第10話 対決

 夕食が終わった後で、コーヒーを飲んでいると、愛美がアプリコットティーのカップを持参して隣に座った。

「ねぇ、どうしてあのとき言わなかったの?」

 愛美が言いたいことは分かっている。

 これまで二度ほど、マウンテンゴリラの殺人が行われたタワーマンションに、何かに導かれるように行ってしまったことだ。あまりに強烈な殺意と、愛美が同行していることから、建物の下まで行ったが殺しの現場には行ってない。

 それでも相手が、自分たちと同じファントム使いであることは十分に感じられた。


「変にマウンテンゴリラを感じるなんて言ったら、晶紀にへばりつかれるかもしれないと思ってさ、何しろ彼女は怖いものしらずだから」

 愛美は晶紀のことを思いだしたのか、クスリと笑った。

「でも北条さんには言っても良かったんじゃない。今や自分のクラスの担任なんだから」

「マウンテンゴリラの話の前に、ちょっとだけ上杉さんと、ファントム発動のきっかけについて話をしたんだ。その話の中で、上杉さんは僕に関して他とは違う興味を示していた。だから今の時点では、マウンテンゴリラと引き合うことは内緒にしておこうと思った」

 愛美は話している慧一の目をじっと見つめながら、言葉が切れると同時に、慧一の肩を抱き寄せた。

「あなたは私たちと何も変わらない。例え上杉さんでも、あなたを実験動物のように扱うことは許さない」

 愛美の甘い匂いが、慧一の鼻腔をくすぐる。この香りをかぐと、いつも慧一のささくれだった神経は、穏やかな波に変わる。

「大丈夫だよ。いつかは僕のファントムの正体について、知らなければならないとは思っている。ただ、今はまだ早い。もう少しファントムについて知ってから、改めて向き合いたいんだ」

「いつも一緒にいるからね」

 耳元で囁く愛美の頬が、慧一の頬に触れる。その柔らかい感触が、キスしたい衝動をかき立てる。


「少し、自転車で走って来る」

 慧一は、衝動を抑え込むために、愛美から身体を放した。

「今から?」

「ああ、最近忙しくて走ってなかったから」

「そう、気をつけてね」

 愛美は少しだけ寂しそうな表情を見せた。


 慧一はガレージから愛車であるミッドナイトブルーフェードカラーのフェルトVRアドバンスド105を出した。マルチロードに対応するロードレーサーで、フレームとフォークは共にカーボンで剛性を高めている。

 自転車に嵌りだしたのは、中学二年のときだった。

 街中で見かけたロードバイクの美しさに魅せられ、スマホ用アプリの開発で得た貯金を下ろして入門用バイクを買った。その後、一年間で二万キロを走破し、二代目として買ったのが、今乗っているフェルトだ。


 フェルトで走っていると、またもや訳の分からない衝動に突き動かされた。いつの間にか方向を二子玉川に変えている。何かが自分を呼んだのだ。

 二子橋を超えて川崎に入り県道十四号を南下する。鶴見を抜けて第一京浜に入って、そのまま横浜市内まで走り抜ける。

 自分を引き寄せる力の発信地に近づいて行く感触があった。

 みなとみらい駅近くの三十階建てのタワーマンションに着いた時、時間は午後八時を示していた。


――何かが居る。

 慧一の脳に人とは違う存在の信号が送られた。同時に何匹もの蛇が口をカッと開けて、慧一の身体から外に出ようとしている。

 目の前のタワーマンションを見上げると二七階の付近から、強い負のオーラを感じた。

 その正体を見極めたいと思った瞬間、蛇達が身体を包む。視覚と聴覚が薄れていき、気づくと二七階の部屋の中にいた。


 そこには若い女性と思われる頭の潰れた遺体と、ゴリラのような体躯の巨人がいた。巨人の右手は血で染まっている。

――マウンテンゴリラだ。

 無意識の内についにマウンテンゴリラの殺人現場に立ち入ってしまった。


 マウンテンゴリラは、攻撃することも逃げることもせず、慧一を凝視している。

――お前も超人を目指す者か? だがここは俺のステージだ。


 それは耳からではなく脳に直接届けられた。マウンテンゴリラの意識が直接届けられたような感じだ。そしてその意識は慧一の脳を軽く混乱させた。

――超人、ステージ?

――そうか、お前は亜種か?


 確かに亜種と呼ばれた。

「亜種とは何だ?」

 思わず叫んでいた。

――ガイドによって導かれた者ではないということだ。

「ガイドとは何だ?」

――ガイドとは我々を進化へと導く存在だ。いいか、目的がないのなら俺を妨げるな! 自力で帰れるなら今消えた方がいいぞ、俺はもう行く。


 マウンテンゴリラは肉体を消し始めた。そしてほぼ消え去ろうというそのときに、慧一は両手を伸ばしながら逃がさないと、強く念じた。

――かっ、絡みつく

 再びマウンテンゴリラの肉体が姿を現した。

 その頑強な肉体には一匹の蛇が絡みついていた。

 マウンテンゴリラは絡みついた蛇を跳ね除けようと、常人の三倍はありそうな全身の筋肉に念を込めた。しかし肉体に何の変化も起こらない。

 絡みついた蛇は鎌首を上げて、チロチロと舌を出しながらマウンテンゴリラの顔を見据えている。


――こいつは人間だ、いや人間に近い何かだ。

 マウンテンゴリラの意志に触れて、それが人間の思考と限りなく近いと慧一は感じた。

 何かの力で、肉体が強化されているだけだ。


――ファントムの進化形か?

