昼休みと修羅場

「で、美咲先輩は何をご所望ですか?」

「女子生徒には選んだ飴を与えるくせに私には飴を選んでくれないのね」

 不満と皮肉が入り混じったそれに困りながら、しかし翼の顔にそれは見て取れず、少し言葉を考えながら即興で返答した。

「いや、生徒を導くのは俺たち教師の役目ですが、ヘタレの後輩を導くのは優しくて頼りになる先輩かと思いまして……。どうか付き合いの長いのに先輩のして欲しい事も分からない哀れな自分に欲しい物や事を教えてください」

 取り敢えず美咲に普段のお姉さんキャラに戻って貰う。自分でも何を言っているかよく分からないが、これが一番お姉さん心(?)を刺激する、筈だ……。

 年上でお姉さんキャラなのに教え子に嫉妬するし、こんな俺に何かと過剰に関わってくれる。あの時の見るに耐えない惨めな俺を彼女は何も言わずにただ救ってくれた。

 そんな美咲先輩だから俺は離れられないのだ。


 美咲先輩は本当に優しい。

 毎日美味しいと言ってご飯を食べてくれるし、捻くれ者の俺に今も昔も積極的に話しかけてくれる。

 本当は俺なんかに構っていい人なんかじゃないんだ。

 本当は俺のことなんか気にしないで言わなきゃいけないんだと思う。自分に見合う人を見つけて欲しい、自分のために生きてほしい、とか。

 だから俺なんかに囚われなくていいから「僕に構わなくていいんですよ」って言わないといけないのに……。

 ごめん、先輩の優しさに甘えてしまっていて。

 そんな擬かしさを抱きながら彼女の瞳を見る。

「そうだなぁ……じゃあ、今日のご飯はお姉さんの好物がいいなぁ」

 そう言った彼女の顔にはいつもの笑みは見て取れず、どこか悲しそうなそんな気がした。


 翼くんは本当に優しい。

 毎日美味しいご飯を作ってくれるし、私が聞いたことは絶対に詳しく教えてくれるし、嫌ごとを言いながら最終的にわがままも聞いてくれる。

 本当は私なんかが一人占めにしていい人なんかじゃないんだ。

 本当は私のことなんか気にしないでって言わなきゃいけないんだと思う。遊んで欲しい、自分の為に生きてほしい、とか。

 だから私に感じている小さな恩なんかに囚われなくていいから「あの時みたいに戻っていいんだよ」って言わないといけないのに……。

 ごめんなさい、翼くんの優しさに甘えてしまっていて。

「俺にできることならなんでもやりますよ」

 その言葉を境に曇っていた空模様も彼女の顔も晴々としていた。昼休みも終わり、再び沈黙が戻った保健室で一人。翼は大きく背を伸ばす。

「じゃあ、小倉が来るまでに仕事終わらせるか……。あと晩飯のメニュー考えなきゃいけないな」

 そう言いながらまた怠そうにデスクワークに戻る。ながらスマホ、ながら運転。人は複数の事を悪と見る傾向があるが、仕事は別だ。なんなら無理難題を何個も何個も押し付けてくるなんてよくある事だ。

 誰もが抱える言えない事はいつか言えるようになるのか。そんな事が頭を不意に過ぎる。そんな未来の話は言わない主義だが、願望で言えばそうなって欲しい。いつか胸を張って想いを打ち明けられるようになって欲しいと願っていた。


 嫌な時間とは不思議なことに時間経過が遅く感じ、逆に楽しい時間は早く感じる。

 しかし、この不思議な勘違いには例外がある。それは期日が迫った物事を血眼になって行う時だけはどんなに嫌な時間であったとしても楽しい時のそれと同じものになる。

 今日中に終わらせなければいけない仕事があり、更にあろう事か自ら放課後まで縮め、更に更に自らやる気なんて元々なかったが残業するという選択肢も潰えた。つまりあと授業三コマの間に仕事を終わらせなければならない。

