『私の骨で着飾って』

まじりモコ

【前】 ぼくとあの人


 きっと骨はその生き物のすべてなのだ。


 荼毘だびに付された猫は最後に、そんな気づきを幼い僕へ与えてくれた。


 生きているときの輪郭りんかくそのままに背を丸め横たわる骨。


 あの頃の僕にとって猫は唯一の癒しだった。息苦しい家の中、名前も持たないあの猫だけがどこまでも軽やかで。


 竹箸でつまみ上げればもうそれだけで、筋肉がしなやかに躍動する動きまでその骨の軽さを通して思い描くことができるほど、骨は猫そのものだった。


 骨壷こつつぼに頭部を押し込むため先に敷き詰めた骨を熱心に砕いて、実感する。

 骨は身体を支える。内臓を支える。それを失えば立つことすらままならない。


 だからやはり、骨こそが生き物の全てなのだと。


 なにより生き物が死んだあと、最後まで残るのが骨だ。

 人間だってきっと同じ。


 そう言ったらクラスの女の子は変な顔をした。


「なにいってるの? 死んでのこるのはよ」


「でも、それは手でつかめない」


 他人が手に入れられる死人の一部なんて、火葬が主流の日本じゃやっぱり骨くらいだ。


 だからこそ遺される骨には人の一生の価値が蓄積されているはずだ。人生の価値が死んだ瞬間に無くならないのだとすれば。その価値を証明できる、触れられる痕跡は骨に違いない。


 何を選んでも選ばなくても、何を成しても成さなくても、どんなに懸命に生きたって、遺る結果は骨。いつか僕もそうなる。骨が僕の全てになる。同意してくれる子はクラスにいなかったけれど。


 そんなどこか達観した、子どもらしからぬ考えを持っていたからだろう。

 僕があの人に惹かれたのは。


 小学一年生の、残暑のころだった。

 通学路の坂を上るとひと際大きな洋館が建っている。その二階の窓から、いつも同じ女性が上半身だけ姿を覗かせていた。


 線が細く、柔らかな黒髪の女性だった。寝間着か私服か判然としないシンプルな服を着て、まだ暑い季節だというのにストールを肩へかけている。影の落ちた横顔が、遠目にすごく綺麗だったことを覚えている。


 僕が朝早く登校するときも、日が暮れて帰るときも、お昼に家へ帰った日ですら、彼女はずっと、窓際に置かれたベッドの上で静かにうつむき、本を読んでいるようだった。


 最初はただの好奇心だったと思う。毎日見るあのお姉さんに、何か変化は起きないだろうかと、そればかり考えて坂をのぼったりりたり。しばらく、そんな毎日を送った。


 いつの間にかあの人を見つめることこそが目的になっていると気づいたのは、まだあの人を知った時と一つしか季節の変わらない頃だったか。


 先のクラスメイトがあの人の妹だと知ったのはさらにもうひと季節が過ぎ去ったころのことで、その数日後にはもう、僕はあの人と対面していた。


 しぶしぶ部屋へ通される。お姉さんはベッドの上で上半身だけを起こしていた。窓から見えていたのは胸より上だったから、彼女が半ば寝たきりの生活にあるのだとは思ってもみなかった。


 僕が彼女に感じたのは落胆ではなく高揚だった。

 彼女は遠目で見るよりもずっと痩せ細っていて、顔色が悪い。頬の肉が落ちて目が浮き出ている。お世辞にも健康的な美人とは言えない。それを嫌悪感もなく好意的に受け取ったのは、れたが負けという格言のままだったのだろう。


「こんなところに遊びに来ても、面白いことなんて数えるほどもないよ?」


 読んでいた本にしおりを挟んで、お姉さんは微笑んだ。片手でそっとベッドの傍らに用意された椅子を示す。彼女のそんな優しさに、僕の心は面白いほどに踊っていた。


 その日、僕はずっと彼女に話したかったことをたくさん語って聞かせた。


 自分のこと、よくケンカするクラスメイトの女の子のこと、生垣いけがきに毎年混じり咲く不思議な花のこと。そして小学校に上がる前まで飼っていた猫の、毛の温かさと柔らかさのこと。


