第32話 ごらん、下ネタの花がエモく咲いている。 中編

 そうだ、あの日、桜の木の下で、俺は清美に言ったんだ。

 下ネタも言い合えないやつとは友達になれないって。

 だけどそれは、清美と付き合いたいと思っていたからで。

 友達以上の関係を望んでいたからで。

 それを、清美は取り違えた。

 いや、そもそも俺の告白は聞こえていなかったんだ。


 


 その一言が、あまりにもショックだったから。


「私は……お母さんの教育方針で中学からは女学院に入れられたの」


 清美は静かに語り出した。

 これまで体に溜まっていた膿を絞り出すみたいに。

 悪い物を全部、吐きだすみたいに。


「聖華中学はとても上品な学校で、入ってくる子はみんなお嬢様だったから、下ネタのしの字もないような子たちばかりだったわ。だから――私は独学で下ネタを学ぶことにした」

「独学で……?」

「そうよ。正直、最初は手探りだった。下ネタって単語を広辞苑で調べてみてもよく分からなかったし、周りの友達に聞いてももちろん意味はない。当時はまだスマホも持っていなかったし、男の子の友達なんて征一君以外にいなかったから、従兄弟に質問してなんとか情報をかき集めたわ」

「その人たちは……戸惑った、だろうな……」

「そうでもなかったわよ。歳が離れてたから『清美もそういう年頃か……』って苦笑されたくらいだったわ」


 十分困惑してるっぽいけどな……。


「とにかく、当時の私が必死になって調べて分かったことは……下ネタっていうのは、とてもくだらないということよ」


 段々と清美の声に力がこもり始める。

 当時の鬱憤を晴らすかのように言葉を連ねる。


「本当に本当に、くだらないと思ったわ……。辞書で卑猥な言葉を調べてそこに下線を引いて何が楽しいの? 美術の教科書の裸婦画のページを広げて机に置いて何が楽しいの? 卑猥な替え歌を作ってどうしてお腹を抱えて笑い合えるのよ……っ!」

「き、清美、少し落ち着け。もうちょっと静かに話し合おう、な?」


 何とかなだめようと恐る恐る言葉をかける。

 しかし清美は、まるで俺の声なんて聞こえてないみたいに話し続ける。 


「ううん、ここまでならまだ分かるわ……。今ならちゃんと理解できるもの。それよりも何よりも……今でもちっとも理解できないのは……っ!!」


 清美はコンクリートの地面を踏みしめて、叩きつけるように続けた。


の話題でいつまでも盛り上がれることよ!」


 一陣の風が吹き抜けた。

 俺は呟くように繰り返す。


「うんちと……ちんちん……?」

「そうよ! 幼稚園児とか小学生ならまだいいわ。だけどなんで中学になっても高校になっても、あまつさえ社会人になってもそのネタで笑えるのよ!! 」


 俺は震える唇をこじ開けて、諭すように言う。


「だって……面白い、だろ?」

「面白いわけ、ないでしょう!」


 清美の言葉は塊となって、俺の体を痛いくらいに叩いた。


「何が面白いのか従兄弟に聞いて、ものすごく困った顔された時の私の気持ちわかる!? なんで意味も分かんないのに笑えるのよ! シリアスなシーンで急にちんちんって言ったら何で笑えるのよ! なんでうんちした話だけでゲラゲラ笑い合えるのよ! ちんちんは性器! うんちは排泄物! それ以上でもそれ以下でもないはずでしょう!?」

「で、でもな清美、うんちとちんちんは――」

「そんなに面白いって言うのならっ!!」


 挑むような目で、清美は言った。


「うんちとちんちんの何が面白いのか、今ここで言ってみなさいよっ!!!」 

「分から、ねえよ……」


 俺は、浅く呼吸を繰り返しながら答える。


「な、なあ聞いてくれよ、清美。うんちとちんちんは魔法の言葉なんだ。この言葉さえあれば、争っていた人たちも笑顔で手を取り合える。みんながハッピーになれる世界平和につながる言葉なんだ。ラブアンドピース。うんちアンドちんちんなんだよ」


 清美は、汚物を見るような冷ややかな瞳を俺に向けた。


「何を、言っているの……?」

「……分からねえ」


 分からねえよ……。

 俺はいったい、何を力説しているんだ……。


「全然意味がわからなかったわ。客観的に見て下らないことが、本人たちにとっては何か高尚な意味を持ち合わせているなら理解できる。だけど聞いた話だと、本人たちも下らないと分かっていながら笑ってるらしいじゃない。自分が小学校低学年レベルのネタを言っていることを俯瞰的に把握している。そのうえで笑ってるのよ。全然、まったく、これっぽっちも、爪の上の甘皮ほども理解できなかった! だって……だって……! だって、だって、だってっ!!!」


 清美は叫んだ。

 吐きだすように。


「本当に! 心の底からくだらないんだもの!!!!!」


 ああ……その通りだ。

 下らないことを理解するのは、下らないことの愛おしさを理解するのは、きっととても難しい。

 下らないと言うことは、真面目に取り合うだけの価値がないということだ。つまらない、取るに足らないことということだ。

 それを面白がっている様は、理解できない人からすれば、きっとひどく、歪で、滑稽に映るのだろう。


「だけどね、同時にちょっと羨ましかったのよ。勃起の話題で盛り上がってる男子を見て悔しいと感じた時……正直、かなりきてると思ったわ」

「ま、まあ、それはしょうがないんじゃ……」

「うるさいわね。こっちはろくに立つものがないのよ。授業中にちんちんが立ったら面白いかもしれないけど、こっちは乳首が立っても微塵も面白くないのよ。少しは物を考えて発言してくれるかしら?」

