第二十二話 ムスカイボリタンテス

 シャー芯が擦り減る音がだんだんと弱々しくなってきた。血色の良い彼女の唇も、力なく開かれている。


「花恋さん?」


「ふぇ?」


 おぼつかない意識で彼女はこちらを向いた。それも完全に振り返ってはなく、瞬く間に重力に吸われていく。柔い曲線を描いて、彼女とその匂いが僕の方に倒れた。


「んん……」


「今日はここまでしよう?」


「ま、まだ……がんばれ……」


「頑張れないでしょ」


 むんむん、と首を降る彼女。なけなしの気力でもう一度ノートに向かう。


「無理しちゃダメだよ」


「してないぉ……」


「絶対してる。最近バイトも増やしてるでしょ?」


「だって、ちょうどお仕事も覚えてきたところだから、頑張らないと」


「頑張りすぎだって。学校もバイトも、それからお母さんのところだって、毎日行ってるんでしょ?」


 中間試験まで一週間を切って部活がストップしているからまだ緩まったのかも知れないが、だとしても彼女が疲れているのは一目瞭然だ。


「それは、いつもだよ。それにテストがあるから、追加でちょっとだけ頑張るんだもん」


「元々がちょっとどころじゃないの」


 彼女の寝ているシーツを乾燥機にかけていたのを思い出して取りに行こうとすると、花恋さんは僕のお腹にしがみついて僕を引き止めた。


「いっちゃやぁや」


「お布団取りに行くんだよ。もうおやすみする時間」


「まだ、ふくそすーがあるのぉ……」


 彼女のノートには多項式が羅列られつされていた。それも赤の文字が目立っている。


「……それはまた今度、ってあれ?」


 しがみついた彼女に目を落とすと唸りは寝息に変わっていた。ただ肺の中身を交換しているだけのような静かな呼吸だった。


 寝ちゃった。


 僕は優しくその体を抱き上げてソファに移し、彼女のシーツを急いで取りに行った。四半ほどに軽く畳んで寝室に入ると急にお腹に手が回される。ポルターガイストの類は深く信じないけど流石に心臓に冷や汗をかいた。


 でも、すぐにその白さに覚えを感じた。


「おべんきょー、しよ?」


 ほとんど眠った彼女はお口だけでそう呟く。


「だーめ。今お勉強しても何も覚えられないよ?」


「むぅ」


「今日はもうおやすみ。ほら今布団敷くから」


 僕はシーツを伸ばしてベッドを用意すると、まとわりつく彼女の腕を解いて体ごとベッドに横たわらせた。もう抵抗できるほど覚醒した筋繊維が残っていない彼女は、溶けそうな声を漏らしながら、ぽふ、とベッドに張り付く。


 こうなってしまえば重力の絶対王政だ。


「……ごめん」


 彼女は黒猫を抱いてその頭に顔を埋めた。


「どうして謝るの?」


「だって、せっかく高坂君が数学教えてくれるっていうのに、こんな……」


「気にしなくていいよ。別に数学なんていつでも教えるから。それよりも、花恋さんは自分の身体をもっと大切しないと。今日の分のお薬は? 飲んだ?」


「うん」


 ベッドの横に腰を下ろしてにゃんこの下から顔を出す彼女の手を上からそっと包むように握った。


「花恋さんが眠れるまでこうしてる」


「えへへ……あったかいっ」


 導かれるように彼女の頭を撫でていた。決して強くない三等星のその透き通った輝きを誰に重ねたのか、自分でもはっきりしなかった。


 金星丘とへそが絶えず喧嘩をしている。彼女の幸せそうな寝顔が焼きついた網膜の裏で、そんな感覚だけが飛蚊症ひぶんしょうのように浮遊していた。





 立川公園を横断すると、すぐに開けた多摩たま川の河川敷が広がっている。その日曜日は薄い雲が張った涼しい日だった。


 夏を先行したかのように麦わら帽子を頭に乗せた少女は、川のほとりの方まで降りて楽しそうにこちらに手招きをしていた。僕はバッグのショルダーテープをぐっと握り直して彼女の方へ坂を下った。


「本当にここでよかったの?」


「うん。別に、高坂君とだったらどこでもよかったから」


「そう……」


 定期試験前最後の日曜日。本来ならそんな日は試験勉強に使うのが当たり前だが、花恋さんの気分転換を狙って午前中だけでも出かけようと誘った。相合傘は叶わない一日だが、二人きりで出かけることに彼女は意外にも積極的だった。


