餞別
除霊。
その言葉に身を乗り出していた。
目の前が拓けて明るくなった気がしたのは、燈子の後ろに後光を見たせいだろう。
お祓いは受けたことがある。神社で儀式的に行われるものだ。
だが、霊能力者による除霊となると話は別だ。燈子が信頼するのなら本物の霊能力者なのだろう。
安堵とともにオカルト好きの虫が騒いだ。
「細かいことはこちらに書いておきました」
燈子は詳細を示したメモを、またしても卒業証書授与式のように恭しく差し出した。
その恭しげな姿勢を無碍にもできず、ぼくも両手で受け取り、メモに視線を落とす。
まず、目についたのは円マーク。料金だった。一人五万円。ぼくからしてみれば痛い額だが、これまで見てきた詐欺まがいの料金表よりもよほど良心的だった。
霊媒師の名前は
場所は渋谷のレンタルスペースが指定されている。小さく『※診断していない霊をご本山に持ち込まないようにするため』と書かれていた。レンタルスペースだったら霊を残していいのだろうか、というのは無粋な話かもしれない。
ともかく、ぼくは東雲最明先生を頼ることにした。
中西が「除霊パート二つもいらん」と渋るようなら、ぼくは無断欠勤をしてでも参加するつもりだ。
それにしても、霊媒師に急な除霊を頼んで返事をもらうとは、ただ事ではない。通常は準備だなんだで一か月ほどかかる。
燈子はそれほどまでに界隈で有名なのか、それとも東雲先生とは無理が通るほど懇意にしているのか……。
ぼくがメモ書きから顔をあげたのを見計らったのか、燈子が忠告をかぶせてくる。
「東雲先生は、番組にしないほうがいいと仰っていました。どういった霊で、どういった呪いなのかはわかりませんが、その場所に人が集まってしまっては、また別の誰かが同じ目に合う可能性もあるとかで」
「そうは言っても……この番組を作らないと、生活すらままならないわけで……それはそれでぼくは死んじゃうといいますか……」
「そう、ですよね……美和さんも似たようなことを言っていました。世の中に自分の存在を認めてもらえないままなら、死んだも同然だって。わたしは、生きていればいいこともあると、平和な日常が一番だと、励ましたのですが……」
双方、彼女たちらしい言い分だ。
ぼくはというと、美和の心境に近い。
まぶしいほどの善人である燈子にはわからないのも頷けるが、美和の援護射撃のつもりで言い訳した。
「燈子さん。うちの監督も、美和さんも、頑張っています。ぼくも……二人に比べたらまだまだだし、納得いかないこともたくさんあるけど、最近やっと頑張ってみようって思えて……」
しかし、睡眠不足から自制が効かなくなっていたのだろう。自分で口にした言葉がため込んでいた不安の堰を切ってしまい、気が付けば思ったままに自分のことを喋っていた。
「あいつは怖いです。助けてほしいです。だけど、嫌なことばかりの日常に戻ったところで、望まない日々にゆっくり首を絞められながら死んでいくだけなんだって……それも同じくらい、怖くて……」
美和は売れなければ、彼女にとって一番大切な"人に愛されるアイドルの島袋美和"が死んでしまう。
中西だって『自殺アパート』の映像に子どものように浮かれ、期待している。赤城の死まで利用しようという魂胆にはついていけないが、世の中に負けたくない気持ちはわかる。
こんなぼくでさえ理由がある。漠然とではあるが、この仕事をやり遂げないと、いままでとなにも変わらない不安に駆られている。
これは、たとえば――殺されるのをただ待っていた家畜が、化け物に狙われてはじめて自分の命の大切さと居場所を自覚して、檻の外に出たがっている……そんな話だ。
「ぼくは"いままで"に戻りたくないです。これ以上、無力とか諦めとか、自分に刻みたくないです。自分で立てるようになりたいです……」
そしてぼくは、自分の本心を知った。
あれもこれも怖いと怯えきった、情けない心境に顔が熱くなる。
痛々しいぼくの吐露に、燈子は相変わらず人形のようにぼくを見ていた。
「すみません、感情的になってわけわかんないこと言い出してしまって」
「いいえ。安心しました」
「安心……?」
「吉瀬さんには、美和さんの気持ちがわかるんですね。わたしには除霊もお祓いもできませんし、かといって美和さんを一人にするのは心苦しかったので」
その声色がどこか悲しげに聞こえた理由を、すぐに悟る。
「東雲先生はわたしに、金輪際かかわるなと仰っていました。美和さんにも、あなたにも。それが無理をきいてもらうための条件でした」
「金輪際……? ずっと……って意味ですか?」
「はい。どうぞその旨で、よろしくおねがいいたします」
自ら危険地帯に踏み込んでおいて、呪われれば除霊はしてもらうが、やはり番組は売り出したい。
そんな自分勝手な連中に、稀有な力を持つ燈子を付き合わせまいとする東雲先生の計らいもあったのだろう。なにせ、燈子が善意から首を突っ込んでいくのは目に見えている。
