9日間

第1話

　「ようこそ　みんなのキャンプへ！」

　車から降りると、不揃いな太い字でそう書かれた白い布が二本の木の間ではためいていた。ミンミンゼミが大合唱でお出迎えだ。暑い。竜（りょう）はため息をついた。あーあ、着いてしまった。

　「麗子さーん！久しぶり！」

　ジーンズに、パッと目を引く黄色のTシャツを着て、太いえんじ色の縁のメガネをかけたショートカットのおばさんが、手を振りながら走ってきた。母さんとはしゃいで抱き合っている。久しぶりだって。竜はおかしくなった。牧野さんと母さんはしょっちゅう電話で長話している。確かに実際に会うのは年に一度このキャンプでだけだろうけど、あんなに頻繁に長電話していても、久しぶりっていうんだろうか。

「リョウくんも久しぶり！あらあ、背が伸びて！いいオトコになったわねえ」

「は、いえ…」

　牧野さんは声が大きい。竜は「いいオトコ」なんて言われてどう反応したらいいかわからず困ってしまった。

「水泳、こないだの大会で優勝したんだって？すごいじゃない。おまけに成績トップで学級委員でしょ？こりゃあ女の子にモテて大変だ」

「変なこと言わないでよ」

　笑いながら母さんが牧野さんをたしなめる。

「あらだってほんとよぉ。男前だし、スポーツマンだし、勉強もできるし。女の子はやっぱりそういうのに憧れるわよねえ。そろそろ彼女なんかできる頃じゃないのぉ」

「まだ小学生なんだから、そういうくだらないこと言わないでっ」

　母さんはだんだん本気の顔になってくる。牧野さんは首をすくめた。

「ホイしまった。失言失言。ごめんねリョウくん」

「え、いえ…」

　謝られて、また竜はなんと言ったらいいのかわからず困ってしまった。

「それでマコトちゃんは？やっぱりダメ？」

　牧野さんの問いに母さんは苦い顔をして首を振った。

「ダメ。頑として譲らなかったわよ」

「そうかあ。残念！でも仕方ないわよ。本人が部活の合宿の方に行きたいっていうんだからさ」

「部活の合宿なんて！くだらない。どうせただのお遊びなのよ。このキャンプの方がずっと有意義に決まってるのに。あーあ、ちょっと前まではもっと親の言うことを聞く素直ないい子だったのに。がっかりだわよ」

「まあまあ、そう言わないで」

「最近なーんかよそよそしくなっちゃって、嫌な感じなのよ。変にすましちゃって、女の子っぽくなっちゃって」

「そういう時期なのよ。中学生になったんだしさ…」

　ひきもきらずに喋りながら歩き出した二人の後について、竜もザックを背負い、ゆっくり歩き出した。

　竜は小学六年生。姉の真（まこと）は中学一年生だ。この、主に障害を持った子供たちと障害を持たない子供たちの交流を目的とした「みんなのキャンプ」には、２年前から父さんを除く家族全員で参加していた。母さんは牧野さんに誘われて何年も前から来ていたけれど、２年前母さんが「今年からはマコトちゃんとリョウちゃんも参加すること！いいわね？」と命令を下したので、竜たちも来ることになったのだ。

　母さんは牧野さんをはじめとした友人たちと毎夏会えるのを楽しみにしているけれど、竜と真は正直に言ってあまり来たいとは思っていなかった。お風呂やトイレは共同だし、食事も当番制で自炊、夜はいくつかの大きなキャビンに分かれて大人数で雑魚寝、山の中なので虫がいっぱい、というだけでも、母さんいわく「繊細なお父さんに似ちゃった」そして「都会で甘やかされて育った」竜と真の顔をしかめさせるのに十分だったし、その上ケータイ禁止だ。ゲームだのクイズだのスイカ割りだののイベントもすべて強制参加だし、おまけに…

「あっそうそう。リョウくん、これ。ペアの相手」

　まだくどくどと最近の真の変化について愚痴を言っていた母さんを遮って、牧野さんが竜に一枚の紙を渡した。はにかんだような微笑みを浮かべた、人の良さそうな丸顔の男の子の写真の下に「船橋健太　フナバシ　ケンタ　小学校六年生」とある。

