2.「普通」のお茶汲み(2)

「ほら、おみ足の動きがまた緩んでおられますよ、ルーカス様。急いで! 戦場の黒豹とあだ名されるあなた様はどこに行かれたのですか! ほら、お早く! 前進、駆け足! いち、に! いち、に!」

「そう何度も急かしてくれるな、ゲルダ。ちゃんと同じ速度で進んでいるだろう?」


 初夏のまぶしい太陽が、高く昇った昼下がり。

 大聖堂へと続く回廊の片隅を、二人の人物が移動していた。


 ひとりは、小柄な身体をしゃんと伸ばし、優雅な急ぎ足で進む中年の婦人。

 もうひとりは、すらりとした長躯をシンプルなシャツと黒ズボンに包んだ、気だるげな青年である。


 くせのある豊かな黒髪や、甘さを含んだ藍色の瞳は、男らしい精悍な美しさに満ちている。

 耳に心地よい低音の声を持つ彼は、名をルーカス・フォン・ルーデンドルフといい、先日崩御したヴェルナー王の側妃の息子――「第二王子」と呼ばれてきた人物であった。

 正妃の息子であるフェリクス第一王子が即位してしまえば、ルーカスは王弟と呼ばれる立場になるわけだが、喪をまだ終えていないために、いまだ第二王子と呼ばれている。


 ルーデン王国には四人の王子と三人の王女がいたが、ルーカスはその中でも先王に最も気に入られており、一時は凡愚と噂されるフェリクスを差し置いて、王の後釜につくのではないかという噂すら立っていた。


 にもかかわらず、せっかくの寵愛と、優位な後継者競争をかなぐり捨て、あっさりと騎士団に加わってしまったという変わり者だ。

 だがそのおかげで、臣籍降下し国外にやられることもなく、いまだ王国内に留まって、日々のびのびと浮き名を流して過ごしている。


 今も、彼が気だるげに道を歩くだけで、その姿を認めた侍女たちがきゃあっと黄色い声を上げるのが見えた。

 ルーカスは慣れているのか、簡単に片手を上げてそれに応じる。


「勘弁してくれ。十日ぶりの休日、それもさっき寝台にもぐりこんだばかりだぞ? なぜ、十九にもなって母上のご機嫌を伺いに行かねばならない」

「悄然と肩を落としてみせたところで、香水の匂いはごまかせませんよ。いったい、なんの『お勤め』をして、そんな時間に眠られたのやら。それに、力なき少女を救うのは間違いなく騎士の仕事でございましょう。ご自身が彼女をこの王宮に連れてきたのなら、なおさら!」


 ぶつぶつと零すルーカスに、元乳母の遠慮のなさでゲルダが突っ込む。


「王宮で働かせるというのは、ほとんどあなたの判断だろうよ、ゲルダ」


 ルーカスは長い足で回廊を進みながら、優雅に肩をすくめた。


 そう。

 エルマと呼ばれる「わけありの少女」を、王宮付き侍女として迎え入れることを決めたのは、ルーカスであり、ゲルダであった。


 事の起こりは先月。

 先王ヴェルナーが急逝したときに遡る。


 ここルーデン王国では、王の崩御の際に、その直系男子が民のために一つだけ願いを叶えてよいという、「大願たいがん」と呼ばれる制度がある。

 王の死という不幸を、王子たちの祝福によって振り払うという趣旨だ。


 たいていの場合、それは「恩赦」という形で発動され、誤判により捕らえられた民や、軽微な罪人を救済するのが常だったのだが、なんと凡愚王子フェリクスは、「僕の即位の際には、国中の人々を招いて舞踏会を開きたい」などと言いだしたのである。


 子どもの思い付きのような発言ではあっても、大願は大願。

 貴族たちは可能な限りの調整を挟みつつ、舞踏会の実施に乗り出しはじめた。


 しかしそうなると、当然あるものと思われていた「恩赦」のほうが実施されない。

 しかも、先王ヴェルナーは、教会の差し出す処刑リストに情け容赦なく署名してきた人物であったため、罪なくして捕らえられた民やその家族の恩赦要望は熾烈極まりないものだった。


