第8話 ある村での出来事 ー4ー



 僕はその日の朝、母さんのくしゃみで目が覚めた。

 音というのはどうも頭に響く。

 よく分からないけど、音の方がいつも最初にやってくる気がする。

 目から情報が入ってくるのはいつも音よりもあとだ。

 僕がゆっくり瞼をあけると、少し家の中が暗かった。まだ日の出前かもしれない。

 母さんはくしゃみでズレた掛布団を被りなおすと、鼻水をすすった。

 少し目を移すと父さんもまだ寝ているようだった。

 隣で横になっている妹がまだ眠っているのは分かっていた。その寝息がうるさいほど聞こえていたからだ。


 今日は僕が最初に起きたのか……

 さてと、どうしたものか、と思った。

 確かに今日は黒の館の当番の日だが、まだ日の出前だし、もう一度寝てしまうのも良いかもしれない。


 でも昨日早くに寝たせいか、予想以上に頭がすっきりしている気がした。

 眠い時というのは頭の奥がジーンと麻痺しているような感覚になる。麻痺していて、そして重い感じがするのだ。寝不足が続いたときなんかはもっと大変だ。こめかみのあたりが明確に痛くなり、それが一日中続いたりもする。

 でも、今はそれがない。こういう時は起きろと天が命じている時だと母さんは言う。


 母さんはローレンの生まれなので時に信心深い発言をする。

 なんでも、神の教えを守ると、死んだ時に天使様が天界に連れて行ってくれるのだそうだ。だから母さんは修行者様を忌み嫌うのだが、ならばどうして修行者を受け入れる伝統のあるこの村に嫁いできたのだか、とも思う。

 いや、そこは深く考えないでおこう。

 そのおかげで僕が生まれたのだし、僕はまずそのことに感謝するべきなのだ。


 とにかく、僕は神の命ずるままに起きることにした。

 布団から這い出て、あくびをし、瓶に溜めた水で口をゆすいだ。そして人差し指の爪で歯と舌をごしごしひっかき、また口をゆすぐ。


 このまま黒の館に行ってもよかったのだが、その前にどこに行くかを告げなければ、と思い、僕はもう一度布団に寝転がり、母さんの肩をゆすった。


「う~ん?」


 どうもまだ意識がハッキリしないようだ。

 まぁそれでもきっと覚えていてくれるに違いない、と思い、僕は母さんの耳元でささやいた。


「古書館の当番の日だからいってくるよ」

「う~ん」


 果たして聞こえているのかいないのか。

 また母さんはおかしなうなり声をあげるだけで、返事らしき返事をしなかった。

 だが、これ以上ここに留まるつもりのなかった僕は上半身を起こし、立ち上がろうとした。すると、ウールのセーターが後ろに引っ張られていることに気づいた。


 振り返ると、僕のセーターを掴む妹のフィーナの姿があった。

 フィーナは上半身を起こし、片目をこすりながら「お兄ちゃん、どこかいくの?」と言った。


「うん」と僕は返事をした。「今日、黒の館の当番だから、早めに行ってくる」

「なら、フィーナもいく」


 フィーナはちょうど5歳でいろんな好奇心が芽生え始めた年頃だったから、なんであれ僕の後ろに付いて行きたがった。


 僕は少し返答に困った。

 本当は連れて行ってもよかったのだけど、クアドラとの会話を聞かれることを想像するとかなり気まずかった。

 それに、こんな小さい妹を連れて行っては、僕はますますクアドラに子ども扱いされる気がしたのだ。


「フィーナはまだ寝てな。お日様もまだ出てないよ」

「でもぉ」

「今度の当番の時に連れて行くから」

「うん」


 僕は妹の頭を撫で、掛布団をかけてあげると、靴を履き、家の扉をあけた。すると、あたり一面真っ白だった。

 

 霧だ、と思った。

 色んな建物が白い霧に飲み込まれ、10m先が見えないほどだった。

 ひょっとして家の中が暗かったのはこのせいだろうか、とも思ったが、色んなことを考えすぎてもあまり意味がない気がしたので僕は気にせず黒の館に向かうことにした。


 ダンおじさんの家の前を歩き、コパイ雑貨店の前を通り、村の中心であるねじまき水路のあたりにさしかかった。


 すると濃い霧の向こうにしゃがむ人影が見えた。

「誰?」と人影は声を発した。

 返事をする代わりに近づいてゆくと、そこにはねじまき水路をみつめるクアドラがいた。レースの下着から飛び出す彼女の腕は相変わらず白かった。だからクアドラの体自体が霧の中にいるようだった。


