第九話 罪悪

「何か恋に墓標ぼひょうでも刻んでるの?」


 檸檬さんは優しく透き通った声を僕に向けた。


「いや、ただ僕が小さいだけですよ」


「心の話なら問題だけど、身長の話なら問題ないよ。背が高い方がいい男だっていうのはくされが立てた迷信だから」


 僕は血管の内側にこびりついたかつての灰色をゆっくりと溶かした。指先まで罪悪感で湿らせて、それから眼球を少し、うごめかす。


「ぜひ話してくれないかな。君が花恋ちゃんのことを知るように、ボクも君のことは知るべきだと思うから」


 息を吐いた。


「……僕にも初恋がありました。もう五年以上前、ですね」


「んぉ、小学生か。あわいね」


 檸檬さんは目を閉じる。


「誰にでも優しくて絵に描いたようないい子で、二、三歳から一緒にいたんです。僕は昔からあんまり友達はいなかった方ですけど、彼女がいればもうそれで充分でした。今考えたら、それもだいぶませた考えなんですけどね」


 左手に指が六本生えているような気持ちの悪い錯覚。


「でも心は子どもだったから、それが、好き、って気持ちだってことに気づいたのもそんなにすぐではなかったんです。ゆえに最後まで片想いでした」


「……亡くなったの?」


「はい。誘拐事件に巻き込まれて、そのまま」


 檸檬さんはやわい視線軌道を窓の外へ放る。


「五年前って、もしかしてあの事件……」


 2017年夏。罪のない四人の少女が死神にもてあそばれた平成最後にして最悪の連続誘拐事件。彼女はその三人目に選ばれた。棺の中の雪になった彼女の姿も、火葬場の焦げるような湿度も全部、網膜にあざとなって染み付いている。


「彼女が誘拐されたのは、僕のせいなんです」


「え?」


 彼女の生きている姿を最後に見たのは暑い夏の昭和しょうわ公園だった。B時程だった学校が終わって、昼下がりからちょうど二人で出かけた日。影が伸びても姿を消さない猛暑に脱水気味になった彼女を広場の木陰で休ませて空になった水筒を補充しに走っている間に、彼女は忽然こつぜんと姿を消した。


 白昼堂々の犯行。


 同じ昭和公園の水色の滑り台で彼女の抜け殻が発見されたのは、それから一週間後のことだった。


「……彼女の家族は僕を責めたりしませんでした。僕が想うよりもずっと、彼女のこと大事にしてたはずなのに、仲良くしてくれたからと僕に優しくしてくれました」


 ほとんど、僕が殺したようなものだった。


「それは、結果論だね。確かに君のせいなのかもしれないけど、でも君だって被害者だ。君は彼女を奪ったんじゃなくて奪われた身なんだから。君だけじゃなくて亡くなった他の子の家族や大事な人もみんなそうだよ」


 檸檬さんはほこりさとした。


「でも、本当に可哀そうだね。何の罪もなかったのに」


「でも好きを伝えられなくてよかったのかもしれないって思ったりもします。伝えていたらきっと僕は、人の姿をして立っていることすら許されない」


 伝えられたら、幸せになれたのだろうか。公園じゃなくて水族館にでもデートに行っていたのだろうか。そうして今も、あの笑顔に心を温められていたのだろうか。


「それ以降もう大切な人は作っていません。失うのも奪うのも、もう二度と繰り返したくなくて。大切なのは、家族だけですね」


「そう考える気持ちはよくわかるよ」


 檸檬さんはただ頷いて亡者の結切むすびきりうけがった。


「でも、君は人の形をしてそこにいる。その限り誰かと交わるのは避けられないんじゃないかな。例えば今この病室にボクと君がいて、ボクは君から初恋の話を聞いた。別にボクのせいでも君のせいでもない。ボクたちが生きていて、たまたまそんな時間があっただけなんだよね」


 そんなことはわかっている。でも僕はそうでもしないと、彼女が今ここにいない事実に納得することができない。僕の小ささだ。


「そういえば花恋ちゃん戻って来ないな」


 檸檬さんは思い出したように病室の入り口に目を向ける。


「見てきますよ」


 僕は席を立って彼女が出て行ったきり開きっぱなしになっていた病室のドアから顔を出した。探し物はすぐに見つかる。


「え」


「あっ」


 三本の緑茶を抱えながらドアの脇に小さくうずくまっている花恋さん。抑えられずに溢れ続けるの源流を探しているうちに、彼女はさっと立ち上がって走り去った。未開封のペットボトルは音を立てて廊下に落ちる。


