第9話 友達になりましょう

「おれを助けてくれよぉ……!」


 必死に縋る子供のように綿毛羊わたげひつじの泣き声が響いた。


「……っ」


 理緒りおの足が縫い付けられるように止まる。


 助けて、という一言。

 それはあの夜、自分も口にした言葉だったから。胸から血を流し、『ガラスの階段』の下で倒れた、星灯かりの夜。理緒は氷室ひむろに言ったのだ。


 まだ終わりたくないです。

 なんでもします。だから僕を……助けて下さい、と。


 思えば、誰かに『助けて』なんて言ったのは初めてだったかもしれない。

 だって救いの手なんて恐れ多いもの、求めてはいけないと思っていたから。


「氷室教授」


 気づけば呼びかけていた。

 スーツの背中が「どうした?」と振り返る。


「僕が教授に『助けて下さい』って言った時のこと、覚えていますか?」


 形のいい眉が不可解そうに寄る。


「ついさっき、お前が森の外で綿毛羊の毛に絡まられた時のことか?」

「違います」


 でも言われてみれば、さっきも自分は助けを求めた。

 一度言えば、二度目は自然に言えてしまうものなのかもしれない。そう考えると、少しおかしくて自然に苦笑が浮かぶ。


「教授がヴァンパイアのルーツを探るっていう目標を話してなかったように、僕も教授に言ってなかったことがあるんです」


 別にあえて教授に告げるようなことでもない。

 ただ、今は口に出そうと思った。


「僕、子供の頃からずっと入院生活をしていました。長いこと、友達ひとりいなかったんです」


 生まれつき、ひどく体が弱かった。物心ついた時から家と病院を行ったり来たりで、ほとんど同級生と仲良くなれた試しがない。

 中学生ぐらいになれば体も強くなるかと思ったが、体調は芳しくなく、卒業式の日は病院のベッドで迎えた。


 無理をすればすぐに倒れ、色んな人に迷惑を掛けてしまう。朝起きたり、学校へいったり、何かを食べたり、呼吸をするのすら申し訳ない気がして、気づけば誰に対しても敬語で距離を取るのが癖になっていた。

 そんな自分だったから誰かに『助けて』なんて言うのはとても恐れ多いことだと思っていた。


 でも、だからこそ。

 自分に向けられた、『助けて』という言葉の重さは痛いほどわかった。気づいてしまえばもう聞こえないフリなんてできない。


 理緒は振り返り、少しずつ、少しずつ、歩み寄っていく。そして、そっと手を差し伸べた。泣いている綿毛羊に向けて。


「一緒にきますか……?」

「ふえ……?」


 つぶらな瞳が驚いたようにこちらを見上げた。


「お、おれに言ってるのか……?」

「ええ、そうですよ」


 笑みを浮かべながら頷く。緊張でぎこちない笑顔にはなってしまったけど、手はしっかりと指先まで伸ばしている。

 綿毛羊は恐る恐る、こちらの手を見つめた。


「……お、おれのこと、食べたりしないか?」

「食べません」


「……血を吸ったりしないか?」

「絶対しません。僕は人間ですから」

「人間?」


 綿毛羊は目を丸くする。


「嘘だろ? おれ、色んな土地で人間を見てきたから知ってるぞ。人間は目に見えないくらい早くナイフを振ったりできないし、木よりも高いところから落ちて無事だったりはしないんだ」

「本当、そのはずなんですけどね……」


 思わず苦笑いがこぼれる。


「今の僕はハーフヴァンパイアなんです」

「ハーフ、ヴァンパイア……?」


 すんすんと綿毛羊が鼻を鳴らす。


「本当だ……っ。お前、人間の匂いとあやかしの匂い、どっちもする。こんな奴、見たことない……っ」

「僕はもともと普通の人間なんです。ヴァンパイアとかあやかしも見たことなんてありませんでした。でもある日、悪いあやかしに遭遇してしまって……」


「それってあいつのことか!?」

「いえ、あの人は死にかけたところを助けてくれた人です。あんまりそうは見えないですけど……」


 綿毛羊が目をひん剥いて氷室教授の方を見たので、理緒はなんとも言えない顔で首を振った。

 病弱だった理緒も高校生になった辺りから徐々に体力がつき始め、病気がちな体が変わっていった。高校生活自体はこれといった思い出を残すことができなかったけれど、霧峰大学に受かった頃には医師から過不足なく通学できるというお墨付きをもらえるまでになった。