「ご、ごめん……」


 なんで謝ってるんだ、俺……。

 清美は天を仰ぎ続けた。


「転機が訪れたのは、中二の春。女子同士が中身のない話で盛り上がってたのを見た時よ。人は理屈ではなく、勢いで笑うことがある。そう察した時、パッと目の前が開けた気がしたの。きっとあれが……私の原点オリジン


 最後はつぶやくように言って、両手を胸の前で重ねた。

 あまりにもシリアスすぎて。

 色々と、つっこめなかった。


「それと同時に、性的な話題は男女に共通して興味のある話題ということもわかったわ。校風のせいでかなり苦労したけれど、従兄弟や父親の隠していたAVを見ることでなんとかことなきを得たわ」

「ちゃんと……戻したか?」

「当たり前でしょう。指紋一つ残さなかったわ」


 完全犯罪だった。

 清美は続ける。


「はじめて、家族に隠れてみたときはすっごくドキドキした。背徳感と高揚感でどうにかなりそうだった。あの時の胸の内を焦がすような高揚感……今でも忘れられないわ」


 自分の見ているAVが娘の性を開花させたと知ったら。

 親御さんはいったい、どう思うだろうか。

 そんなことを、思う。


「その後はもう、坂道の上から大玉を転がすみたいに簡単だった。エロに関して言えば、ジャンルごとに細分化されてるのは助かったわね。お陰でフェチズムについては理解しやすかった。すべてのエロには傾向があるのよ。だから簡単に対策を取ることが出来たわ。受験勉強と同じ要領ね」


 その要領を下ネタの把握に当てはめた女子中学生が、一体この世には何割くらいいるのだろうか。


「もちろん時間はかかったわ。勉強をおろそかにすることはできなかったから、必然的に友達と遊ぶ時間は減っていった。けれど、それでも構わなかった」


 真面目に真剣に、取り組もうと決め、そして達成できる人間が、どれくらいいるだろうか。


「ねえ、知ってる? 私の部屋には棚一杯に性的な話題について研究したノートがあるのよ。うまく隠してあるけど、最初のうちはあれが身内に見られたらと思うと、ドキドキして震えが止まらなかったわ。だけど、それも我慢した」


 色々なものを犠牲にして、清美は大切な三年間を下ネタの研究に費やした。

 本来であればそこにあったはずの、友人たちと過ごすことで得られたはずの、大切な思い出も、大切な経験も、何もかもを切り捨てて、下ネタの勉強に没頭した。


 たった一つの目的のために。


「我慢して我慢して我慢して……! そうやって学び続けた! 学び続けたのよ! 怖くなんてなかった! 後悔だってしなかった! だって私には、明確なゴールがあったから! 私には叶えたい夢があったからっ!! 私はっ――」



「あなたと友達になりたかったからっ!!」



 ただそれだけの理由のために。

 そんなささやかな願いのために。


「そうして勉強を続けていくうちに、次第に自分の中で何かが変わっていくのを感じた! エッチなことが好きになった! 最初は勉強のために必死で見ていたアダルトコンテンツが段々と趣味になっていった! 日課になっていった! 下ネタで笑える自分に気付いて、そんなくだらないことで笑っている自分が面白くてそれでまた笑って! 壊れたみたいに笑い続けて、それがまた爽快感があって! 鏡でみた自分がとても晴れやかな顔していることに気付いた!」


 俺は。

 どう応えればいいのだろう。


 これだけ真摯に思いをぶつけてきた彼女に。

 人生を賭して想いを伝えてきた彼女に。

 どう応えればいいだろう。


「私は変わった! 下ネタで笑えて、下ネタが大好きで、エッチなことに興味津々な女になった! 下品で、エッチな女になった! それが私だ! いま現在ここにいる、桔梗屋清美という人間だ!」


 考える。考えなくてはならない。

 彼女の想いに、真剣に向き合わなければならない。

 友達なんていらないと決め、そうして生き続けてきた自分の人生に、生き方に、矜持に、プライドに、向き合わなくてはならない。


「あなただけには知られたくなかった! こんなあさはかな理由で自分を変えたことを知られたくなかった! あなたに負い目を感じさせたくなかった! だけどもう、なにもかもどうでもいい! どうっでもいいのよ! 全部全部あなたのせいよ! 全部全部征一君のせいよ! 征一君が悪いのよ! 私という一人の人間をここまで変えてしまったのは、あなたの責任なんだからっ!」


 負い目。責任。

 その言葉が俺の脳裏でチリりと爆ぜた。

 ああ、そうか。そういうことか。

 お前がそんな風に言うのなら。

 お前がそうやって俺に求めるなら。

 俺は。

 俺は――っ!


「だから……だからっ! だからっ! だからっ! だからっ! だから……っ!」



「責任取って、私と友達になりなさいっ!!!」



 慟哭にも似た、清美の願いに。

 俺は応える。

 真摯に、誠実に、しっかりと向き合って。

 一つの言葉を口にする。


 

「断るっ!」



 拒絶の言葉を、口にする。

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