 すぐには爆発しないだろうが、不穏にすぎる不満の芽。

 結局ルーカスは、柄でもない調整業務に奔走しながら、兄に代わって恩赦を発令したというわけである。


 ところが、それで終わるはずだった大願は、その後予想外の展開を見せることとなった。

 なんと、恩赦のために、改めて監獄に繋がれている人々の数や罪状を精査したところ、ひとり人数・・・・・が多い・・・というのである。


 ルーデン王国の辺境にある、誰もが恐れるこの世の地獄――ヴァルツァー監獄。

 よりによって、その最も苛烈で、劣悪で、人々が踏み込もうとしなかったその場所に、服役中の娼婦から生まれたというだけで全く罪のない少女が暮らしていたというのだ。


 これにはさすがのルーカスも青褪め、即座に事態の回収に乗り出した。

 具体的には、監獄側のいかなる弁明も許さずに、ルーカスの独断で少女をすみやかに保護。

 無実の囚人が存在したという事実は徹底的に隠匿し、少女の噂が不必要に広まらぬよう手を打った――監獄の監督不行届きは追って処罰すべきだが、その生い立ちが先走って、少女の未来を奪ってはならないと考えたためだ。


 教育どころか、ろくな衛生環境も与えられていなかったであろう少女。

 不憫に思い、信頼のおける孤児院に預けようとしていたルーカスだったが、それもまた、思わぬ方向へと事態は展開していく。


 念のため、自ら少女と面談をしてみたところ、意外にも最低限の教育は施されていることがわかったのだ。


 多少表情が乏しく、姿かたちも冴えないものの、体は健康。

 容貌の整ったルーカスが顔を近づけると、恥ずかしそうに俯くなど、反応もいかにも「普通の女の子」であり、情操面での発育も問題ないように見受けられた。

 まあ、あまりにみすぼらしく面白みに欠ける様子なので、ストライクゾーンがかなり広いルーカスでさえ、食指が動かなかったが。


 ともあれ、ならば孤児院ではなく街で働き口でも手配するかと彼としては考えていたのだが、そこにゲルダが――口の堅く信用のおける彼女は、同性の立会人としてその場にいた――、「わたくしが後見するので、この子は王宮で働かせましょう!」と詰め寄ってきたのである。


 どうやら、少女に会う前からすでに、「罪なくして監獄育ち」という背景にいろいろ妄想をたくましくしていた彼女には、少女が静かに受け答えするのも、表情が乏しいのも、すべて「劣悪な環境を、感情をそぎ落とすことで生き抜いてきた」ことの証として映ったらしい。


 もともとゲルダには、そういった、お人よしが過ぎるというか、少々感情に脆すぎるところがある。

 侍女が仮病を使えば「気付かなくってごめんなさい」と親切に看病し、母が倒れたと涙ぐまれれば、庭師の少年にすら、同情して上等な宝石を与えてしまうほどに。


 その過剰な人類愛の対象が、今度はエルマに向かったわけだが、尋ねてみたところ本人も特に異存はないという。

 結局ルーカスは、少女の出自を伏せ、王宮付きを許可したと、そういうわけであった。


「彼女の件は、もう俺の手を離れてあなたの監督下にあるという認識だったが。いったいなんでまた、『緊急事態』とやらに陥ってしまったんだ?」

「ですから、半分はあなた様のせいですよ、ルーカス様。無駄に整った顔で無駄に侍女を口説くあなた様が、あの子に自ら面談などするものだから、その噂が変に流れて、彼女は出仕初日から、あなた様を崇拝する侍女たちの嫉妬の的になってしまったのです」


