1-6 僕は姉と差し向かいで話したことがなかった。

 強い風が吹く。


 長髪のウィッグが視界を一瞬覆い隠した。


 そして、髪を押さえつけて、また、戻った視界の中に、姉さんがいた。


「……」


 驚かない。

 驚いてなんて、やるものか。


 そいつはたしかに、鏡を見た時に存在する僕そのもので――すなわち、姉さんと同じ容姿をしていた。

 けれど、違った点が二つある。


 瞳がどうしようもなく虹色であること。


 そして、表情。


 泣きそうに歪んでいて、嗚咽をこらえるように唇に力が入っていて、それから優しく目を細める。

 姉さんはそんな表情を浮かべない。

 しかも、


「ありがとう」


 開口一番に発せられたのは、心からというような感謝だった。

 ……気持ち悪さに言葉を発せないでいると、そいつはどんどん、姉さんのような姿で、姉さんが言うはずのない言葉を続ける。


「ありがとう。あたしのために、ここまでしてくれて。本当に感謝してる。あなたのお陰であたしは報われた。なにもかもあたしの弱さが原因で、こんなにあなたを悩ませてしまってごめんなさい。でも、あなたが命を賭してくれたお陰で、あたしはようやく、人に弔われる資格を得ることができたんだよ。だから、ありがとう。本当に、本当に、ありがとう。あなたのしていることには、なんの間違いもない。だから、どうぞ、死んで。正しさはあたしが保証するから」


「やめろ」


 耐えられなくて口を開いた。

 本音を言えば、こんなふざけた冒涜、相手にもしたくない。

 けれど、気持ち悪さと怒りが、無理やり言葉を口から蹴り出した。


 嘔吐のように、言葉を続ける。


「姉さんはそんなに優しくないし、弱くもない。お前が……お前が僕の記憶や思考を読み取ってるのだとしたら、そんな姉さんがいるわけないだなんてこと、わかるはずだ。死者の魂を弄ぶなよ、魔女。ぶち殺すぞ」


 可能か不可能か。

 普段、こんなことを言うか、言わないか。


 そんなものは度外視した、素直な気持ちだった。


 だって目の前の生き物が為したことは――


「その姿というだけで姉さんを騙るな。魂は姿に宿るんじゃない。姿がなくてもそこにあるものだ」


 僕が、命を懸けて、わからせたかったことを、否定することだった。


 僕がスカートをはくと姉になるのではない。

 姉が、スカートをまとうのだ。


 見た目ではわからない。

 第三者からすればまったく同じかもしれない。

 でも、それは、当事者の僕からすれば、殺したくなるぐらいに我慢のきかない、嘲弄ちょうろうだった。


 すると、魔女はようやく、魔女らしく笑った。


「たしかに私は、君のお姉さんではないよ。だって、死者がしゃべるわけがない」


「……最初からふざけたやつだったとは思ってたけど、まさか、ここにきて、こんな最悪のふざけかたをするとは思わなかったよ」


 僕は、僕の事情を言わずとも察し、倫理も保身もなく、なにより、僕を疑わないでくれる魔女のことを、いつの間にか信頼していたのかもしれない。

 だからこんなに、裏切られた気持ちになるのだろう。


 けれど魔女は首をかしげる。


「私は大真面目だとも! 全部、君のためにやっていることなんだよ!」


「どこがだ!」


「だって、君が想定するお姉さんは、こんな感じじゃないか」


「……は?」


「君に救ってもらわなきゃならないお姉さんは、このぐらい優しくて、このぐらい弱くて、このぐらい君のことを全面的に信頼しているだろう?」


「………………」


「もちろん、それが君の記憶から読み取ったお姉さんの個性キャラクター乖離かいりしているのは明らかだけれど、君はこのお姉さんを望んだじゃないか。あとは、このお姉さんが、君と、そこで発狂している彼を指差せば、この事件は円満解決だ! 君の望んだ通りにね!」


 発狂している――というのはどういうことかと、これまで存在を忘れていたあいつを垣間見る。

 魔女の向こう側にいるあいつは、直立し、魔女をじっと見たまま、上半身をゆらゆらさせて、一言も発しない状態になっていた。


 ……まったくもって、不愉快だ。


 当事者は僕とあいつにもかかわらず、魔女との会話をあいつに邪魔されなくて面倒がない、と思ってしまっている。


 これは、僕とあいつと姉さんの話だった。

 でも、今、僕と魔女の話になりつつあった。


 部外者であった魔女が、死者を冒涜するという最悪の方法で席を用意したのだ。


 焦点を戻せば――


 魔女は心底理解できないというふうに、首をかしげ直す。


「望み通りで、なにが不満なんだい?」


「こんなものが望み通りのわけがあるか。姉さんは……姉さんは、そんなことを言わない。姉さんは、お前が演じたように優しくもなければ、弱くもない」


「しかし、君が望んだように、優しく弱いお姉さんだ」


「僕はそんなこと望んでいない」


「しかし、君が思う事件の解決法が正解であるならば、お姉さんはこういう性質であるべきだ。なにせ、私が読み取った君のお姉さんの性格だと、君が意味のない後追い自殺をしたって喜ばない。喜ばないというか、むしろ――」


