リリア編 ゾビグラネ

第30話 ゾビグラネ -1-




『君の名前は?』という誰かの声が聞こえた。


 私は、自分が起きているのか寝ているのかさえよく分からなかった。

 寝転がる私の右側には私がいて、私の左側にも私がいた。

 更にやっかいなのは、私の右側の私の右にも私がいて、私の左側の私の左にも私がいた。それが前後左右に永遠に続いているのだ。


 私は一度目をつぶってこの無数の私に囲まれた状況を忘れたいと考えたのだが、不幸にも瞼が開いているのか閉じているのかさえもよく分からなかった。


 夢なのかもしれない。だって、じゃないとこんな奇妙なことなど起こりえないのだから、と思った矢先に、これはホールの効果の一部なのかもしれない、とも思った。


 時間を移動する大魔法を私はかけられたのだし、これぐらい奇妙なこともおこりえるかもしれない。



 その無数の私の先には数秒おきに天候が変わる空があった。

 曇ったり、晴れたり、暗くなったり、明るくなったり。

 雲が猛スピードで通り抜けたかと思うと、渦を巻いたり、とにかくめまぐるしい速さで何もかもが変化していた。

 寝転がる大地には植物がものすごい速さで縮んでゆく姿が見えた。

 伸びていた枝が縮み、太かった樹の幹が細くなってゆき、丈の長い草が一斉に短くなっていった。

 その変化の早さは、まるで動物並みの早さだった。



 ゴードンを信じるしかない。



 今更彼の実力を疑っても仕方がない。

 あとは、信じてすべてを受けいれるしかないのだ。


『君の名前は?』という誰かの声がまたどこからか耳に入り込む。


 この声は本当になんなのだろう?

 うっとうしかった。

 ただでさえ、私は気が立っているというのに。

 早く過去に行きたかった。

 いって、私のすべてをそこに注ぎ込みたかった。

 私はアシュリーとの約束を守らなければならないのだから。



 その時であった。

 体に物凄い重さがのしかかってきた。

 視線の先の無数の私たちも私と同じように地面にうつ伏せになり、身悶えしている様子だった。


 とんでもない速さで変化していた景色が段々とゆるやかな変化に変わってくる。

 それと同時に、無数の私の一つ一つが、隣の私と合体するように合わさっていった。


 ――何がおこっている?



 訳が分からなかった。いや、違う。

 もともと何が分かっていたというのか。

 私はひねくれ者のように鼻で笑いながら、目をつぶった。



「大丈夫か?」という声が聞こえた。今度はハッキリと。



 目をあけると、黄色と茶色の板を張り合わせた床が視界の左側一杯に広がっていた。そして視線の先には床と同じ黄色と茶色をした板張りの壁と閉じたままの雨戸とその隙間から差し込む弱々しい光が見えた。


 そのせいで、たぶんこの部屋全体が少々薄暗い感じがする。

 耳をそばだてると、絶え間なく建物に打ち付ける雨音が聞こえた。



 ――ホールは、成功したのだろうか? というより、ここはどこだろう?



 顔をあげ、周囲を見回そうとするが上手くいかない。

 体がとても重い。

 それも並みの重さじゃない。

 体中の筋肉が一気に無くなってしまったような……、そんな感覚だった。



「大丈夫かい? 手を貸そうか?」という男の声が聞こえた。

「結構よ」と私は答え、震える手を床につき、なんとか上半身を起こした。

 そこには私を見下ろすように一人の男が立っていた。



 金色の短髪に、もみあげにまで繋がっている金色の髭。

 藍色の厚手のローブを着込み、黒革のロングブーツを履いていた。

 たぶん歳は三十半ばか四十といったところだろう。

 その肌のどこかしらにくたびれた印象があった。

 そして、エメラルドグリーンの色をした寒気のするような瞳が、興味深そうに私を見下ろしていた。



「返事ができた、ということは、やっとこの時間に定着できたようだね」と男は言った。「私もこの術を目にするのは初めてでね。とにかく興味があったんだ」


 男はそう言い終わると、自分の背後にあった、背もたれと肘掛けのついた木の椅子に深くこしかけた。


「そのままだと辛いだろう?」と言った男は私の後ろを指さした。「後ろに壁がある。そこにもたれかかるといい」



 私は、この男の言い方がどこか気に喰わなかった。

 何かしらすべてのことに対して先回りして命令しているような気がしたからだ。

 たとえそれが優しさであったとしても、私は誰からも命令なんて受けたくなかった。誰の支配をうけるつもりもなかった。



 私はフェンリルを倒す。

 ただ、それだけ。


「結構よ」と私は言い、男を睨みつけた。


「気が荒そうな女性だ」と男は笑った。「その青い瞳には怒りが宿っているね。その理由のおおよそのところは察しているよ。まぁ、あとそろそろ名乗ってくれてもいいんじゃないかい? じゃないと私は君をどう呼べばいいか分からないし、名も知らない相手と具体的な話もできないじゃないか」



 私は鼻で笑った。


「もし、そうだというのなら。あなたの方から名乗りなさい」

「ふふふ。これは失礼した」と男はいい、肘掛けに手をつき、椅子から立ち上がり、私に向かって優雅な騎士のように深々と礼をした。


「私の名はキースだ。

 キース・ハモンド・ゾビグラネ。


 皆は私をこう呼ぶよ。魔法学校のゾビグラネ、とね」


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