 僕を目でとらえたクアドラは「あらユーリだったの」と笑った。

 クアドラは、僕と一緒にねじまき水路を見て以来、ここがよほど気に入ったのか、この水路の周りをうろつくことが多くなった。

 クアドラはゆっくり膝に手をつき立ち上がると、次に語らに落ちていた木の棒をひろいあげた。何をするのだろう? と思い見ていると、少し離れたとおりの上で地面に何かを描こうとしていた。


「ねぇ、何をやっているの? クアドラ」

「ああ、これ? これは召喚術の実験をしてみようと思ってね」

「召喚術?」聞いたことのない言葉だった。というよりも召喚術とはなんなのだろう?


「見たい?」とクアドラは口角の片方をあげ笑う。

 僕は好奇心にいざなわれ、何度も首を縦に振った。



「ならば見せてあげるわ」と自信満々に言ったクアドラは地面に木の棒で土を削るように絵を描き始める。


 それは確かに酷く奇妙な模様をしていた。

 長い一本の横棒に、縦に線が入り始め、次々を模様が書き足される。これが召喚術なのだろうか?


「召喚術はね」とクアドラは地面に木の棒で描きながら言った。

「召喚陣と呼ばれる特殊な模様を描き、そこに魔の波動を流し込むことによって行われるものなの。魔の波動というのは……魔法の力の源……みたいなものかしら? そういうものがあるの。まぁ、説明は省くけど、とにかく、その二つの要素から成り立っているの。特に召喚陣を描くことには精密さが求められるわ。高価な絵画を描くような精密さがね」



 本人はいたって真面目に地面に絵を描いているようなのだが、大丈夫なのだろうか? 僕にはそれがほとんどただのおかしな記号にしか見えなかった。


 クアドラは地面に絵を描き終わると、しゃがみ込み「ユーリ、少し私の後ろにいなさい」と僕に促してきた。


 だから僕はクアドラの後ろに回り込み、その背中に隠れるように小さくなった。

 召喚陣を触っていたクアドラの指先が妖しく光りはじめる。

 そして、その光が波紋のように召喚陣に広がってゆくと、そこからクアドラと同じ大きさの、ねずみとも猫ともつかない獣が飛び出してきた。

 その化け物は、前歯が鋭く、猫のように目をギラつかせて、獲物でも見るように僕に向かって口をあけた。


「うわぉあああああああああああ」思わず声がでてしまい、尻もちをついた。

「これが召喚獣よ」とクアドラは勝ち誇ったようにさらりと言い、僕の姿をみて、クスリと鼻で笑った。


 化け物は威嚇するようにあけたその口で、あくびをし、自らの後頭部を後ろ足でかき、そのまま目を閉じ、丸まった。



「さあラウロス、仕事をしてもらうわよ。私たちの朝食をとってきなさい」

 クアドラがそう命じると、そのラウロスと呼ばれた奇妙な獣は眠たそうに瞼をあけ、そのあと、低音と高音が入り交じる不快な叫び声をあげ、溶け込むようにすぐさま霧の中へと消えていった。



 僕はその獣の消えた方向を眺めた。

 心臓がドキドキしていた。

 全身の皮膚が粟立ち、指先が震えていた。

 だってそうだろう? あれほどの化け物が目の前に現れたんだ。

 ドキドキするな、という方が無理だ。


「ユーリこっちにいらっしゃい、準備をしましょう」とクアドラは言った。

 僕はゆっくり息を整えると、地面に手をつき立ちあがり、クアドラが地べたに座るその場所を見た。

 そこには木々が集められ、更に火もつけられていた。

 いつの間に? と思った。

 クアドラは手招きし、僕を大きな石が一つゴロンと転がっている場所に座るよう促した。


 本当に情けないことだが、僕の心臓の鼓動はまだ鳴りやんでいなかった。

 霧の中からいつあいつが出てきてもおかしくない、と思うと、もう気が気じゃないのだ。

 

