第5話 美しきとらわれびと絵島への怨念



 あっさり打ち捨てられた小梢は、かつて記憶のない胸の高鳴りを持て余していた。


 兄・徹之助の親友だった弥太郎は、幼い頃は大人しくて目立たない子どもだった。

「よう、てっちゃん、てっちゃんってばあ」いつも徹之助のあとばかり付いてまわりたがり、大人びた悪餓鬼どもから「腰巾着」の仇名まで付けられていたはずだ。


――その弥太郎が、どのような半生の結果、かくもあざやかな変貌を遂げたのか。


 小梢はいま再会したばかりの弥太郎のことを知りたくなっている自分に驚いた。

 かような修羅場なのに、甘酸っぱく掻き立てられた胸のざわめきが収まらない。


 われながら妖しげなときめきは、春暁のうつつ微睡まどろみのなかで、何処の花園に遊ぶとも知れぬ甘やかな夢に身を委ねているときの陶然たる蠱惑こわくに似ている。


      *


 寝間着の襟から容赦なく入り込む粉雪が、異界への一瞬の幻惑を醒ましてくれた。

 体温を喪失し、無惨に転がった兄の遺骸には、しんしんと雪が降り積もっている。


 文武両道に長け、温厚篤実な兄は、つい先夕まで常と変らず至って健やかだった。

 それがいまは、おのれの意思で指1本たりとも動かせぬ。

 言葉も発せないどころか、呼吸すらできぬ。

 かような理不尽が受け入れられようか……。


 泣き腫らした顔を上げた小梢は、自分と兄とを取り囲む10人近い侍を見やった。

 揃って沈鬱ちんうつな表情を俯かせる武骨な武者輩むしゃばらは、兄の朋輩の「花畑衆」である。


 罪人とはいえど、幕府からの大事な預かりびとに万一の事態が発生すれば、警護の「花畑衆」の切腹はもちろん、監督不行き届きの責めを問われた内藤家は、御家断絶の咎を免れぬだろう。


 重い責を負わされた「花畑衆」の慟哭が、小梢の胸にもひしひしと伝わって来る。

 兄の亡骸のそばに呆然と座りこんだ小梢は、ふと、黒い人垣越しの視線を感じた。


 ――おすがたは見えぬ。

   だが、暗い屋内から、絵島さまがこちらを凝視しておられるにちがいない。


 小梢はひそかに確信した。


      *


 正徳4年1月12日(1714年2月26日)、7代将軍・徳川家継の生母・月光院(6代将軍・家宣の側室)に仕える大年寄り・絵島は、月光院の名代として増上寺に参詣した。


 帰路、芝居見物に立ち寄ったため、江戸城の門限にわずかに遅れた。

 その罪により信濃高遠領主・内藤駿河守清枚ないとうするがのかみきよかずさまお預け(永遠流ながのおんる)となった。


      *


 絵島の視線を強く意識した小梢は、ここまでの経過をあらためて思い返していた。

 辺鄙へんぴな田舎には不似合いな江戸の艶聞を、いきなりどかどかと持ちこんで来た女である。顔を見たこともない絵島を、小梢は乙女らしい潔癖性で毛ぎらいしていた。


「さて、それはどうであろう。世間のうわさというやつは、蜜蜂の脚に付けた綿毛のごとく勝手気ままに浮遊するもの。真実は奈辺にあるか、真相は本人しかわからぬ」


 妹の浅慮を穏やかに諭してくれる兄・徹之助の卓見を小梢は心から尊敬していた。

 だが、一方では、日々、絵島という女人への傾斜を深めて行くように見える兄に、「あのお方は女ながら天晴れなお心根の持ち主であられるぞ。暇に飽かせた朋輩衆が悪戯半分に謎かけを試みても、『大奥の事柄は、いっさい口外厳禁にございます』と仰せになって貝のごとく口を閉ざされた。あそこまでのお方は武士にもおられまい」日頃の寡黙が嘘のように熱っぽく説かれると、本能的な反発と妬心を抑えかねた。


 兄上はもしや、絵島なる年増女の色香に、お迷いになっているのではなかろうか。

 あとで泣きを見ぬよう、妹のわたくしがしっかりと見張って差し上げねばならぬ。


      *


 だが、無念ながら、その祈りは適わなかった。


 ――間接的にせよ、大事な兄上の命を奪ったのは、まぎれもない、あの女人。


 いささか方向ちがいの怨念が、小梢の手痛い傷心を、半ば煽り、半ば慰めている。


 ――復讐すべきは不埒な賊なるか。

   それとも絵島なる女人なるか。


 美しい罪人とがびとのすがたは見えぬが、嵌殺しの格子にたしかな凝視の気配がある。


 挑むような視線を投げつけた小梢は、唐突に、郷士屋敷に残して来た母を思った。

 寒くて暗い屋敷の寝間で、逆縁の不安にひとりで堪えている、病身の彌栄を……。

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