ぼくや中西はともかく、同郷の美和との縁を切らせるとは厳しすぎる気もしたが、燈子も覚悟した以上、外野が駄々をごねるわけにもいくまい。
ぼくは大人しく頷いた。
「そうでしたか。それは気苦労をかけてしまいました」
「それこそお気になさらないでください。それで……餞別といってはなんですが――」
燈子はそう言いながら、バッグからずるりと花柄の紙袋を出した。黒づくめの燈子には似合わない派手な色合いだった。
ハードカバーの本でも入っているのだろうかと思いながら受け取ると、中身は粘土質のようだった。予想外に柔らかい。
開けるよう手で促され、ぼくはハートマークのシールをはがし、中を検める。白地に赤と青のラインが見えた。
戸惑いつつ燈子の表情を窺おうとしたが、メビウスに阻まれる。
「燈子さん、これは」
「かの有名な、塩です。伯方の。厄除けとお料理にお役立てください」
「あ……え?」
なんと返事してよいものか、それどころか笑うべきなのかさえもわからず、ぼくは困惑した。
シックな黒服で無愛想な燈子が二キロの塩を差し出すのはシュールで笑いを誘う光景である。
一方で、それは彼女のメビウス症候群でさえ面白可笑しいとしているようで、加えて塩でさえ今この状況下では冗談抜きに実用的なものであった。
形容しがたい沈黙の中で視線だけを泳がせながらぼくはやっとのことで「ありがとうございます」と口から捻りだした。
「吉瀬さん」
「はい」
「……説明をしますと、こんな顔のくせに、いきなり塩なんて出したらとっても可笑しいと思った次第で……」
「いやいやいやいやいや」
「楽しい記憶はそれだけで魔を退けるってネットで見たので……わたしには何もできませんでしたので、せめて少しでも和んでいただけたらと……」
意外にも、彼女は自らの奇病を笑いのネタにするタイプか。
善意が空回りしているといえば、彼女らしい。
「いえ、ぼくが空気を読み違えたのが悪いんです。燈子さんはスベってないです。和みました、ものすごく和みました」
「そういう薄っぺらいフォローやめてください」
スン、と鼻を鳴らしてテーブルに伏せる燈子。
駄々をこねるように左右の足を踏み鳴らすと、腕から目元だけを覗かせた。
突然の行動に目を白黒させていると、いつもの無機質な美貌が張り付いた顔をあげる。
「さては、吉瀬さんもわたしのことを、いい子ムーブで頭のお堅い"人形"とでも思っていたんですね」
「そんなことは……ええと……」
図星だ。
燈子は姿勢を正し、今度は身振り手振りを交える。
「やっぱり。電気や念力じゃなくて、ちゃんとカロリーで動いてますからね。わたしだって冗談くらい言うんです。お笑いの番組もよく見るんです。……吉瀬さん、どうしていま首をかしげたんですか、『よく見る、のに?』ってことですか?」
「本当にすみません」
こんな調子で不毛極まりない言葉を交わした。
表情筋こそ動かないが、豊かで鮮やかな感情が人間嫌いなぼくにも伝わってくる。
ぼくは角守燈子をモノトーンで無機質な黒三角人形と思っていた。
それは大間違いで、本当は正義感が強くて、冗談好きで、ちょっと抜けている――明るくて、感情的で、極彩色な印象さえある女性だ。
「わたしも、吉瀬さん、誤解していました。冷たくて怖い人かと思っていました。あんまり人とかかわりたくないっていうか……」
「その通りです」
「そんなことないですよ、ご自身で誤解しています。だって色々話してくれましたし、わたしそれで――」
声のトーンが上がったところで、燈子は突然口をつぐんだ。
そうだ。
ぼくらと彼女はかかわってはいけない。
いまこの場こそが、今生の別れを意味している。
ぼくらの人間性のすり合わせなんて、相互理解なんてしてみろ。
軋むような雰囲気に、ぼくはトドメを刺した。
「お開きにしましょうか」
「……はい」
燈子は姿勢を整え、それこそ機械的にゆっくりと頷く。
「御武運をお祈りしています」
か細く言って立ち上がると、彼女は飲みかけのドリンクをそのままに去っていった。
あれだけ言葉の応酬をしていたにもかかわらず、突然に一人残された気まずさといったらない。
すぐ立ち上がればいいものの、ぼくは一杯ブレンドコーヒーを頼んでテーブルに置いた。
天然の彼女のことだ、忘れ物なんて情けない理由で戻ってくるかもしれない。それこそ笑える。
――おいおい。ぼくは人とかかわるのが面倒だったんじゃないのか。
そんなことない、らしいぞ。
――中西の次の寄生先は美人女子大生か?
非現実的。その可能性こそオカルトだ。
時間が許す限り、手の中に残った二キロの塩を見ながら自問自答を繰り返していた。こんな自分の気持ち悪さったらない。
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