が患部を見る。

「そや、縫合の感覚は狭くな。じーさんの筋肉は硬いから、血が漏れないようにせな」

伊波はその声を聞きながら、患者の一度除去した頭蓋骨の骨弁を受け取った。骨弁にチタンプレートが取り付けてある。伊波は四隅を極小のネジで固定していった。この金属は死ぬまで患者さんの頭に残るものだ。伊波はネジが落ちないように、注意深くネジを回していった。

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