春・第39話 壊れるかもしれないわたし①強くなって、ひとりで生きられるようになって……それが一体、なんになる?
真心を追い返してしまった後、ゆしかは病室で窓の外を見ていた。
電動式のベッドで、上体を微かに起こしている。まだ杖を使えば部屋の中にあるトイレに歩いて行くこともできるが、そのうちすぐに、車椅子が必須になる。寝たきりで管を繋ぎ、投薬と検査だけをする毎日は、ひとの筋力をここまで奪うのだと、前のときも驚いた。
元々見た目にそこまで気を遣うほうではないが、今は特に鏡を見たくない。不健康に痩せこけているし、抗がん剤の副作用で、髪が部分的に抜け落ちてきた。ニット帽を被っているが、病人そのものといった風体を、直視したくはなかった。
外に、目を楽しませる景色があるわけではない。空と、隣の敷地にある大学(医学部)の無機質な白い建物が見えるだけだ。それでも外はもはや手の届かない異世界になりつつあり、病室を見たくないゆしかが目を向けられるのは、そこしかなかった。
(ああ……やられてきてるな)
自覚というより、先程真心に向けて放った言葉などからそう考えざるを得なかった。
真心の家で過ごした日々はもう他人の記憶のような遠さで、夢だったと言われたら信じてしまいそうだった。ゆしかは中学生のときに発病してから今までずっと、入院してきたんじゃないかという錯覚を、錯覚と解りながらかき消すことができない。
(いっそ夢なら、そもそもあのときから、夢だったらよかったのに)
あのとき。
両親がいきなりいなくなって、当たり前のように歩いていた道の一歩先が、途切れて崖に変わった。引き取られた叔父夫婦の家は特別仲の良い親子、夫婦関係ではなかったけど、そのごくありふれた当たり前の家族関係に、毎日狂おしいほどの嫉妬を覚えた。
泣く場所がなくて、誰も来ない薄暗い公園のベンチに居着いた。
それをラオシーが、見つけてくれた。
『ビビらせて追い払おうと思ったのに、しつこく真似しやがって』
そんな風に言っていたそれが、最上級の優しい嘘だということを、ゆしかはもう解っている。
本気で追い払うつもりならいつでもラオシーにはそれができたのに、半年間ずっと、声もかけずに関わってきた。まるで、話し掛けても大丈夫になるのを待っているかのように。
ラオシーはゆしかを一度も慰めなかった。頼ることを、甘えることを許さなかった。だけどそれなのに、黙々と、ゆしかが望むまま、持てる拳法の技術を惜しげもなく教えてくれた。
ラオシーが病気で亡くなったのは、出会ってからたった二年半後のことだ。
ラオシーはなにも言わずに消えた。あるとき突然姿を見せなくなり、それが続いた。亡くなった、と聞いたのも随分経ってから知った。
ついに本心を語らずいなくなったラオシーが、なにを思ってゆしかに関わっていたのかは解らない。だがゆしかは想像した。
ラオシーは自分の命が長くないことを知っていた。自分の家の裏で毎日泣くゆしかの境遇を知って、哀れに思った。しかし慰め、同情すれば一時的には拠り所になれるかもしれないが、またゆしかは遠くない将来、近しくなった人間を失う経験をしなければならなくなる。
憎まれ口を叩く近所の爺なら、ひとりいなくなったところで大した感慨はあるまい。その立ち位置で、ゆしかのためにできるお節介はなにか。
その答えが、ラオシーの行動、言動だったのではないか?