「ねぇ、ここにしよーよ!」


 ここ最近根詰こんづめ状態だった彼女はそんな疲れを全部消し去ってしまったかのような笑顔で僕を振り返った。昨日は相当ぐっすり眠れたのだろうか。


「そうだね」


 僕が答えるよりも早いか、彼女は持ってきたレジャーシートを芝の上にさっと敷いて、可愛らしいベージュのカバンとバスケットを置いた。バスケットの中には今日彼女が早起きして作ったサンドウィッチが入っている。


「贅沢なブランチだね」


「えへへ〜」


 二人で多摩川に向かって腰を下ろした。柔らかい斜面に香った光合成が始まって間もない都会の空気が変に美味しく感じた。


「はい。高坂君の分」


「ありがとう」


 彼女からサンドウィッチを受け取った。パストラミビーフとレタスが丁寧に挟んであった。


「上手だね、作るの」


「留学先の家族がお昼ご飯によく出してくれたの。せっかくだから作り方教えてもらって、マスターしたんだぁ」


「そうなんだ」


「味は、あんまり自信ないんだけど」


 そんなこと言っても彼女の料理で美味しくなかったものなんてこれまでなかった。


「いただきます」


「召し上がれ」


 彼女はサンドを口に運ぶ僕をじっと上目で見つめた。僕が花恋さんの手作りを食べるその一口目、彼女は決まってそうするのだった。そんなに心配しなくても、


「うん、美味しい」


「っ! よかったぁ……!」


 こうなるのに。


「私も、いただきまーす」


 口いっぱいに頬張って、幸せそうにもぐもぐして、彼女が可愛らしい理由なんてそれだけで十分なほどだ。


 サンドを口に運びながら流れの緩やかな多摩川をぼんやりと眺めた。


「高坂君」


「ん?」


「あの、ありがとう。一緒にお出かけしてくれて」


 彼女は桃色のカーディガンをきゅっとつまみながらそう言った。笑っていた。


「ううん。そういえば一番最初に必要なもの買いに行った時以来二人で出かけることなかったもんね」


 吹奏楽は毎週休日も練習。それに加えてお母さんの病院と檸檬さんのお見舞い。とんでもない過密スケジュールで動いて、帰ってきたら学校の勉強したり部屋の掃除をしてくれたり、時々甘えちゃんしたり。


 檸檬さんの立ち位置が僕に変わっただけで、彼女の生活のせわしなさはほとんど変わっていないだろう。


「高坂君が初めてなんだよ。男の子と、二人でお出かけするの」


「お出かけの前に、その男の子と二人で住んでるんだよ?」


「えへへ、そうだよねぇ」


 はぁ〜、と彼女は広く鮮やかな息を吐いた。それから少し躊躇うようにして僕の肩に頭を預けてもたれる。風が吹いていた。



    「……いすきっ」 


「ん? 何か言った?」


「ふぇ? あ、あぁ、な、なんでもないっ。その、ちょっとだけ、充電……」


 白い指が僕の上着に皺を刻んだ。


 花の香りは触れるほど近くにいないと感じない。路上に咲いているようなありふれた香りを僕らが知らないのは、日常という箱にしまいながらそれを取り出してでることをしないからだった。彼女の匂いは風に溶けなかった。


「んっ」


 花恋さんはぐっと両手を天に向けて身体を伸ばした。


「っはぁ! よし、これでまた頑張れる! ねぇねぇ、帰ったら一緒にテスト勉強しよ! 数学教えてもらいたいところまだあるし」


「うん、いいよ。僕も英語苦手だから花恋さんに教えてもらお」


「えっ! もちろん教えるよっ」


 僕は嬉しそうに瞳を輝かせる彼女を横目にシートから立ち上がって腰を反らした。


「せっかくだから少し遊んでから帰る?」


「ここで? 何するの?」


 彼女に聞かれて川の方へ適当に視線を投げる。


「水切りとか?」


 僕がそう呟いた瞬間、彼女は打ち上げられる勢いで立ち上がった。


「勝負なら受けて立つよ! ちっちゃい頃パ……お父さんにキャンプでみっちり鍛えてもらったから!」


「お、じゃあ勝負にする?」


「うん! いこっ」


 彼女に手を引かれた。河川敷の傾斜は僕らに優しかった。

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