第7話 淑女のレッスン

 翌日から、絹子の淑女レッスンは始まった。


 四年間の尋常小学校しか出ていない絹子のために、読み書きから、学問、テーブルマナーや作法、お茶や、お花のほかに、ダンスのレッスンまで。

 それぞれ家庭教師がついてくれての個人レッスンだ。


 しかも先生方はみな人間ではなかった。


 お茶やお花といった和のレッスンは頭に角がある鬼の女性が受け持ってくれた。

 学問や読み書きの先生は、頭の大きなぬらりひょん。

 ダンスやテーブルマナーといったものは、目が青く金髪でいつもそよ風を周りにまとわせているシルフという女性が先生だった。


 彼らは『あやかし』という人間とは違う種族だと教えてくれたのは加々見だ。

 みな加々見の古くからの知り合いなのだという。


 その日も屋敷の中でも一番広い洋室で、絹子はシルフの先生にダンスのレッスンを受けていた。

 彼女が見せてくれた見本通りにステップを踏むと、先生は拍手してほめてくれる。


「ソウデス キヌコサマ ハ トテモ スジガイイ」


「ありがとうございますっ」


 玉の汗をかきつつも、絹子は爽やかに礼を言う。

 習い始めた当初は身体の動かし方に戸惑って何度も転んでしまったものだったが、慣れてしまうと絹子の身体にすっとなじみ、軽やかに動けるようになった。


 それに、ここではもう卑屈になることはない。頭を俯かせている必要もない。そんなことをしていたら逆に、「具合が悪いんですか?」とみんなから心配されてしまうだろう。


 だから、絹子はもううつむくのはやめた。


 いまはこの数々のレッスンを熱心に取り組もう。そして一日でもはやく、加々見が求める水準までたどり着こう。それだけを頭において頑張ってきた。


「デハ コンドハ クンデヤッテミマスヨ」


「はいっ」


 元気に返事をして、男役をしてくれる先生に身体を合わせると、二人は鮮やかなステップを踏みながらくるくると軽やかに回る。


 部屋の片隅では、長い赤い髪にたくさんの葉っぱがついたドリアードという女性がバイオリンで音楽を奏でてくれていた。

 その三拍子のリズムに身体をのせて、ワルツを踊る。


 一度も間違えることなく最後まで踊り終え、先生と互いに最後のお辞儀を終えたとき、部屋の隅から大きな拍手が一つ聞こえてきた。

 振り向くと、いつの間にか加々見が部屋に来ていた。彼は満足げに微笑んで、手をたたいている。


「素晴らしい。よくこの半年でそこまでものにしたね。もう君はどこから見ても紛うことなき立派な淑女レディだよ」


 加々見は何やら忙しいらしく、二、三日に一度しか屋敷にはかえってこない。

 しかし屋敷にいるときはいつも絹子を励まし、あたたかく接してくれた。

 そんな彼に絹子もいつしか警戒心もすっかりとけて親しみを感じはじめていた。


「ありがとうございます」


 朗らかな笑顔で絹子も返す。


 だが、絹子の心にはずっと気がかりなことが一つある。加々見は絹子にこんなにもよくしてくれるのに、二人の寝室は別々のままなのだ。彼は夜に絹子の部屋に来ることもなければ、必要以上に絹子に触れることもない。つまり、夫婦としての関係は何一つ進んではいなかった。


 加々見は子をなすことについては絹子の好きにしていいと言っていた。だとすると、絹子が何も意思表示をしなければ、きっといつまでもこの関係のまま進まないのだろう。


 しかし、絹子自身も自分の気持ちがよくわからないでいた。

 いままで人を好きになったことなど一度もない。だから好きという感情がどういうものなのか、いまひとつよくわかっていなかった。


 だが、彼を見ると胸の中がポッとやわらかな光のランタンが灯るように明るくなる。その仄かなあたたかさで、心の中がみたされてくるのを感じる。

 これを恋というのだろうか。彼に触れればもっとこの火は強くなるのだろうか。


 わからない。わからないけれど、この関係は一歩絹子から歩みださなければ進みはしないのだ。彼は待ってくれているのだから。


 よし。今日の夜、彼とじっくり話し合ってみよう。絹子はそう決心して、加々見に声をかける。


「あ、あの……」


 しかしそのとき。空いていた窓から一羽の白いスズメが飛び込んできて、加々見の腕に止まった。

 その瞬間、朗らかだった彼の目元が険しくなる。


「……そうか。わかった。ありがとう。引き続き監視を頼む」


 そう一言返すと彼の腕からスズメは飛び立ち、ふたたび入ってきたのと同じ窓から出て行った。

 加々見は険しい目つきのまま絹子に向き合う。


「絹子。ここに来た時のあの粗末な服はまだ持っているね」


「は、はい」


 捨てないようにと加々見に指示されていたので、いまも自室のタンスの中にしまってある。


「それを着て、ちょっと私と一緒に来てほしいんだ」


「どこに行くんですか?」


 そう問いかける絹子に、加々見は小さく苦笑すると忌々し気に言った。


「君が婚姻の儀をあげたあの小さな家だよ。君の家族が様子を見に山を登ってきたようだ」


 君の家族、という言葉に絹子は息をのむ。最近はもう思い出すこともなくなっていた父や継母、妹の顔を思いだして、絹子は胸を押さえた。嫌な動悸がしていた。


「あいつらは、君がいまもあの家に一人で住んでいると思っているからね。何、大丈夫。私がついている。何も心配することはない」


 ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、絹子はほっと息を吐きだす。いまは彼のことを信じて、家族にもう一度対面するしかない。でも彼がそばにいてくれると思うと、ずいぶん気が楽になった。

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