「どれ、見せて」

　母さんが紙を覗き込む。

「あら、同い年。よかったじゃない。仲良くなれるといいわね」

　おしゃべりに戻った二人の後ろで、竜はため息をついた。

　キャンプでは、最初からペアの相手が決められていて、基本的にいつも二人で行動するように言われる。大人はできるだけ手を出さない、というのがこのキャンプのポリシーで、子供たちは、障害のある子もない子も、お互いに助け合いながら４日間を過ごすのだ。

　子供同士助け合ってやっていくのはいい。でもなぜ初めからペアなんていうものを決めるんだろう。自由にさせておいてくれればいいのに。一人になってしまう子が出ないようにという大人の考えなのかもしれないけど、なんだか、物語に出てくる、逃げ出さないように二人一緒に鎖で繋がれている奴隷になったようで、竜はどうしてもこのペアというやつが好きになれないのだった。自由に、気の合う子と友達になる。困っている子がいたらそばにいる子が助ける。それでいいじゃないか。

　受付の後、まずは広場で、渡された写真と胸につけた名札を頼りに、ペアの相手を探さなくてはいけない。探し当てたら、挨拶と自己紹介をして、二人で連れ立ってキャビンにチェックインし、荷物を置くことができる。この相手探しはゲームみたいでちょっと面白い。初めて参加した年は、早く見つけなければと焦ってドキドキしたけれど、三回目ともなると気持ちに余裕が出てくる。相手がすでに広場に来ているとは限らないので、まずはベンチを確保してゆっくり座ることにする。探すのはそれからだ。

　そう思って竜が大きなザックをベンチにおろし、やれやれと腰を下ろしたほんの数秒後、

「ハヤカワリョウくん？」

と、斜め後ろから声をかけられた。座ったまま慌てて振り向くと、さっき写真で見たばかりの人の良さそうな男の子が、車椅子の上でニコニコしていた。

「はい。えっと、フナバシケンタくん？」

「はい。初めまして」

「初めまして。よろしく」

「こちらこそ、よろしく」

　二人はエヘヘと照れ笑いをしながら握手をした。

「こんにちは。ハヤカワリョウくんね」

　香水の匂いとともに、二人の頭上から甲高い声が降ってきた。健太の後ろから、洒落た白い服を着た、すらりとした女の人が現れたところだった。

「健太をよろしくお願いしますね。車椅子は押したことあるかしら？舗装されてないところだと、慣れてないとちょっと大変なんだけど…」

「ママ」

　健太がわずかに顔をしかめて振り返る。

「大丈夫だからもう行って」

「あっ、そうね、そうね」

　健太の母は首をすくめるようにして笑った。

「じゃ、リョウくん、よろしくお願いします。何しろ初めてなものだから、あ、リョウくんは何度目？」

「三度目です」

「まあ、そう。じゃベテランね。健太に色々教えてあげてくださいね。この子、キャンプに参加したりするの初めてで…」

「ママ！」

　健太の声がさっきより大きくなった。顔がほんのり赤くなっている。

「はいはいっ。それじゃね。リョウくん、よろしくお願いしますね」

　健太の母は健太の肩を軽く叩き、竜ににっこり頭を下げると、香水の匂いを残して去っていった。

「ごめんね。過保護なんだ、うちのママ」

　健太はきまり悪そうに言った。

「お母さんも参加するの？」

　子供だけが参加する場合もあるのだ。

「うん。リョウくんのお母さんは？」

「うん、うちも参加」

　ケンタくんのお母さん、大丈夫かなあ、と竜はちょっと心配になった。キャンプの常連のお母さん達は、みんな強者揃いで、オホホじゃなくてガハハと笑うような人たちばかりだ。きっとびっくりするだろうな。

