24 ノーチラス(3/5)

「嘘だよ」

「えっ?」

「うち、犯人にこんなことされてない。歯も自分で磨いて、風呂も一人で入ってた。部屋は散らかっていたけど、布団も別で、添い寝すらしたことない。キスもしてなければ、身体を触られたこともない」


 え?

 嘘、そんな、だって環ちゃんはソレが原因で、口を閉ざしたのに?


「うちと犯人は至って……と言うには語弊があるけど、普通の共同生活をしてた。昨日までのうちとスミレみたいに、一緒にご飯を食べて、テレビを見て、家からは出られなかったけれど快適に過ごしてた。両親に会えなくて寂しかったし、不安だったけど、痛いことも怖いことも、何もされなかった。うちと犯人の間には何もなかった。一番強く覚えてるのは、犯人が作ってくれるトマト缶と鯖の煮物がすごく美味しかったってことくらいかなぁ。半年くらい監禁されてたけど、私はあの料理が好きで十五回くらい作ってもらった気がする。作り方がわからないけど、あれは今でもたまに食べたくなる」

「嘘、だよね、そんなことあるわけない。私に気を遣ってるんだよね」

「ねえ、前恋話コイバナをしたとき、私は『誰にも搾取さくしゅされたくない』て言ったの、覚えてる?」


 覚えてる。

 彼氏なんていらない。うちは誰にも搾取されたくないから。——環ちゃんは確かにそう言っていた。

 あの時は、なんて言えばいいかわからなかった。でも、環ちゃんが落とす影に私はどうしようもなく惹かれたし、私しか知らない環ちゃんを知った気がして凄く興奮した。だから、もっと環ちゃんを知りたくなった。

 あの時あの話をしなかったら、きっと私は環ちゃんを監禁するなんてことにはならなかったと思う。


 今思えば、あれが全てのきっかけだったのだ。


「うちは『少女誘拐監禁事件』の被害者。でも、本当に辛かったのは監禁された後、家に帰った後だった。父親には腫れ物のように扱われ、お母さんは執拗なほどに過保護になった。狭い田舎町だったから、あることないこと噂されるのも苦痛で……。小学校卒業を契機に両親は離婚して、お母さんと二人で葉山に引越したの」

「……」

「うちが監禁された半年間、スミレは何があったと思う?」


 食事を抜かれたり、

 暴力を振るわれたり、

 服を脱がされたり、

 ——犯されたり。


「……わかんない」

「でも、いろいろ想像して、うちをけがしたよね」

「!」


 そうだ。

 私は環ちゃんを穢した。

 だから、私は穢された環ちゃんを理解すべく、自らを顧みずに環ちゃんの後を追ったのだ。


 環ちゃんの話曰く、犯人は環ちゃんのことをそれはそれは丁寧に扱っていたらしい。そしてよく、犯人は環に可愛らしい服やドレスを着せ、化粧を施した後、環ちゃんをモデルに白黒の絵を描いたそうだ。

 けれど、描かれたその眼は、いつもキャンパスの下地がそのままの、真っ白い伽藍洞がらんどうだった。願掛けの達磨だるまよろしく。ついぞ、その瞳が描かれることはなかったらしい。

 鉛筆を紙に擦る音を聞くと今でも当時のことを思い出す。

 環ちゃんは無表情のままそう言っていた。


「去年の秋ごろかな。スミレが読んでた『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』。うちも犯人の家で読んだよ。それが、犯人の家に唯一あった本だった」


『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』フィリップ・K・ディックのSF小説だ。

 本物の人間と人造人間の区別や両者の関わりがテーマで、読んだ後は人間とは何か、人造人間とは何か、心とは何か——と、思いを馳せた覚えがある。


 いつも、環ちゃんの話は端的だった。理路整然とし、必要最低限のみの情報を渡す。むしろ、端的すぎて何の話かわからなくなる時もあった。

 けれど、誘拐された時の話、監禁されていた時の話、戻った後の話、今の話、将来の話。右へ左へ、過去へ未来へ、話は縦横無尽に飛躍した。いつもの環ちゃんらしからぬ話し方に、環ちゃんの動揺と追想が見て取れる。


