scene 4. 虹の彼方へ

 狭い部屋の片隅、壁際に置かれたスチールパイプのベッドはところどころ塗装が剥がれ、錆びていた。どこかのボルトが緩んでいるらしく、テディを組み伏せたルカが動くたびにベッドはぎしぎしと軋み、壁に当たって音をたてた。

 徐々にピッチを上げながら激しくなっていた音は、やがてテディが狂おしげにルカの名前を連呼すると、ぴたりと止んだ。長めに伸ばした髪を振り乱したルカが、くずおれるようにテディの上に覆いかぶさる。名残のように、ぎっ、とベッドが音をたて、僅かに揺れた。

 静まりかえった部屋のなか、かわりに耳を擽るのは互いの荒い息遣いに変わり、ふたりは熱を保とうとするかのようにぴたりと肌を合わせたまま、じっとブランケットに包まっていた。


 ――まったく利かないオイルヒーターは電気を喰うだけ無駄な気がして、スイッチはオフにしたままだった。鼻先に感じる部屋の空気は冷たく、ベッドから出たくはなかったが、ずっと裸のままこうしているわけにもいかない。ふたりは意を決したようにブランケットから這い出ると、厚手のスウェットスーツをすっぽりと着て靴下も穿き、またベッドに戻った。

「うぅ、寒ぃー」

「アラームかけた?」

「ああ、ちゃんとかけてある。でもアラームが鳴る前にあのチビらの声で目が覚めるよきっと。四時間おきくらいにミルクなんだろ?」

「うん、そう書いてあった……ちゃんと起きられる?」

「大丈夫だろ」

 電話にでたエメシェというシスターには明日の朝、ミサの準備があるので九時より早い時間に来てほしいと云われていた。日中、ミルクを飲んでは少し遊んで眠るのを繰り返した仔猫たちは、今またセーターに包まれ、箱の中でおとなしく眠っている。

 すっかり夜も更けたこの時間、窓の下辺りからひんやりとした空気が床を這うように広がり、部屋の温度はますます下がっていた。ふたりは狭いベッドの中、互いに背中に手をまわしてぴたりと躰を寄せ合い、何度もキスをしてそのまま眠りについた。




       * * *




 ふと目が覚めたのは何故だったのか――アラームの音は聞こえず、ミルクをやるために起きなくては、という意識があったから自然に目が覚めたのかと、ルカは思った。が、時計を見るとアラームをセットした時刻をもう二時間ほども過ぎていて、カーテンの隙間からはうっすらと朝焼けの色が滲んでいた。

 ミャ、ミャ、とか細く鳴く声が耳に届く。ぐっすり眠っていた所為で音に気づかなかったのかなと思いながらルカは、テディを起こさないようにそっとベッドから出た。冷え切った部屋の空気にぶるっと震え、よしよし今ミルクを作ってやるからなと椅子にかけてあったカーディガンを羽織り、カーテンを半分開ける。

 ――テーブルの下辺りに見えたそれを、初めはまたテディの脱ぎっぱなしの靴下かと思った。だが眠い目を擦り、それがなんなのかに気づくと、ルカはまさかという思いでそこにしゃがみこんだ。

 恐る恐る手を伸ばして触れ、愕然とする。

「そんな……」

 仔猫は既に冷たく、硬くなっていた。

 なんでこんなところに、と箱のほうを振り返る。すると、もう一匹がセーターに懸命にしがみつくようにして前脚を伸ばしているのが見えた。だがその仔猫のほうは鳴き声も小さく、箱から出たりはしそうになかった。

 ルカはゆるゆると頭を振った――死んでしまっているのは、元気に鳴き、動き、たくさんミルクを飲んでいたほうの仔猫だった。

 セーターをよじ登って、箱から転がり出てしまったのだろう。しかし戻ることなど、もちろんできるはずがない。そしてそのまま、寒い部屋の床の上で体温が下がり、弱って――

「ルカ、おはよ……」

 テディが目を覚まし、ブランケットに包まったままルカを見た。が、ルカはがっくりと肩を落としたまま、なにも云えなかった。

「……どうしたの」

 なにか察したのか、テディがベッドから出てルカに近づいた。

 ルカの視線の先の動かなくなった仔猫を見て、テディはなにが起こったのか気づき、息を呑んだ。がくりと膝をつき、微かに震える手で仔猫の躰をそっと抱きあげると、その変わり果てた感触に茫然とする。

「――なんで?」

 そう声にだした唇が震え、見開いた大きな瞳には涙が溢れた。ルカはやりきれない表情で首を振った。

「俺が悪いんだ……俺がセーターなんか入れたから、箱から出てしまったんだ。いや、まだこんなに小さいのに目を離して寝るのも間違いだった。俺の所為だ……」

「ルカの所為じゃないよ、そんなこと云うなら俺だって……」

 テディはそうしていれば息を吹き返すとでも思っているかのように、冷たく硬い躰を撫でている。その手に、ぽたりと涙の粒が落ちた。ルカはそれをじっと見つめ、仔猫を包んでいるその手に自分の手を重ねた。

「……飼えないんだからって思ってつけなかったけど……こんなことなら名前、ちゃんとつけてやればよかった」

「……今からでもいいじゃない。つけてあげようよ……雄か雌かはわかんないけど」

 テディはずっと仔猫を撫で続けている。ルカはか細い声で鳴いている箱の中の仔猫を見て、「……ああ、あいつにミルクやらないと……」と呟いて立ちあがった。

「……ドロシー」

 テディが口にした名前を聞いて、ルカは振り返って頷いた。

「ドロシーか。うん、いい名前だな……」

 気づけば外はもうすっかり明るくなっていた。テディは涙をいっぱいに溜めた目で窓のほうを見やり――ふと、なにかに驚いたように瞬きをした。

 眩しい朝陽のなかに、虹を見たような気がしたのだ。

 涙がまた頬を伝って落ちていき、テディは小声で呟いた。

「ごめんよドロシー。……さよなら」

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