　二人はキャビンへと向かった。竜は車椅子を押すのは１年振りだったけれど、このキャンプ場は大抵の道がきちんと舗装されているので、難なく押せた。

　お互いのことをあれこれ話しながら、二人はどんどん仲良くなった。家族のこと、学校のこと、趣味のこと。

　大人しそうで、話し振りもおっとりと優しげな健太が、バスケットボールが大好きで、車椅子でやるバスケットボールチームのキャプテンだと知って、竜はびっくりした。人は見かけではわからない。

　竜が真のことを話すと、一人っ子の健太はとても羨ましがった。

「いいなあ。お姉さんがいるなんて。いいなあ。いいなあ」

「そんな。大していいことなんてないよ」

　健太のあまりの羨ましがりように、竜はなんだか照れくさくて口ごもる。

「あるよ！いろんなことが一緒にできるじゃない。遊んだり、おしゃべりしたり、色々教えてもらったり…。僕なんて、家にいる時や家族旅行の時に喋る相手といったら、パパとママしかいないんだもの。いいなあ、リョウくん。お姉さんと、普段どんなこと話すの？」

「どんなこと、ねえ…」

　そんなこと考えてみたこともなかった竜は、眉間にしわを寄せ考える。

「そうだなあ、結構なんでも話すよ。昨年までは同じ学校行ってたし、スイミングもピアノも同じところに通ってるし」

「共通の話題がいっぱいなんだ。いいねえ」

「でも、だからなんだろうけど、喧嘩もするよ。ピアノの取り合いとか」

「お姉さんもキャンプに来てるの？」

「昨年までは来てたんだけどね。今年は、部活の合宿と重なっちゃって、合宿の方に行くって言って、母さんと大喧嘩になってさ。大変だったんだ。ああ、そうそう、親のこともよく話すよ。愚痴の言い合い」

「反抗期ってやつだね」

　健太はおどけて言った。

「そうそう」

「いいなあ、愚痴の言い合い。僕は、パパやママと喧嘩した時には、うちの犬に愚痴を聞いてもらうんだけど、聞いてもらうだけじゃ物足りない時もあるよ、やっぱり」

「ケンタくん、犬飼ってるの？」

　竜は目を輝かせた。

「どんな犬？」

「ゴールデンレトリバー。ルークっていうんだ。今３歳だよ」

　今度は竜が羨ましがる番だ。

「いいなあ！僕、小さいときからずっと犬が欲しくて欲しくて、何万回も親に頼んでるけど、ダメだって。母さんが嫌だって言うんだよね。父さんも真も犬が好きなんだけど、うちは母さんがダメっていうとダメなんだ」

「ルークの写真見る？」

「うん！」

　健太はポケットに手をやって、

「…あ、ケータイないんだった」

　子供はケータイを受付で預けるのが、「みんなのキャンプ」のルールなのだ。

「キャンプが終わったら見せるよ」

「うん。ねえ、ルークって家の中で暮らしてるの？」

「そうだよ。寝るときは僕の部屋で一緒に寝るんだ」

　竜は羨ましくて羨ましくて、声を上げずにはいられなかった。

「いいなあー！羨ましいー！」

　健太はくすくす笑って、

「リョウくんにはお姉さんがいるじゃない」

「そうだけど、でも…。ああ、いいなあー」

　そのあとキャビンに着くまで、竜は健太にルークのことを色々話してもらい、犬と一緒の生活を想像してうっとりしたのだった。

　キャンプ１日目の夕食は恒例の豚汁で、時々は大人たちの手を借りながら、子供達はご飯を炊いたり、野菜を切ったり、ワイワイと奮闘した。健太は手際よく里芋の皮をくるくると剥いた。

「ケンタくん、うまいねえ」

「ママがさ、料理くらいできないと、結婚できないわよ！って手伝わせるんだ」

　健太が甲高いお母さんの声色を大袈裟に真似たので、竜は吹き出した。

　みんなで作った美味しい夕食をたらふく食べた後は、キャンプの主催者のスピーチやあれやこれやの係の人達からの連絡事項を聞いて、片付け当番の子供達を除いて自由時間となった。