思いついたら、確実にそうだったんだろうとしか思えなくなった。残された貴重な時間の多くを費やして、ラオシーは「ゆしかの大切な人間には決してならず、ゆしかを鍛えた」のだ。
(礼も言わせない……死んでも泣かせてくれないなんて、本当に酷い爺だ)
ゆしかは当時思いながら、引きつる喉を力尽くで黙らせ、強がった。
それが、ラオシーの教えだったからだ。
それから少し時間が経って、ゆしかは病気になった。ただの風邪と甘く見ているうちにどんどん悪化し、町医者へ行っても不思議がられ、大病院で精密検査を受けてようやく発見された。それも病院や医者によっては発見できなくてもおかしくなかったという説明を受け、自分がいつの間にか死の淵に立っていたことを知ってから背筋が凍り付いた。
(ラオシー……こういうことか)
人生は、思わぬ角度から思わぬ方法で全てをぶち壊してくる。
そして闘病の過程で、ゆしかの世話をするために、毎日病院へ通わなければならなくなった叔父の妻である季子とその家族にとってもまた、「思わぬ角度」だったろうとゆしかは思った。
当時季子のふたりの子どものうち、娘は十歳で息子はまだ二歳だった。
親戚から押し付けられるようにゆしかを引き取った叔父はゆしかに興味を持たなかったが、当初、季子はそれでも距離感を掴みかねながらも、それなりに親切だった。入院したときも気の毒がってくれたし、勇気づける言葉を何度か口にしてくれたこともある。
ただそれも、何週間かが過ぎるころにはなくなり、口数自体が少なくなった。
後から知ったところによると、季子は病院に通うことによって家事が疎かになっていることを叔父に責められ、娘にも泣きつかれたという。息子に至ってはただでさえ手間のかかる時期であり、手が放せない。保育園には預けていたが、夕方には引き取らなければならなかったし、季子は平日も休日もゆっくり休むことができず、睡眠薬に頼るようになったという。
二ヶ月の後、命を取り留めて退院したゆしかを待っていたのは、入院前よりもさらに居心地の悪くなった家だった。むしろゆしかの存在がこの家族を歪めてしまったのだと思うといたたまれなくて、一刻も早くここを出なければという思いに駆られた。
それから身体の回復などを経て、中学を卒業するのと同時に家を出た。
「両親と住んでいた土地に戻って暮らしたいんです」
そう言って受験先を決めたゆしかに、病気の再発のリスクがあるという話は知っていたはずだったが、叔父も季子も反対しなかった。幸い遺産と保険金は十分過ぎるほどあったから、ゆしかが大学を出て働くようになるまでは面倒を見る、と、叔父はまるで自分がこれまで父に代わってゆしかを育ててきたのだというていで胸を張った。
(強くなっておかなきゃ。強く。いつ、なにがあるか解らないから)
毎日のようにそう思いながら、高校以降、ゆしかはひとりで生きてきた。
そしてその目的はある程度達成できるようになっていった。
それまでの経験を思えば、日常で起きる様々なことは些末なことに思えたし、動じるほどのことはなかった。だからか小柄で幼い見た目の割に、周囲からはよく頼られた。理不尽に己を突き通そうとする奴や、喧嘩を売ってくる奴に対しては、年齢も性別も関係なくやり返した。
端から見たゆしかはきっと、強かった。
それがラオシーの思い描いたのと、同じ方向性かは解らなかったけど。
ゆしかの意識は病室に戻ってくる。窓の外には、皮肉なくらいの青空が広がっている。
(だけどね……真心)
心の中で、話し掛けた。
(何年か経ったころにはもう……思ってたんだよ。
強くなって、ひとりで生きられるようになって……それが一体、なんになる? って)
自分の価値が解らなくなっていた。生きるために強くなれという教えを疑ったことはなくとも、そもそも家族を失い、大切なものもない自分が、強くなってまで生きている意味はなんだったっけ、と。
(だから、あっさりやられちゃったんだよね)
『俺は嬉しいんだ。君みたいな奴が、存在してるってことが』
(あのときわたしは……まるで、『生きてていいんだ』って言われたみたいな気がしたんだよ)
それほどの相手であるにもかかわらず、衝動的な感情に振り回され、心ない言葉で傷付けてしまった。恐らく今ごろ、自分を責めてしまっているだろう。
(ごめんね)
ゆしかは詫びながら、しかしきっとこれからも、関わり続ければさらにそうなるだろうと半ば確信していた。闘病を続ければ近くのひとを巻き込まずにはいられないし、今はまだましだが、状況が切羽詰まれば感情のコントロールなんてものは、真っ先に優先順位が下がっていく。
死ぬかもしれない病と向き合う、というのはそういうことだ。
(じゃあ、わたしは……どうすればいい?)
ゆしかはまどろみ、浅く眠ったり起きたりを繰り返して、空が明るくなり始めるまでこれまでのことを思い出し、これからのことを考えた。
その結論が出たとき、真心に大量の写真を送りつけ、最後にひと言、メッセージを送信した。
『話がある』
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