「ま、待って!」


 僕は急いで彼女の後を追いかけた。階段を駆け上がって、木製デッキが組まれた屋上に出る。太陽は色をすり替えながら西に引っ張られていた。


「待ってって」


 腕を掴んで引き止める。彼女は向こうを向いて俯いたまま声を絞り出すように言った。


「高坂君のこと、何も知らないでわがまま言ってごめんっ……」


 声が灰色に追いつかない。彼女はえずく。


「どうして、花恋さんが気にすることじゃないよ」


 僕は花恋さんを包むようにその背中をさすった。


「高坂君にも傷があるのに無責任に頼って、大切な家族の中に私が無理矢理入り込んでっ、そんなの、迷惑、だし」


「そんなことないよ。花恋さんの大切を守る方がずっと大事だから。また檸檬さんと一緒に暮らせるようになるまで、僕や僕の家族が必要ならいくらでも力を貸すから」


 彼女の輪郭を捉えないように、柔く。


「私の、大切……?」


「うん」


 彼女は言葉を塞いで、涙に両替する。


「花恋さんのことは僕らがちゃんと守るよ。だから、安心して」


 幸せになるべき人が幸せになればいい。それくらい単純でいいはずだ。そんなことすら、この世界じゃ未だ実現していないのだから。みんな夢のような幸せにすがって、ないものをねだって、誰かをうらんで、ねたんで、生きている。


 こんな彼女の涙をよろこぶ人間だって、きっとどこかにいる。


 ゆっくり、抱き寄せる。


「大丈夫だから。ね?」


 彼女は小さな手で口を覆ったまま、こくりと頷いた。





「ただいま」


 昭島の家の扉を引くと、ちょうど制服姿の美咲と綺麗な通学鞄が玄関に転がっていた。


「あ、お兄ちゃん」


「何してんの?」


「疲れて動けないんだもん。玄関の床、ひんやりしてて気持ちいいのっ」


 中学校入りたてはそうなるのもわかるけど。


「せめて自分の部屋までは行きなよ。踏んづけちゃうよ?」


「我の部屋二階につき。お兄ちゃん抱っこして連れてって〜」


「階段で落としたら死んじゃうでしょ。リビング送りの刑ね」


 僕は四肢を投げ出してぶっ倒れている美咲の腕と体を支えて背中に背負い、リビングの扉を押した。どうやら母さんは出かけているらしい。


「美咲、大きくなったね」


「えっ。おっぱい?」


「背だよ」


 西日が温めたソファに彼女を降ろして僕もその隣に座った。動けなかったはずの美咲はもぞもぞ這って僕の上に跨ると、うんうん唸りながら僕の胸に顔を擦り付けた。


「なによ」


「久しぶりのお兄ちゃんだから。ぜーんぜん帰って来ないんだもん」


「言ってもまだ一週間経ってないよ」


「高校生のお兄ちゃんが一週間も家に帰って来ないことがまず異常なのっ。お姉ちゃんもお兄ちゃんの方行っちゃうし。でも、お姉ちゃんの匂いしないね。他の女の匂い付けて帰ってきやがって! みたいなことしたかったのに」


「まず僕が美咲の男じゃなきゃいけないじゃんそれ」


「な、なにソウゾウしてるの……?」


 美咲は自分の胸周りを両手で押さえながら怪しげな目を向ける。


「そっくりそのままお返しするよ」


「えへへ」


 僕への施錠を笑みで解いた彼女は、スッと立ち上がって日の当たらない部屋の端に置いてあるルリの飼育ボックスを覗き込んだ。


「お姉ちゃん、元気してるの? この間、水曜日だったかな? ちょっとだけここ帰ってきてくれたんだけど」


「まあ特には何も起こってないよ。今日も新しいバイトの面接だって」


 ふーん、と彼女は口をとんがらせる。


「お兄ちゃんって女たらしだよね」


「え、何急に。めちゃくちゃ悪口……」


 美咲はため息を吐いた。


「何もしてないの? 一週間二人きりで過ごしてさ、何にもないのっ? 一緒に寝たりとかさ」


「するわけないでしょ」


 その役職は黒いにゃんこが持ってる。


「一緒にするのは、ご飯食べるくらいだよ」


 さらに大きなため息が飛んでくる。


「お兄ちゃんは優しいよ。それは知ってるし、私もそんなお兄ちゃんが大好きだけどさ、優しさだけじゃ女の子にとっては毒なんだよ」


「……毒?」


 美咲の手のひらに乗って運ばれてくるルリ。運よく起きていたのだろう。


「お姉ちゃんは水曜日の時点で色々お話ししてくれたんだからさ、きっとお兄ちゃんのこと色々知りたいって思ってると思うよ。だからお兄ちゃんももっと知ってあげてよ、お姉ちゃんのこと。それで、私にお・し・え・て?」


「最初っからそれ狙い?」


「当たり前でしょっ! 私の可愛いお姉ちゃん取っておいて何もないなんてありえないからっ。ま、まあ一緒に寝るはハードル高いかもだけど、寝顔くらいはゲットしてきてよ」


 盗撮しろって言うの?


「じゃあ今度ここに二人で帰ってくるから、その時に美咲が自分で狙いなよ」


「ばかっ。それじゃあ意味がないのっ。その、ほら、やっぱり人が撮ったものの方が、興奮、するじゃん? ね?」


 そこにある意味がわからないんだけど。

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