 僕はここに来て、魔女が僕の中身を読み取ったというのを、疑い始めていた。

 疑うに足らない要素がいくらでも挙がるけれど、それを嘘だと思い込みたくなってきていたのだ。


 でも、


「――唾を吐き捨てる」


 ……これで、後追い自殺をされたら悲しむとか、怒るとか、そういうことを言われたら、『こいつはなんにもわかっていない』と魔女の言葉を無視できたのに。


 唾を吐き捨てるというのがあまりにも姉さんらしくて、僕はまたしても言葉を失ってしまった。


「いや、だって、君のお姉さんは、この人生の一切合切に見切りをつけて遠行えんこうしたんだよ。あとから君が追いかけて来たって、捨てたはずのゴミが後ろから来るようなもので、そんな怪奇現象は怖いし迷惑でしょ。しかも『姉さんの死を、姉さんをフッた相手にわからせたよ』なんて。めちゃめちゃ怖い」


「……」


「だからオーダー通りのはずなんだよな……ああ、そうか、なるほどね。私はどうにも、君の望みを読み取り損ねたみたいだ。申し訳ない。君の行為は最初から君のためのものであって、お姉さんの意思なんかどうでもよかったんだね」


「な、ん……」


「君がしている一連の奇行は紛れもなく『弔い』だった。なにせ、死者への弔いは生者のためにあるものだからね。でも、これを見誤ったのは、私ばかりの責任とは言えないんだよ? だって君、否定したじゃないか」


 ――僕も、弔わない。


 僕はたしかに、姉を弔うのだということを否定していた。

 魔女はたしかに、僕が弔いの意思を否定したのを聞いていた。


「嘘をついたね、私に」


 ……急に、目の前で微笑む魔女が、巨大になったように錯覚した。


 本能的に気付いていたことがある。


 この女性に、背を向けてはならない。


 きびすを返すことも、嘘をつくことも、本音を隠すことも、してはならない。

 そんなことをすれば、事態がよくない方向にしか転がらないと、僕は確信していたのに――


 僕は、嘘をついた。


 自分の中身を読み取り損ねただけのことだったし、嘘をつくつもりなんかなかったけれど、それでも、嘘をついたのだ。


 その代償は……


「まあいいや」


 ……あれ?


 魔女はあっさりと僕から視線を逸らし、歩き始める。

 そうしてコインパーキングの駐車スペース、車止めの上に腰掛けると、エコバッグからなにかを取り出す。


 それは、あんパンとコーヒー牛乳。


「依頼人とのコンセンサス不足は、私の弱点だね。どうにも依頼人の言葉を信じすぎる。まあ、それはそれとして、ここまで来てしまったからにはプランの通りにいこうじゃあないか」


 話についていくことが困難だ。

 魔女は切り替えがあまりにも早い。その思考のスイッチもまた、人外の要素に思えてきた。


「なにしてるんだい、親愛なる依頼人くん? 君たちが話しているあいだに準備は終わってるから、いつでもどうぞ」


「じゅん、び……?」


「いや、自殺するんでしょ、君。やりなよ」


「……」


「もうすぐそっちの彼も正気に戻るよ。私はここで見てるから、話が終わったら教えて」


「『話が終わったら、教えて』?」


 なにもかも、わからない。


 コーヒー牛乳の紙パックにストローを差しているのも、あんパンの袋を開けているのも、自殺を止める気がまったくないのも――

 そのうえで、話が終わったら教えてだなんて、言うのも。

 なにもかも、わからない。


 僕はついうっかり、まともな質問をしてしまう。


「話が終わったら、僕は死んでいると思うんですけど」


 すると魔女はあんパンを口にふくみながら、答える。


「まだそんなこと言ってるの?」


 ……それはいかにも、僕が理解しているべきことを理解できていない、というような口調だった。


 そして、あんパンをむぐむぐとよく噛んでから、


「大丈夫。君は依頼料を払い切るまで死ねないよ」


 どうして、とか、聞く気にもなれなかった。

 彼女がそう述べるなら、きっと、そうなのだろう。


 僕はカッターを取り落とした。


 それで、この奇行は終わってしまった。

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