 お姉さんは時折相槌あいづちを打ちながら、楽しげに僕の話を聞いてくれる。


 僕が話し終わると今度は、お姉さんがいろんな話を聞かせてくれた。


 いつか本で読んだという宇宙の話。海の底に沈んだ国の話。そして首を落された王女様の話。


 場所も時代もバラバラなものを、お姉さんはまるで一つの物語であるかのように語り繋げてくれた。


 感心する僕に、彼女は照れたように笑う。

 自分はいつもベッドの上で本ばかり読んでいるから、こういう話をするのは得意なのだと。


 二人で過ごす時間は温かくて、顔が熱くて心臓が早く脈打つのに、心はまどろむようにとろけきっている。


 僕は彼女のことだけじゃなくて、彼女と過ごす時間も好きになった。


 それから毎日のようにお姉さんのもとへ通って、日が暮れるまでいろんな話をした。彼女は病院へ通うとき以外はいつもベッドにいて、僕にたくさんのことを教えてくれる。


 ノラ猫の習性やお菓子作りのコツから、僕が摘んで押花にしていた花弁の効用まで。学校じゃ誰も教えてくれないことをたくさん。


 本ばかり読んでいると自称するだけあってお姉さんは博識だった。物知りというだけじゃない。何か相談すると必ず、いくつかの解決策を示してくれる。僕はそんな彼女になら、自分のどんな些細ささいな悩みも話せてしまうのだった。


 だからある日、誰も共感してくれなくて胸のうちに秘めていた想いを伝えた。


「ぼくは、ぼくの骨までほしがってくれる人に出会いたいんです。それって、ぼくが死んで何もあげられなくなってもまだ、ぼくのことを欲しがってくれてるってことだと思うんです。お姉さんはぼくの骨、ほしいですか?」


「ふふっ、なあにそれ。私は……そうね、いらないかな」


「えっ……」


 言葉が胸に突き刺さって思わず口をつぐんでしまった。自分の顔が青くなっているのが分かる。お姉さんはそんな僕を見て、意地悪く笑った。瞳に皮肉の色を漂わせて。


「だって、私のほうが先に骨になるもの」


「…………」


 それは、歳の差があるからというだけの意味じゃなかったと思う。


 お姉さんは生まれつき身体が弱いのだと妹さんから聞かされている。どんどん体力が落ちていくから、きっとそのうち死んでしまうんだと。僕の前だと元気そうにしているけど、机に置かれた薬の量は増えるばかりだ。お姉さんのお世話に雇われているお手伝いさんも仏頂面で頻繁ひんぱんに様子を見に来る。


 なによりじっとお姉さんを観察している僕には、日に日に彼女の鎖骨が浮き出ていくのが分かっていた。


 お姉さんの笑顔が怖く見えたのは、後にも先にもこの時だけだ。お姉さんはすぐいつもの優しげな笑みに戻って僕の頭を撫でる。


「君はどうしてこんな私に会いに来るの? 私は妹と違って君と一緒に遊んであげられないし、身体が弱いから外出もできない。お部屋の中でずっと他愛もない話を繰り返すばっかり。私は君の家族でもなければ恋人でもないから、私が妹に譲ってあげられるほど、君に何かをあげることはできないの。それはほとんどってことよ。ねえ、君はこんな皮と骨だけの女のどこがいいの?」


「その骨ごと愛しています」


 真面目な顔で即答する。するとお姉さんは、もう耐えられないというように吹き出した。


「ふっ、ふふふふあはははは! 君は本当に変わってるねぇ。ふふっ、じゃあこうしよう。私は君の骨を貰ってあげられないから、代わりに私の骨をあげるよ」


 名案だというように無邪気に笑う。その笑みに引っ張られるように、沈んでいた僕の気分はにわかに浮き立ち始めた。


「くれるんですか?」


「うん。君の言うとおり、私が死んだら私自身の持ち物なんてそれくらいしか残らないし。でもせっかくなら、有効活用してほしいかな」


「骨をつかうって……どうやって?」


 骨の使い道なんてすぐには思いつかない。原始人でもあるまいし、振り回して鈍器どんきにするわけにもいかないだろう。そう伝えると、お姉さんはねたように頬をふくらませた。