 そう言ってゲルダは、自分が今朝、庭師の少年と話し込んでいた合間に、気の強い侍女の一人がエルマに過剰な仕事を強いたことを説明した。


「イレーネ……たしか、金髪で猫目の娘だったか。何度か声を掛けられたことがあるな」

「そういうところは、さすがの記憶力でございますね。……とにかく、イレーネを叱りつけたはいいものの、肝心のエルマが捕まらなくて……」

「城内で迷っていると?」


 迷子の保護なら衛兵の仕事だ、と片方の眉を上げるルーカスに、ゲルダはため息を吐きながら首を振った。


「いえ、そうではなく、わたくしたちの予想を上回るスピードで仕事を片付けて回っているようなのです」

「……なんだと?」

「言いつけた仕事のメモを辿って追いかけてみると、鶏小屋でも詰所でも庭でも廊下でも、とにかくどこでも、『もう仕事を終えて去っていかれましたよ』と言われてしまって……」


 ルーカスは困惑した。

 それは意外な展開だ。


 とはいえ、過剰な量でも問題なくこなせているのなら、そのまま放っておいてよいように思われる。

 だがそれを告げると、ゲルダはきっと眦を釣り上げて反論した。


「なんと冷酷な! つい昨日まで監獄にいた少女なのですよ? 侍女の職務どころか、建物の配置だって文字通り右も左も分からない、そんな子どもを満足に休ませもせず、初日から馬車馬のように働かせる法がありますか!」

「――まあ、正論だな」

「しかも、言いつけられた仕事をすべてこなしてしまったのだとしたら、あと残っている業務というのは……ユリアーナ様にお茶を振る舞うことだけなのです」


 それを聞いて、さしものルーカスも整った眉をわずかに寄せた。


「新人いびりにしては、随分酷なことをするものだ」

「……ええ」


 ゲルダは、「ユリアーナ様は、高貴な方でいらっしゃるから」と、苦し紛れのフォローを呟いた。


 ユリアーナ。

 正式な名を、ジュリアナ・フィッツロイ。


 ルーデン風とは異なる名前の響きからわかる通り、彼女は海峡を隔てたラトランド公国から嫁いできた、異国の妃だ。ルーカスの母でもある。


 艶やかな金髪と深みのある藍色の瞳からなる美貌を見込まれ、正妃に次ぐ第一側妃となった彼女は、思慮深く聡明な女性だったが、同時に冷酷で、自分の愛するものを傷つける事物に対しては、苛烈なまでの攻撃性を見せる人物でもあった。


 ユリアーナの愛するものとは、第一に息子のルーカス。

 そして第二に祖国の文化。

 特に、昼下がりに茶を楽しむ習慣は、彼女にとってけして侵されてはならぬ至高のものであり、そこで失態を演じた侍女は、かけらの慈悲もなく馘首されるのが常であった。


「ユリアーナ様にお茶を振舞うのは、わたくしか、さもなければ勤続十年以上のベテランと決めていたのに……。イレーネは、元の当番であった侍女に嘘をついて休ませてまで、そこにエルマを宛がったというのです。お茶の飲み方すら知らぬだろうあの子が、ポットを取り落としでもしたら、どんな禍が起こるか……」

「…………」


 ルーカスは眉間の皺を深めた。


 単なる叱責程度で済めばよい。

 しかし母ユリアーナの場合、機嫌によっては徹底的に相手の精神を蹂躙するような振舞いをするのだ。


「紅茶を冷ましすぎたからと真冬のテラスに裸で追い出されたり、カップに羽虫が入っていたからと体中に虫を這わせられたり、そのような目に遭うあの子を、わたくしは見たくありません。万一のことがあった場合……ルーカス様。彼女を諫められるのはあなた様だけなのです」


 苛烈妃・ユリアーナも、最愛の息子の頼みならば、いくらかは機嫌を直してくれると踏んでのことである。

 女の好みにはうるさいし、興味のないことには徹底的に手を抜くが、これで騎士道精神を叩きこまれているルーカスは、小さく肩をすくめると、歩調を速めた。


 回廊を進み、聖堂の門を抜け、ユリアーナの居室に面している奥庭へと向かう。

 ちょうどその瞬間、ユリアーナの興奮したような声が聞こえ、二人は険しい顔で目配せをしあったのだったが――、


「――……え?」


 慌てて庭へと踏み込もうとした瞬間、目に飛び込んできた光景に、ルーカスたちは言葉を失った。

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