 両親に今までのお礼を言い、奨学金を申請して一人暮らしの準備を始めた。

 ずっとできなかった分、これからはちゃんと大学生活を送りたいと思った。しかし入学式の夜に邪悪なモノに襲われてしまい、死に瀕するという目に遭ってしまった。


「助かった代償に僕はハーフヴァンパイアになってしまいました。今は人間に戻るために頑張っている最中なんです」


 少し視線を落として、小さな綿毛羊を見つめる。


「僕はいつも人と距離を取っていて、踏み出すことを恐れていて、それでも……たとえば人混みのなかにいると、少しだけほっとできました」


 たとえば、ごった返した駅のホーム、多くの人が信号待ちをしている交差点、夕方の買い物時の商店街、そうした場所が好きだった。

 一人だけど、独りじゃないと思えたから。


「だけどハーフヴァンパイアになってからは、そうした気持ちも持てなくなってしまいました。僕みたいに日光で眠くなったり、鏡に半透明に映ったりするような人は、駅にも交差点にも商店街にもいませんから」


 だから、と言葉を紡ぐ。


「君の気持ちが少しだけわかるような気がするんです」


 ある日突然、ハーフヴァンパイアになって人間の枠からも外れてしまった、神崎理緒。

 ある日突然、群に置いていかれて仲間たちとはぐれてしまった、綿毛羊。

 その状況の辛さはどこか似通っているように思えた。


「そっか……」


 鼻先が手のひらに近づいてきた。


「……お前、名前は? 人間はそれぞれに名前があるんだろ?」

「理緒です。僕は神崎理緒と言います」

「りお、お前は……おれと一緒なんだな。お前も……」


 水面に雫が落ちるように、ぽつりと。


「独りぼっちなんだな……」


 小っちゃな前脚がぽんっと手のひらに触れた。


「なあ、りお。おれと友達になってくれるか?」

「友達?」

「人間は群の仲間のことをそう言うんだろう? 友達になったら……」


 綿毛羊の瞳に小さな期待が灯る。


「……おれたち、きっと独りじゃなくなるよな?」

「…………」


 胸がきゅっと締め付けられるような思いがした。

 手のひらに触れた前脚を優しく握る。


「なりましょう。友達に」


 その瞬間、綿毛羊が胸に飛び込んできた。

 もこもこの体が抱き着いてきて「わ……っ」と反射的に受け止める。


「りお、ありがとな」


 囁くように言い、綿毛羊が頬をすり寄せてきた。


「おれ、お前のおかげで、きっともう淋しくならない……」


 温かい涙が雨粒のように降ってきて、ひどく胸を打たれた。

 綿毛羊の言葉が嘘だとわかったから。


 もう群の仲間には会えない。

 この孤独は決して癒えない。

 そうわかった上で綿毛羊はやせ我慢をし、『淋しくならない』と言ったのだ。


 理緒という新しい友達のために。

 その友達が少しでも淋しくならないように。


 なんて優しい子だろう、と思った。

 気づけば、ぬいぐるみのような体をぎゅっと抱き締めていた。


 風が吹き、木立ちがさわさわと揺れた。薄暗い森のなかに小さな陽だまりが生まれる。その温かな光の輪のなかで、理緒は綿毛羊の背中を撫でた。

「僕の方こそ、ありがとうございます」


 囁くようにお礼を言った。

 ずっと夢みていた形とは違うかもしれない。でも誰かとこうやって想い合えること、それが自分の欲しかった生き方だったと思うから。


 理緒は感謝を込めて、新しい小さな友達の背中を撫でた。

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