【十一】後悔

 森野の左手をゆっくりと開くと、くしゃりと丸められた紙が握られていた。

 ピンセットでそれを引き抜き、机の上に置く。


「職務怠慢……?」

「うるさいよ……」


 ぼそりと呟いた多古島に釘を刺した。とはいえ、この見落としには少し落ち込んでいた。現場保存を優先し、遺体をできるだけ動かさないようにした結果だ。実際の現場では、全身をくまなく観察するので、このような見落としはあり得ないが……。

 そんなことを考えていても仕方がないと、鮎葉は気持ちを切り替えた。

 ワークデスクの上に置かれた一枚の紙きれに、全員の視線が注がれている。


「これは……芽々君のダイイングメッセージってことに、なるのかな?」

「どうでしょう」


 多古島は口元に手を当てて、考えるように言う。


「紙を握りこませるだけなら、死んだ後でもできます。森野さんが遺した物と断定することはまだできないかと」

「そもそも、この紙が白紙な可能性もあるわけだ。まずは広げて、中を確認してみようじゃないか」

「そうですね」


 鮎葉はゴム手袋をつけた手で、丸まった紙を広げた。

 ここにいる大方の人間が予想し、また半ば期待していた通り、中には達筆な筆致で、文字が書いてあった。

 一言。

 端的に。



『私は後悔している』



「どういうことなんだ……?」


 万知の言葉に、誰も答えることが出来なかった。だが恐らく、抱いていた気持ちは同じだっただろう。

 いったいこれは、どういうことだ?


「興味深いね。これが本当に森野さんの言葉なら、彼女は死ぬ直前、後悔していたことになる」

「だけどまだ分からないっすよ。犯人が森野さんを殺した後、その辺にあったメモに文字を走り書きして、森野さんの手に握らせた可能性だってあります」


 絵上がそう言うと、椎菜が口を開いた、


「それなら、芽々さんの遺言書と見比べてみてはいかがですか?」

「いい考えだ。舞花さん、遺言状を見せてもらえるかい?」


 なるほどと鮎葉は納得した。直筆で書かれた遺言状ならば、筆跡を確認することはできそうだ。メモ帳に残された文字はかなりの達筆で、癖もある。

 舞花が取り出した遺言状と、メモを見比べる。


「同じだね」


 万知が言った。

 ここにいる誰も、筆跡鑑定が出来る人間はいなかったが、それでも確信が得られるくらいに、筆跡は同じだった。メモに残された文字のうち、「後悔」以外の文字は全て遺言状の中に含まれていたので、それらを見比べることができたのも大きかった。


「つまりこのメモに書いてある言葉は、間違いなく芽々君自身の手で書かれたものだ、ということだね」

「で、でも……」


 霊山が口を開く。


「森野さんはいつ、これを書いたんですか……? 詳しいことは私には分からないですけど……く、首を切られたら即死、なんですよね?」

「そうですね。実際、今回の傷痕を確認する限りだと、切られてから死ぬまで、数秒というところだと思います」

「じゃあ、森野さんは犯人に、こ、殺される前に、このメモを書いていたことになります……よね?」

「だが、それも妙な話だ。普通に生活していれば、『私は後悔している』なんて文字を書く機会はないだだろう」

「そうだねえ。それに例えばこの紙が、何かもっと長い文章が書かれていた紙の切れ端だったというならまだしも、見たところメモ帳を一枚、この文章のためだけに切り離しているようだし」


 ワークデスクの上には、ブロックメモが置いてある。小さくメーカーのロゴが入ったシンプルなものだ。森野の手の中に握られていたメモは、そこから取られたものに違いなかった。

 絵上はスケッチブックと鉛筆を椅子の上に置き、興味深そうにメモを眺めつつ言った。


「だとしたら、考えられる可能性は一つじゃないっすか? 犯人が森山さんを脅して、これを書かせた。で、書き終わった後に殺して、手に握らせた」


 彼の言うことは至極もっともだった。しかし鮎葉には納得しかねる部分もあった。


「だったら、何のために犯人はそんなことをしたんでしょうか? それに、どうして文面が『私は後悔している』なんでしょうか?」


 鮎葉が疑問を口にする前に、多古島が言った。

 そう。絵上の説は、最も今の状況にそぐう内容だ。

 しかし、わざわざそんなことをした理由は一体何なのだろうか?

 明確な答えを返せる人間はいなかった。


 事件を複雑にするため。

 あるいは何かの芸術性を追い求めて。

 死の直前に、被害者に何かを書かせることに快感を得ていた。

 実は文面は何でもよく、彼女が死の直前に言葉を書いたと思わせること自体が、犯人の狙いだった……などなど、様々な憶測が飛び交ったものの、いずれもピンとくるものはなかった。


 森野が死の直前に残したと思われる、不可解な文章。

 そこに込められた思いは、果たして犯人の思惑によるものなのか、それとも、森野自身の言葉なのか。


「一人だけ、それを知ってる人がいますね」


 皆が黙って、多古島の言葉を待っていた。

 答えは既に、分かっていたけれど。


「この事件の犯人だけは、彼女がこのメモを残した真意を知っているんです」


 

 八人はダイニングルームに集まり、夕飯を摂った後、森野を殺害した犯人について話し合うことに決まった。

 森野の遺体を見た後にも関わらず、ほとんど全員が問題なく食事をとっていたことに、鮎葉は驚いた。自分は慣れているが、とはいえ遺体を見てからでも食事を取れるようになるには、かなりの時間を要した。唯一、霊山は少量だけ摂るにとどまったが、それでも固形物が喉を通るのは大したものだと思う。