 因みに現在仕事は半分も終わっておらず、明日までに全生徒に配布しなければいけない。なので、期日は今日中となっている。資料の作成のみならば一日遅れても怒られるだけで済むが、健康調査票の配布は遅れが許されない。遅れれば生徒のみならず、一日区切りで行われる健康調査を行うために呼んでいる業者に迷惑がかかる上にキャンセル料諸々でかなりロスが大きい。だが、一万を超える健康調査票を既に作り終えている資料と二枚組みにしてそれを学年と学科、制度別に分けなければいけない。長時間の資料作成の末に普段使わないこの貧弱な腕を酷使し続けると仕事効率の低下は免れない。それに仕事効率の低下を視野に入れずとも計算上放課後までに終わる可能性は限りなくゼロに近い。

 ただ、自分の優柔不断が引き起こした問題を後回しにするために啖呵を切って引き伸ばしたのだからそれすら守れないのは幾ら何でも嫌だった。柄にもなくダサいと思った。

 だが、現実はそんなに甘くない。翼の思考など気にも留めずに三時間あった時間も作業効率を落としながら着実に過ぎていき、気付けば最終コマの授業も終わり、保健室の扉を小倉が開けていた。

 訪ねてきた小倉が俺の方を見るなり何かを思い付いたように笑みを浮かべて「先生、まだ仕事残ってんの?」と言う。

「ごめんな、まだかかると思うから先に勉強始めててくれ。質問があったら呼んでくれ」

 目線はプリントに向けたままの状態で、しかし、しっかりと謝意が感じられる翼の謝罪を心地よく聴きながら彼女は何も言わずに声のする方に歩み寄っていく。

 そして互いの息遣いが、心臓の鼓動が聴こえるくらいの距離まで近づくと小倉は何かを諦めた様な声色で翼に提案をした。

「じゃあ、手伝ってあげるよ。私の目的は先生と過ごす放課後だから」

 不純な目的をオブラートに包みもせず、笑みを浮かべる彼女にどこか既視感を覚えながら少し考えて「頼む」と薄い茶髪を手櫛でくしゃくしゃにしながらそう言った。

 残りは一学年分。きっと翼一人で分けるなら放課後を終えてそのまま残業コースでもう三時間はかかるだろう。

 だが、流れ作業をすれば足し算以上に作業効率が上がるのは二四年の人生の中で知っている。

「手伝ってあげる代わりに明日も放課後ここに来てもいいですか? どうせ私の時間が終われば中村先生と約束があるんでしょ? これじゃ私使いパシリみたいだからいいですよね。優柔不断な翼先生☆」

 全てを見透かされた上での提案だと理解しながらもこの提案を断る余裕は今の翼にはない。

 コクコクと首で返事をすると、小倉は右手を突き出していかにも、やったー! と言わんばかりのポージングを決めて、保険調査票の分別を始めた。

 時間の流れは焦りの所為か早く感じ、放課後の約二時間はあっという間に過ぎた。小倉のお陰で無事保険調査票の分別は終わり、教頭に怒られることなく提出することができた。勉強を見てやる、という約束は守れなかったものの、小倉からの明日も来るという条件を呑んだので小倉的には満足らしい。

 青が混じった艶やかな髪を指先で弄りながら大きな二重の眼を見開いて女子高生相応の笑顔で翼と彼女以外誰も居ない保健室に居る。

 特に積もる話がある訳でもない。ただ、時間だけが過ぎていく。疲れのせいなのか俺も小倉も帰ろうとせず、ずっと向き合っている。それがむず痒くて視線を逸らしてしまった。

 翼も彼女もいつもと変わらない。髪型だって、服装だって何も変わっていない筈なのに気まずさを感じていた。彼女のいつもと変わらないその整った天然の外ハネワンカールも制服もあの人と酷似する部分なんてない。

 それなのに見慣れた筈の小倉の笑顔が今日はどうしてかあの人と重なってしまう。

 生まれつき鉄仮面の翼の顔が感情に乱され崩れてしまう。そんな状況に耐えられなかった。

 ––今日は厄日かな……?

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