 僕は、右を見て、左を見て、そして右を見た。

 あの化け物はいなかった。

 とりあえず、落ち着こう、と思いクアドラの指さす石の上に座ると、化け物が僕の後ろから音もなく現れた。


「うわぁあああああああああああ」と僕はまた大声をあげてしまい、思わずクアドラにしがみつく。

 召喚獣の口には喉を噛み切られ、血を流し、ぐったりしているウサギがいた。クアドラは面白くてたまらない、という笑い声をあげ、そして僕の頭を撫でた。


「さぁ食べるわよ」とクアドラは唇の片方をつりあげ、召喚獣からうさぎを受け取った。それから手早くウサギの皮を剥ぎ取り、内臓を処理し、ウサギを木に刺した。


 僕はその間にもずっと食い入るように召喚獣を見つめ続けていた。

 きっと害はないのだろうけど、どうしてもその存在が気になってしまったからだ。

 すると、まるで霧の中に溶け込むように召喚獣は消えていった。

 どういうことだろう? と思いクアドラを見たが、当のクアドラは大した気にもせずその様子を眺めていた。

 そうしているうちに美味しそうな匂いが僕の鼻に漂ってきた。

 恐怖がなくなって、やっと鼻がきいてきたようだ。

 でもそれでも一つ気になる事があった。



「ねぇ、いいのかな? こんな道の真ん中で……」

「大丈夫よ。みんなが起きてくるころには食べ終わってるもの」


 クアドラはウサギの体に切れ目を通して中まで上手く焼いてゆく。


「こんなものかしらね」と言ったクアドラは、木の棒を握り、ウサギの肉を噛む。そして自分が一口肉をほおばると僕にもそのウサギを差し出してきた。



「どうぞユーリ」



 僕は目をつぶり、ウサギの肉にかぶりついた。美味しかった。

 本当に、とても。

 クアドラが上機嫌で言った。


「並んで食べると、まるでねじまき村の若い夫婦みたいね」


 その言葉に僕はドキンとした。僕をそういう対象で見てくれているのだろうか? と思った。するとクアドラは「夫婦……?」と言ったままボォーっとし、立ち上がり、仕舞にはふらふらとねじまき水路の方に歩いていったのである。


「クアドラ?」と声をかけたが、どうも反応がない。



 本当にクアドラはねじまき水路が好きだな、と思い僕は手元にあるウサギを食べることにした。一口、二口、三口、美味しくて、止まらない。そして大分食べたあとに気づく。もうウサギの肉がほとんど残ってなかったことに。


 クアドラが戻ってくるまでと思ってついつい食べ過ぎてしまったのだ。

 どうしよう……、と思いクアドラの方を向くと、クアドラは渦巻き水路の中心の傍でへたり込むように座り込み、何かを眺めていた。

 たぶん石板だ。

 半円の形をした石板。

 あんなもの、どこから持ち出したのだろう。

 クアドラは、それを眺めながら何かを呟いていた。



「嘘よ。違う、違う……何かの間違いよ」


 クアドラは真っ青な顔をしていた。

 明らかに普通の様子ではなかった。


「クアドラ?」と言い僕は駆け寄るが、まるで僕の言葉など聞こえていないみたいだった。そして、やがてクアドラは髪を振り乱し発狂しはじめた。



「嘘! 嘘! 嘘よ! 違うわ! こんなの何かのまちがいよ! 違う! 違う!!」



 彼女はそう叫ぶと、僕とウサギの肉を残してどこかに立ち去ってしまったのだ。

 まるで逃げるように……



 そう、たぶん、あれからだ。クアドラがおかしくなったのは。

 あれから一切の飲み食いをしなくなり、誰とも話さなくなり、何かに取りつかれたように黒の館の本を隅から隅まで読み始めたのだ。

 誰が何も言っても、聞かず、相手にせず、その言葉に返答すらしなくなった。

 館からは時折、叫び声にも似たクアドラの独り言が聞こえてきた。それは誰かに怒った口調であったり、泣き叫ぶような口調であったりした。

 

 本当に、クアドラはどうしてしまったのだろう、と僕は随分思った。当然心配だった。僕はクアドラを好きだったから……、彼女が何に心を砕いているのか知りたかったのだ。



 本当に、あの頃の僕の愚かさにはうんざりする。

 愚かすぎて、自分自身に怒りが湧いてくるぐらい僕は自分にうんざりしていた。

 これから起こる結末を知っていたら、あれほど僕は心配などしなかったに違いない。

 これから起こる結末を知っていたら、あれほど僕は彼女に心を寄せなかったに違いない。

 これから起こる結末を知っていたら、あれほど僕はねじまき村での生活を、退屈な日常だなぁ、と思っていなかったに違いない。

 これから起こる結末を知っていたら、僕は……きっともっと家族と触れ合っていたに違いない。


 そうだ、そうに違いない。

 だって忘れもしないあの日。

 

 風が涼しくなり、少し肌寒い空気が辺りに満ちてきて、平べったい雲が何層にもつらなり、僕の村を覆ったあの日の夜。



 僕はすべてを失ったのだ。


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