「お風呂どうする？早めに行っちゃう？」

「あ、僕は時間決められてるんだ。９時だって。」

　このキャンプ場には車椅子を使う人のためのバリアフリーお風呂があるのだが、個室で二つしかないので、スケジュールが決められているのだ。

「そっか。今７時半だから、まだ随分時間あるね。じゃあ僕、今のうちに入ってきちゃおうかな」

「それがいいよ。僕はキャビンで待ってるから」

　二人はキャビンへと向かった。途中、遠くに何人かのお母さんたちが固まって楽しそうにおしゃべりしているのが見えた。竜の母さんも健太のママもいて、楽しそうに笑っていたが、こちらに気がついて手を振った。二人も手を振り返した。

「ケンタくんのお母さん、大丈夫みたいだね」

「大丈夫って？」

「あ、いや。うちの母さんとか、他のおばさんたちも、いかにも『肝っ玉かあさん』って感じだけど、ケンタくんのお母さんは優しそうで繊細って感じだから、もしかしたら馴染めないんじゃないかなあと思ってたんだ」

　ケンタはおかしそうに笑った。

「全然そんなことないよ。リョウくんと挨拶した時のは、よそ行きの顔。普段はあんなんじゃないもん。怒ると結構怖いんだよ。どっちかっていうとパパの方が繊細かな」

「へえー、うちもだよ！」

　健太の入浴の時間になった。二人で中の設備を点検した後、健太がこれなら一人で大丈夫だと言ったので、竜はバリアフリーお風呂の外のテラスで待っていることにした。健太が呼んだらすぐ聞こえるように、ドアのすぐ脇の木のベンチに腰を下ろす。少し湿気を含んだ山の風が時折ふうっと頬を撫でる。頭上には、背の高い木々の間にちらちらと星が瞬いていた。

　しばらくの間、竜はあれやこれやのことを考えるともなく考えながら、ぼうっとあたりの木々を眺めていた。隣のお風呂には、健太より少し後に、大柄な車椅子の女の子と、その子のペアらしい同い年くらいの小柄な女の子と、車椅子の女の子のお母さんらしき人が入っていった。女の子はお風呂に入りたくないようで、癇癪を起こしているのを他の二人が一所懸命なだめているらしい声が、ずいぶん長いこと微かに聞こえてきていた。

　うーんと伸びをして、竜は夜空を見上げた。木々に遮られてそうたくさんは見えないが、薄曇りの空にいくつかの星が瞬いている。夏の大三角。アルタイル、ベガ、デネブ。デネブは白鳥座。十字の形をしているから…あれかな、木が邪魔でよく見えないな、と眉をしかめて空を睨んでいると、ふわりと微かにいい匂いがしたような気がした。甘い匂い。ケーキ屋さんの匂いだ。

　ベンチの背もたれから身を起こして、竜はふんふんと辺りの空気の匂いを嗅いだ。変だな。こんなところで誰かケーキ焼いてるのかな？

　その時、お風呂の電動スライディングドアがスーッと開いて、首回りにタオルをかけた健太が出てきた。

「お待たせ」

　竜は急いで健太の背後に回って、車椅子のハンドルに手をかけた。

「どうだった？」

「うん、最新式のお風呂で快適だったよ。…あれ」

　タオルで髪を拭こうとした健太の手が止まった。鼻をひくひくさせる。

「なんか、ケーキ屋さんみたいな匂いしない？」

「するよね」

　カットされたケーキがいくつかあるくらいではこんな匂いはしない。これはまさしくケーキ屋さんの匂いだ。

「なんでだろう。キャンプ場なのに」

「うーん、いい匂い！ケーキ食べたい！」

　二人とも身体いっぱいに美味しい匂いを吸い込む。

「そういえばデザートなしだったもんね」

「どこから来るんだろうこの匂い。すごく近い感じがするけど」

「こっちじゃないかな。風はこっちの方角だよ」

　健太が左側を指差す。

「ちょっと行ってみようか」

　竜がぐっと車椅子を押して一歩踏み出した途端、すっと辺りが真っ暗になり、一瞬耳が聞こえなくなったような感じがしたかと思うと、次の瞬間、二人は昼間の眩しい光の中にいた。