「そんな野蛮な使われかたはだな。私だって乙女だもん、どうせならもっと可愛い、いや優雅な──、そうだ! 骨で着飾ればいいんだよ!」


「骨を……きかざる?」


 いまいち意味が掴めず首を傾げる。するとお姉さんはふいに僕の体へ指を伸ばした。顔が近づいてきて心臓がいっきに高鳴る。


「うん。例えば上半身なら……頭蓋骨ずがいこつは前頭骨を切り出して帽子の中敷きにしようか。下顎骨したあごは思い切って、ひもを通してネックレスにでもしよう。指骨しこつは細かいからボタンに使えるかな? ほら、手の平のこの部分ね。あばら骨は肋軟骨ろくなんこつ胸骨きょうこつを取って、後ろから君の胸を覆うみたいに着るといいよ。私の背骨──椎骨ついこつの内側と君の椎骨ついこつの外側をぴったり重ね合わせてね。君の身体はまだ小さいから、外側に広げればきっと包んであげられると思う」


 細く白い人差し指の腹が、僕の骨の上を順になぞっていく。前のめりになった彼女の髪から清潔なシャンプーの香りがした。細い髪が表皮を撫で伝ってくすぐったい。


肋軟骨ろくなんこつの一番下にある肋骨弓ろっこつきゅうは形が複雑でオシャレだから、ベルトのバックルなんていいかも。ほら、分かる? この部分だよ」


 手を取られて、今度は僕が骨をなぞる番だった。お姉さんに導かれて僕の指がお腹と骨の間をさ迷う。互いの指をからめて、骨の位置を一つずつ確認していく。その作業はしばらく続いた。


 満足したお姉さんがようやく僕の手を放す。体勢を戻した彼女は楽しげに左右に揺れながら、なおも骨の使い道を思案しているようだった。


「大きい骨は使いづらいね。砕くにしても……うん、削って加工すればいいんだ。いつかできる奥さんのウエディングドレスに飾り付けするといいかも。あ、でも気持ち悪がられるかなあ」


「ぼくのえらぶお嫁さんなら、そんなことないと思います」


「ふふっ、それもそうだね」


 お姉さんは柔和に微笑み自分の着ている服を撫でた。


「私はオシャレなんかできなかったから。だからせめて、君が私の骨で着飾きかざってよ。もろくて頼りない骨だけど、そのぶん真っ白なサンゴみたいに、君をいろどってあげられると思うんだ」


 それが自分にできる精一杯なのだと、悲しげに笑う。


「ね? 約束」


 小指と小指をつないで、僕らは心を一つにした。


 その後はまるで宝物に鍵をかけて仕舞ってしまうかのように、もうこの約束を口にはしなかった。胸にだけめやらぬ想いを秘めて、話題はまた他愛もないものへと移っていく。


 その日の帰り道、僕はガラにもなく浮かれていた。


 骨をくれる。それは自分の全てをくれるということ。

 僕の願いとは少し違うけど、それは立場が逆になるだけ。


 骨を捧げることはこれ以上ない愛情だ。己が遺せる全てを預けることなのだから。

 お姉さんは僕を何よりも愛してくれている。僕を欲しがってくれている。彼女のすべてに包まれたとき、僕の全てほねは彼女のものと言えるだろう。


 そう思えることが嬉しくて。


 お姉さんが以前に教えてくれた花をんで帰った。

 お姉さんはオシャレで上品なものが好きだ。だから手土産にクッキーを作って、そこへ花びらを飾ろうと思う。


    ◇   ◆   ◇


 それからしばらくのことだった。


 僕はクラスメイトが法事で学校を休んで始めて、お姉さんの死を知った。


 初めて姿を見かけてから一年と少し。あの約束の日から数えれば、ほんの一月ひとつきも経っていない。


 享年きょうねん十九歳。お姉さんの身体はとどこおりなく火葬され、骨は骨壺こつつぼへと詰め込まれお寺に納骨されたという。


 それを知った時にはもう遅かった。

 僕は結局、彼女の全てどころか、のこった焦げ跡すら目にすることができなかったのだ。


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