夏・第9話 ゆしかは真心に恋をする⑤感情に任せて暴力を振るったことを、正義のためとかひとのためとか言う奴にはなりたくない

 ゆしかはTHさんの家にいた。


「鹿さん。顔、腫れてるよ」


 治療を勧められたが、休日なので病院はやってない。「おうちのひとは?」と幼児に尋ねるような優しい声で言われたが、ゆしかは無言で首を横に振った。

 数秒迷うような沈黙があった後、THさんは「あのさ、じゃあ俺の家に来る? 簡単な治療ならできると思う。ここからそう遠くないから」と言った。


 こんな流れでなければ、ゆしかもさすがに警戒しただろう。

 どんなに気が合ったとしても、さすがに初対面の、本名も知らない年上の男の家に誘われてついていくほど無防備ではない。

 しかしTHさんの顔も声も、警戒されるようなことを言ってるという気まずい自覚に溢れていたし、ゆしかの怪我を心配しているのは信じられた。


(引いてないの? わたしを、嫌悪してない?)


 本当は今すぐに訊きたかったが、肯定されたらという不安から、喉の奥で何度もかき消える。

 こんなになにかを尋ねるのを怖がっているのは、いつぶりだろう。


(わたし、このひとに嫌われたくないんだ……手遅れかもしれないけど)


 絶望的な気分で、ゆしかはTHさんの後に続いた。

 その家は住宅地の一角にある、一軒家だった。ゆしかは幾つかの理由で、口には出さず驚く。


(え…………ここ?)


 大きさはそれほどでもないが、新築と言われても信じられるくらい真新しい建物だった。

 表札には「岩重」とだけ書いてあった。

 既婚者なのかな、と思った。ああそうか、奥さんがいるから家に誘ったのかもしれない。


 しかし玄関に入ってすぐ、その考えが間違っていたことに気付いた。

 家には誰の気配もなく、電気もついていない。

 THさんは廊下を明るくして、途中にあった洗面所で手を洗うように促した。自分も洗って、うがいをしてからゆしかをリビングに通す。


 対面式キッチンのある、広いLDKだった。ゆしかの部屋は八畳だから、多分その二倍はあるだろうと思った。無垢材の広い四人掛けのテーブルがあって、二人掛けのソファがあって、大型のテレビがあった。家具の色調はナチュラルで統一されており、温かみを感じる部屋だった。散らかっていることもなく、良いのか悪いのか解らないが、生活感の薄い部屋だった。


「ソファでもテーブルでも、好きなところに座ってくれ」


 そう言ってTHさんは、エアコンをつけてから一旦部屋を出て行った。階段を上がる足音がして、下りてくる音がするまでの間、ゆしかは所在なく立ちつくしていた。壁際に置かれている大きなガラス戸付きの本棚には漫画や小説が目一杯詰め込まれていて、ああここは間違いなくTHさんの住処なんだな、と妙に実感した。


「座っててって言ったのに」


 戻ってきたTHさんの手には、ひと抱えの箱があった。促されてソファに座る。隣にTHさんが腰掛けて箱を開けると、それが医療用具を入れた箱だというのが解った。


「とりあえず拭きなよ。痛いかもしれないけど」


 アルコールを染み込ませた布を手渡された。軽く拭っていると、THさんは一度キッチンへ行って水枕を持ってきた。それをタオルで包んで渡してくる。


「しばらく冷やしてから湿布でも貼ろう。手で持つのが大変なら、横になっていいよ」

「うん」ゆしかは言われるまま枕を下に置いて、ソファへ横になる。


 座る場所を失ったTHさんはソファの隣の床へ胡座をかき、ひと息ついた。

 外はもうほとんど夜で、天井から降り注ぐ暖色系の光が目に優しい。


「……あのさ」顔を真っ黒なテレビに向けたTHさんが言う。「さっきは正直、びっくりした」

「ごめんなさい」


 驚くほど素直に声が出た。が、自分のものではないように思えるほど、こわばっていた。


「や、俺に謝ることじゃないと思うけど……なんていうかさ、なにをどう訊いたらいいのか解らないもんだな。なにせ俺は、鹿さんのことを知らなさ過ぎる」

「うん」

「別に言いたくないことは言わなくていい。ただ、俺は、君と、ああいう場面が似つかわしくないと思ったから……」

「がっかりしたよね」

「え?」

「がっかりしたでしょ? 乱暴な奴だって」

「……そんなことは」

「いいよ、隠さなくて。わたし、小さいころ拳法やっててさ。漫画みたいでしょ? いきなり信じろって言われても無理だろうけど、近所に老師みたいなひとがいて、結構、熱中してたの。別に大会とかはなかったけど、てゆーか、あんなことに使うなって感じだよね。ハハ」


