(8)眠り

 佐々木先輩を呼び出すことは難しくなかった。屋上へ続く扉。そのドアノブを握りながら後ろを向いた。南久保さんは気まずそうに俯いていた。

「南久保さん、ここで待ってて貰って良いかな」

 彼女は、ぎこちなく背後を窺う。佐々木先輩は後輩のことを見ようともしない。何もない階段へ目を落としたまま、不満だけを露わにした。

「紗奈、どういうこと?」

 低く、威嚇するような声だった。それが普段の彼女とはかけ離れていることは南久保さんの反応でわかった。彼女は小刻みに震える唇で「あの」と「その」を繰り返している。もう少ししたら泣き出してしまうだろう。佐々木先輩は舌打ちをした。

「貴女がどうしてもって言うから来てやったけど……彼は誰なの? 私に何の用?」

 南久保さんに代わって答えた。

「二年の風間と言います。突然お呼び立てしてすみません。南久保さんから先輩のことを相談されていて」

「私に何の用なの?」

 鋭かった。今まで何百人もの相手を怯ませてきたであろう鋭い眼だった。

(気圧される)

 気付けばドアノブを握り締めていた。小さなそれが唯一の支えであるかのように。

 佐々木京子。

 評判通り綺麗なひとだ。小さな顔。流れる黒髪。手足はすらりと長く、肩の幅から爪先まで彫刻みたいに均衡が取れている。けれど華奢な様子は微塵もなく、鍛え抜かれた強靭さ、しなやかさは龍や虎を連想させる。

 こんなひとが強く、優しく、鷹揚に振る舞っていたのだとしたら、さぞや多くの人間を魅了したことだろう。でも今は違う。整った目鼻立ちを猜疑心に歪めながら、ぐつぐつと怒りを煮詰めている。まるで虚を満たすみたいに。

 とても哀しくなった。

「先輩の力になれるかも知れない」

 そう口にしていた。先輩は「はあ?」と眉間に皺を刻んだ。

「ふざけてるの?」

 刺し殺さんばかりに睨み付けてくる。けれどさっきよりは平静でいられた。僕は黙って彼女の判断を待った。やがて露骨な溜息が階段に落ちた。

「まあいいわ。三分よ。それ以上は付き合っていられない」

「充分です。きっと先輩のお役に立ちます」

「どうだか」

 ドアノブを捻り、屋上に足を踏み入れる。佐々木先輩も後に続いた。

 合唱部の声が空へ飛び立っていく。雲は色を濃くしていたが、天気予報の答えはまだ分からなかった。きっと終わってみるまで分からないのだろう。そして、それはもうすぐだった。

 フェンスを背にして先輩と向き合った。警戒しているのか、先輩は扉を締めていない。彼女は、左右に視線を巡らせた。

「……屋上って立ち入り禁止じゃなかった?」

「ええ……少し、悪い友人がいまして」

「悪い友人?」

 瞬間ばたりと音が鳴る。先輩は機敏に身を翻した。そして扉を閉めた張本人を認め、戸惑ったようだった。

「こんちには、佐々木先輩」

「あなたは……」

 姫神さんは微苦笑を浮かべた。それも束の間だった。

「失礼します。先輩」

 彼女は無造作に距離を詰めると身構えた先輩の右手を捉えた。拒絶を意識させない、自然な動きだった。念じるように瞳を閉ざす。佐々木先輩は「なに?」と上擦った声を漏らしたけれど不思議と振り払えずにいるようだった。彼女が冷静になるより早く、姫神さんは解を導き出した。

「芦原さんと仰るんですね。その方」

「!!?」

 先輩の髪が、ざわりと逆立って見えた。「どうしてそれ」と擦れた声が届いてくる。姫神さんは答えず、彼女との距離をさらに縮めた。

「自分を……殺してしまいたいですか?」

 もう片方の手を握り、ゆっくりと胸のあたりまで持ち上げた。

「消してしまいたいですか? いなくなってしまいたいですか? 楽になりたいですか?」

「あなた……何を……?」

「わかります。佐々木先輩の無力感も。罪悪感も。私には全てわかるんです」

 先輩は硬直していた。無遠慮に心を暴いてくる後輩に、されるがままになっていた。やがて重みに耐え切れなくなった頭が、折れるようにうなだれた。

「わ、私は……」

 佐々木先輩はもう一度「私は」と叫んだ。自分を鼓舞しているふうにも、何かを拒絶しているふうにも聞こえた。白い手が、先輩の両手をそっと離した。

「私が、貴女を苦しみから解放します」

 そして彼女の両頬に触れる。

(あ……)

 僕は、無意識に手を伸ばしていた。意味のある動作ではなかった。虚空を掴み、自問する。

 何を不安がっているのだろう?

 吸い寄せられるように歩み寄り、佐々木先輩の貌を覗いた。

 彼女の瞳は、涙で揺れていた。

「怖がらないで。怖がる必要なんてどこにもないんです。次に目を覚ましたときには何もかも忘れています。ベッドに悪夢を置いていくように、何もかもすべて忘れているんです」

 先輩は両膝を着いた。白い髪の少女を見上げ、声を震わせた。

「あなたが解放してくれるの? わたしを、ここから?」

 母親のような笑みが応えた。

「ええ、そうよ。だから、もう、お眠りなさい」

 先輩は、その微笑みに全てを委ねたようだった。心地よさそうに吐息を漏らした。頬に触れた手。そこを起点にして二人の姿が光に包まれる。月が花を照らすような、淡く、優しい光だった。

 頬をするりと何かが伝った。涙だった。どうしてだか分からないけれど感情が溢れて止まらなかった。僕は、理由の分からない涙を流しながら、立ち尽くすことしかできなかった。

 やがて先輩の身体がぐらりと傾いた。姫神さんは、無防備なその体を柔らかく抱き留めた。背中に回された手が、先輩の制服に大きな皺を作る。そして、

「……ごめんな、さい」

 姫神さんは泣いていた。先輩の肩に顔を埋めたまま、痛みを堪えるように泣いていた。何度も、何度も「ごめんなさい」と繰り返しながら。

「……ごめんなさい。瑠璃ちゃん。ごめんなさい」

 何度も。何度も。

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