 慧一の脳裏に、木崎教授の新人類という言葉が浮かんだ。次いで有坂麗の人型ファントムを思い出した。

「お前は、聖クラスター学園と関係があるのか?」

 マウンテンゴリラはその問いを無視し、自身を縛る慧一のファントムを引き裂こうと力を込めた。

 物凄い圧力に慧一も逃がさまいと必死で防戦する。


 ドアの外が急に騒がしくなる。

 それに気を取られ、慧一の集中力が弱まった瞬間、マウンテンゴリラによって、慧一のファントムは吹き飛ばされ、慧一自身も元いたフェルトの傍に飛ばされていた。


「逃げられたか」

 取り逃がした悔しさで、慧一は天を仰いだ。

「ちょっといいかな」

 背後から声がした。

 振り向くと眼光の鋭い男がいた。

 慧一と目が合うと、柔和な表情に変わる。

「これまで二回、マウンテンゴリラの殺人があった、マンションの近くにいたよね」

 慧一は相手の正体が分からず無言でいた。


「ああ、申し訳ない。私はこういう者だ」

 男は警察手帳をスーツのポケットから出して、慧一に見せた。

「刑事さんですか?」

「捜査一課の椚木という者だ。少しだけ話をさせてもらっていいかな」

 椚木は無造作に慧一に近寄ってきた。


「何でしょうか」

「君のことを教えてくれないか?」

 慧一は一瞬、答えていいものか判断に迷った。だが、マウンテンゴリラに対する捜査状況にも興味があったので、正直に答えることにした。

「東慧一、聖クラスター学園の一年生です」

「聖ラクスター学園……。もしかしてSLJCの付属高校かな」

「はい」

「ふむ、君は優秀な学生さんなんだ」

「聖ラクスター学園についてご存じなんですか?」

 もしかして卒業性かもしれないと思って、慧一は警戒した。

「実は前回のマウンテンゴリラの殺人現場で、君と同じ高校の生徒を保護したんだ」

 自分以外に聖ラクスター学園の生徒が、マウンテンゴリラの殺人現場にいた。その事実は慧一を驚かせるには十分だった。

「誰ですか?」

「それは捜査上の秘密なので教えられないが、君の協力如何によっては教えてもいいよ」

「協力って何をすればいいんですか?」


 慧一が応じてくれそうなので、椚木は嬉しそうな顔をした。

 その顔を見て、人を見たら疑ってかかれのイメージの強い警察が、こんな人懐こい表情を見せるのかと、慧一は不思議に感じた。

「いや、そんなに難しい話じゃないんだ。君はなぜマウンテンゴリラの現場近くに、三度も現れたのか、その理由が知りたいんだ」

 椚木は威圧するわけでもなく、まるで友達に話すように訊いてくる。

 ファントムは学園内の秘密事項だ。

 例え警察が相手でもおいそれと話すわけにはいかない。

 第一、一般の人間にファントムの話をしても信じるわけはない。


 慧一は椚木の顔をもう一度見た。

 猟犬の顔ではなかった。

 例えれば、世の中の心理を追及する学者のような趣があった。


「引き合うんです。マウンテンゴリラが犯行するとき、魂が呼び合うように現場に来てしまうんです。非科学的ですよね」

 慧一は話せるギリギリの範囲で、椚木にここに来た理由を伝えた。

 笑ってもういいよと言われるか、本当のことを話せと詰め寄られるか、どちらかだろうと思った。


 ところが、椚木はまったく違う反応を示した。

「あるみたいだね。そういう感覚って」

「ホントですか?」

 思わず釣り込まれた。

 言った後で、心の中にしまったとという苦い感情が残った。ここは「では」と言って去るべきだった。

「もちろん、年中事件のことばかり考えてるんだ。犯人にシンクロするってことは、刑事なら一度や二度は経験している。でも君の場合は、そういうのとは少し違う事情のような気がする」

「どういうことですか?」

「今度の事件は、殺害方法、現場への侵入と逃走する方法、そして殺人の動機、全てが謎のままだ。こんな目的の見えない事件は久しぶりだよ」

「目的? テレビは、いつも言いたいことを言ってるのに、自身は豪華な住居を持つ傲慢さに対する制裁ではないのかと言ってますが」

 慧一は思わずテレビの受け売りを口にした。


「そんなもの、動機にはならんよ。犯人が殺人によって得をすること、もしくは非常に強い憎悪、人間の事件であればそれがある」

「快楽殺人という人もいます」

「それなら、もう少しプロセスを楽にして、殺しそのものをもっと楽しむはずだ」

「じゃあ、プロセスを楽しむとか?」

「プロセスを楽しむのは知能犯に多い。詐欺とか不正会計とかそういう犯罪だな」

 慧一は、椚木との会話に夢中に成っている自分に気づいて、苦笑した。


「だが、君のその能力は希少だ。今度犯人に呼ばれたら、私に連絡してくれないか」

 そう言って、椚木は携帯番号の入った名刺を渡した。

「そうだ、君はSLJCのOBで阪口という人を知っているか?」

「いえ、知りません」

「そうか、ならいい」

 椚木の許可が下りたので、慧一はいったんはバイクにまたがったが、再び椚木の方を振り返った。

「うちの高校の現場にいた人の名前を教えてくれませんか?」

 椚木は約束通り教えてくれた。

 それは慧一の良く知る男の名前だった。

「三年生の古賀拓馬君だ。ラグビーをやってると言っていた」

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