 THさんはそれにはコメントしなかった。

 ゆしかの乾いた笑いがフェードアウトして、長い沈黙が訪れた。

 それに耐えられなくなったわけではないが、次に声を出したのも、ゆしかだった。


「自分で解ってるんだけど。わたし、沸点が低いの」

「ああ」黙っていたTHさんだが、しっかり相槌は打ってくる。

「許せない、と思ったときには身体が動いてる。さっきだって、あんなに楽しかったのに」

「……なにが許せなかったんだ?」


 訊かれて、すぐには言葉が出なかった。THさんはそれを言いたくないのだと勘違いして「あ、言いたくないなら」と慌てる。それで逆にゆしかは冷静になって、軽く息を吐いた。


「あの男は、大した知り合いじゃないけど、わたしとTHさんが話してるのを見かけたらしくて、THさんを馬鹿にした」

「俺のために怒ったのか?」

「違うよ」ゆしかは即答する。「わたしがイラッとしたんだ。感情に任せて暴力を振るっただけ。それを、正義のためとかひとのためとか言う奴にはなりたくない」

「……ありがとう」


 THさんの言葉に、ゆしかは怪訝な顔をして上体を起こした。片手で水枕を押さえる。


「いや、だから、違うって」


 そこで久しぶりにTHさんはゆしかに顔を向けた。

 その目の形は怖いままなのに、何故か切なくなるほど優しく見えた。


「なんか、安心したよ。やっぱ鹿さんは、俺の知ってる鹿さんだなあって」

「……どういうこと?」

「実は今日ひと目見たとき、思ったより若いなって思ったんだ。でも話して、ああこのひとは確かに鹿さんだって納得した。そしたらほら、さっきみたいなことがあって、また少し解らなくなって……でも今の話で、やっぱ鹿さんだ、って」

「ごめん。説明してもらったけど解らない」

「……なら、正直に言うから、できたら引かないでほしいんだけど」


 背中を痒がるようなぎこちない表情になって、THさんは続けた。


「俺は嬉しいんだ。君みたいな奴が、存在してるってことが」


 その声に、ゆしかは胸を串刺しにされたように目を見開いて身体の動きを止めた。それに気付くこともなく、THさんは言葉を繋ぐ。


「まあ、なんつうか……とても真っ直ぐで、『本物』しか要らない、みたいな。

 仮にそれが若いからだとしても、そんなひと、現実にはなかなかいねえ。

 ネットでやり取りしてて勝手に期待して……ずっと、実際会ったら勝手に幻滅するかもって思ってて……会いたいって言われて嬉しかったけど、少し怖くてさ。

 でも君は、俺の想像どおりのひとだった。

 だから……ありがとう、って言った」


 言い終えるとTHさんは、細い目をさらに細めてゆしかの頭を軽く何度か叩いた。

 そして一瞬の後、我に返ったような顔になって


「あ、わ、悪りい! 子ども扱いしたみたいで……気を悪くしたよな」


 と目を泳がせた。


「そろそろ湿布貼ろうか。さて、湿布は……」


 誤魔化すように箱の中を探す。

 ゆしかはその背を見つめながら、腹の辺りから熱いものがせり上がってくるのに耐えていた。



『俺は嬉しいんだ。君みたいな奴が、存在してるってことが。

 まあ、なんつうか……とても真っ直ぐで、『本物』しか要らない、みたいな』



(なにを、言ってるんだろうこのひとは)


 いい歳だろうに。目つき怖いくせに。『愛』とか書かれたダサいTシャツ着てるくせに。


(どうしてわたしをこんなに、揺さぶれる?)


 どうして当たり前のように……今まで誰もかけてくれなかった言葉を、かけてくる?


(今日会ってから今まで、一度もこのひとはわたしをいい意味で女とか子どもとして扱わなかった。今、頭を撫でられたのだって、全然不快じゃなかった。むしろ)


「……好き」

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