 ちなみに、鮎葉の提言により、夕飯の前に持ち物検査が実施された。同性同士で持ち物と部屋の確認を行い、不審な物がないかをチェックした。犯人が返り血を大量に浴びていることは間違いないので、もしかしたら部屋のどこかから、血の付いた衣類が見つかるのではないかと考えたからだった。

 しかし残念なことに、それらしいものは見当たらなかった。犯人を捜すためには、別ルートからのアプローチが必要になりそうだ。

 食後のコーヒーに口をつけていると、多古島が話し始めた。


「それでは、状況を整理しましょうか」


 万知や砂金の提言もあって、話し合いは多古島が主導になって行うことになっていた。サポートとして鮎葉が入る。「私たちは慣れてますから」と言ったことが、印象に残っていたらしい。


「犯人を絞り込むためにまず知る必要があるのは、森野さんがいつ頃まで生きていたのか、ということです。私と先輩は、十六時過ぎから十六時四十分頃まで、森野さんとお話していました。ですので、森野さんが殺されたのは、これ以降ということになります」

「それ以降に、芽々さんと会った人がいれば、犯行時刻が絞れるというわけだ」

「はい、その通りです」

「えと……だったら最後に会ったのは私かもしれません……。詳しい時間は覚えてないですが、十七時前に芽々さんの部屋を訪ねました……。部屋を出てからしばらくして、振り子時計の音が聞こえたので、十六時五十分くらいだったのかなと……」

「その時はまだご存命だったということですね」

「はい……。折角の機会なので、お話を伺おうと思って……。五分か十分くらい話して、それから自分の部屋に戻りました……」


 霊山の言葉をメモに書き記しながら、多古島が続ける。


「なるほど、霊山さんが十七時前……と。これ以降は、誰か森野さんの部屋に行きましたか?」

「私が行きました」


 椎菜が手を挙げる。


「十七時二十分頃だったと思います。本日のお夕飯について、事前に教えて欲しいと言われていましたので、ご報告にあがりました」

「十七時二十分……と。その時も森野さんは生きていたわけですね」

「はい、おっしゃる通りです。お部屋を出てからしばらくして、十七時半の鐘の音を聞きました」

「ありがとうございます、椎菜さん。これでかなり犯行時刻は絞れましたね……。これ以降、他に森野さんとお会いした方はいますか?」


 しばしの沈黙。

 どうやら、最後に会ったのは椎菜で間違いないようだ。


「それでは犯行予測時刻は――」

「あ、あのー……」


 多古島が話を進めようとした時、おずおずと、舞花が手を挙げた。


「お会いしたわけじゃないんですけど……いいですか?」

「もちろんです。どんな些細なことでも構いません」

「十七時半の鐘の音が鳴る、ほんの少し前の話ですけど……芽々さんからインカムに着信があったんです」

「何か言われましたか?」

「はい、紅茶を持ってきて欲しいと。その時はちょっと手が離せなくて、姉さんに連絡しようと思ってたんですけど……バタバタしていて、すっかり忘れてました」

「その声は、間違いなく森野さんでしたか?」

「声も話し方も、似ている方はいらっしゃいませんし、まず間違いないと思います。それにこのインカム、どこの部屋の電話からかかってきたか、最初にアナウンスしてくれるんですよ」

「森野さんの部屋からかかってきたのは、間違いないということですね」

「はい」

「なるほど。では、森野さんが殺されたのは、十七時半から発見時刻までの間、ということになりますね。森野さんの遺体を発見されたのも、舞花さんでしたっけ?」

「そうです。時間になってもお部屋から降りてこないし、室内電話にかけても全然出てくれなかったので、直接お部屋にお邪魔したんです。確か十八時五分くらいだったと思います」


 つまり、森野が殺されたのは、大体十七時半から十八時の間ということになる。

 しかし森野以外の全員は、きっちり十八時に全員集まっていたので、もう少し時間帯は絞れそうだ。多古島も同じことを考えたのか、鮎葉に問いかけた。


「先輩。厳密じゃなくていいんですけど、森野さんを殺すのに、どれくらい時間がかかったと思いますか?」


 鮎葉は現場の状態を思い返した。

 いたってシンプルな構図だ。ソファで語り合っている最中に、隠し持っていたナイフで首元を切る。その後、森野の遺体をワークデスクに移動させれば終了だ。少々気がかりなのは、返り血の付いた服を処理する時間だが……。


「手早くやれば十分、現場の手際の良さから見て、十五分とかかってないんじゃないかな。突発的な犯行ならもう少しかかりそうではあるけど」

「それはないでしょう。ナイフを持ち込んでいるわけですし。因みに、森野さんの身体に犯人と争った形跡は?」

「ない。きれいなものだったよ」


 大きな着衣の乱れもなく、爪の間に皮膚片等も混入しておらず、確認できる範囲ではあるが、生前に強く掴まれた痕も見受けられなかった。


「なるほど。もみ合ってもいないとなると、よりスムーズに犯行を進行できた可能性が高いですね。きわめて計画的な犯行です。皆さんが十八時にはこのダイニングルームに集まれていたことも考えると、森野さんが殺された時間は、もう少し絞り込めそうです。十七時半に近ければ近いほど、犯行が行われた可能性は高いでしょう」


 鮎葉も同意見だった。十八時に近づけば、夕飯のためにダイニングルームに向かう人間と鉢会う可能性が高まるし、返り血が付いているであろう衣服を処理する時間だって必要だ。


「そこでどうでしょう。ここでいったん、皆さんのアリバイを確認してみませんか? 十七時半、つまり振り子時計の鐘の音が鳴る前後から、どこにいたか、誰かを見たか、あるいは誰かと喋っていたか、覚えている範囲で教えて下さい。とにかく、多角的に情報を集めて、矛盾点や不審点を洗い出すのが、犯人を見つける近道になると思います」


 異論は出なかった。

 それぞれの供述が始まる。

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