 まとめると、いわくこういうことらしい。

 環ちゃんは汚れてなんかいないのに、汚された。穢された。大衆の妄想によって。

 環ちゃんを搾取したのは大衆であり、そして「スミレ」だと。


「うちが何故、犯人に何をされたか言わなかったのか。メディアはうちが犯人の悪行によって心を閉ざしたからだと報道した。でも本当は違う。うちはすべて言ったよ、って。でも誰も信じなかった。警察官も、カウンセラーも、両親でさえも。みんな、うちがひどい目に合うことを望んでいたんだよ。だから諦めた。心を閉ざしたと、そういうことにした。そうすると不思議なことに、うちの心は本当に閉じていったんだよ。心を閉じると楽になった。うちは理解を求めなくなったし、誰かに深く共感することも、共感されたいと思うこともなくなった。——スミレに会うまで」

「え……?」

「ねえスミレ、スミレは今まで友達ができなかった、いじめられてたって言ったよね。ずっと友達がいなくて、寂しかったんだろうね。その反動か、スミレはうちと知り合ってからいつもうちの顔色を伺っていたし、うちの気持ちを尊重してくれた。それは、ただ従うという意味じゃなくて、私の意思を汲み取って、私に負荷がかからないように応えた。踏み込んで欲しくないところには決して踏み込まず、うちが楽しそうであれば構わないと、嫌いな海の話にも、シュノーケルにも、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。スミレとの距離感が、本当に丁度良くて、心地よかった。スミレといると楽だった。スミレは控えめだから逢子ほうこはイライラするのかもしれないけど、うちは優しくて聡明なスミレが好きだった」


 環ちゃん、私のこと、そんなふうに思ってくれてたの……?


「うちはね、よく人に優しいねって言われるけど、本当は究極に冷たいの。どうでもいいから怒らないし、そっと距離をとる。離れすぎても周りが面倒だから、適切な位置でし続ける。だったら一人でいればいいのかもしれないけど、それはそれで寂しいし。楽しい思い出だって欲しいし。だから、言葉は悪いけど、スミレはすごく都合がよかった。みんなそうなんじゃないかな、学校という枠を出た後、十年二十年の付き合いになるひとって。都合が良くて、でも一緒にいる時はすごくラクで、楽しい。たくさんの思い出を共有している、そんな人たち」

「環ちゃん、ごめんなさい、私……」

「でも、うちはスミレが優しくて、都合がいいからスミレと居たんじゃない。うちは、スミレに心を開きたいって思った。スミレのこと知りたいって、スミレがうちを大切にしてくれるように、うちもスミレを大切にしたいと思った。そう思ったきっかけは——スミレが、嘘をついていることに気づいたとき」


 え? 嘘?

 思い当たる節がなく、私は首をかしげる。心の中で、だけど。


「スミレにとっては嘘じゃないんだと思う。けど、”事実”ではない。友達なんてものは主観の問題だから、スミレには友達が居なかったのかもしれない。けど、スミレが言うような壮絶ないじめは存在してなかった。スミレは、本で読んだ誰かの気持ちや経験を、いつしか自分の記憶と混濁するようになったんだと思う。そうしなければ、悲劇のヒロインにならなければ、スミレは耐えられなかったから」


 本で読んだ誰かの気持ちや経験を、いつしか自分の記憶と混濁するようになった?

 私はいじめられていなかった?

 私は、悲劇のヒロインにらなければ、耐えられなかった? 何に?


 環ちゃんはいったい、何を言ってるんだろう。

 私には、環ちゃんが別次元の、それこそ何かの小説の話をしているとしか思えなかった。


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