《DAY8 7月22日》 嗤うメビウス

死者殺し


 こうして、ぼくの朝に雪崩れ込んできた目覚めは残酷だった。


「おはようございます、吉瀬さん。おはようございます。もう大丈夫ですよ」


 ドアスコープを覗く。

 長い黒髪、黒服の女が、こちらを覗いていた。

 夏空の光を背負い、穏やかに微笑んでいる。カメラに収めたくなるような、綺麗な光景だった。


「わたしたちは助かったんです――だからこのドアを、開けてください」


 ぼくはこの訪問者が何者か、よくわかっていた。

 燈子は表情筋が動かない――メビウス症候群だ。微笑むことなどしない。皮肉にも、できない。

 この美しく、いつまでも見ていたくなるような優しい微笑みは紛い物である。

 やつが来たのだ。

 この優しい笑顔の主は、ぼくを絶望のどん底に叩き落とし、ぼくに存在を認めさせ、惨たらしく殺すため、ぼくがもっとも信頼しているの姿を用いてやって来たのだ。ぼくにとって最低と邪悪を煮詰めたような相手だ。


「開けてください。開けてください、吉瀬さん。よく頑張ったねって、褒めてください。そしたらわたし、わたし」


 甘美な声で囀る化け物に一瞬、見蕩れて首を振る。

 ぼくはもう、気が付いて、決めていた。


 部屋に戻り、ベッドの下に落ちていたハンディカメラとボディバッグを持って再び玄関前に立った。


 どうせ見られているのだろう。

 だが、ぼくがなにをしようとしているのか、理解まではできていないようで――そもそも理解という概念があるのかもわからないが――、邪魔は入らなかった。


 両手でハンディカメラを掲げる。


「……吉瀬さん」


 そして、埃の溜まったコンクリートの上に力の限り叩きつけた。


 思ったよりも複雑で華奢な音を立てて、破片が飛び散る。白いガラス、黒いプラスチック、電気部品。

 ぼくの境界線はこんなもので出来ていたのかと、場違いに感心した。


「なぁにをぉ……しぃて、いいるんでですかぁあ?」


 ドアの向こう側、燈子の声が人間の声帯とは思えぬ高低差で揺らぐ。

 もう一度、さらに低く脅すような声で、同じように言った。


「んなにぃを……して、いるぅうんですすすかぁあ?」


 ぼくは構わず、カメラから零れ落ちたSDカードを拾い上げた。、本体はこちらのようだ。


 ボディバッグからは工具箱、そこからニッパーを取り出した。

 ドアに背を預け、ぼくはSDカードの黄色い端子部分にニッパーの刃をあてる。


 ぼくはを――ここにはいない本物の角守燈子を信じることにした。

 正しいと思うことをする。捻くれ、拗れて、恥ずかしくても。


 だからぼくは、報復を続行することにした。

 自分の命を、自分の感情に――怒りと憎しみに預けた。


 報復は正しくない、憎しみに抗え、なんて人間社会に染まった誰かは言いそうだ。でも、人間社会の正しさに平伏して、いい子ムーブで諦め続けた結果、どうなった?


 ぼくはもう、やり返す。反逆する。報復する。自分の命は、自分で使い潰す。


 立場はもう逆転している。

 狩る側と狩られる側が、いつのまにか裏表ひっくりかえっていると、あいつは気が付いているだろうか。


 そんなことを考えながら、ニッパーを握る手に軽く力を籠める。

 パチン、と爪を切るような音がして、小さな小さな黒と金色の破片が零れた。


「――ぎっ」


 ドアの向こうで獣じみた声がした。

 角度を変える。出来るだけ小さく、パチンと捩じり切った。


 今度は耳をつんざくような咆哮が壁向こうから打ち付けられる。

 どんどんと激しくドアが叩かれた。


「吉瀬さん……! 吉瀬さん、たた助けけてくください。あああ開けててください。あいつあいつあいつあいつがきてきてきていますいるいます、はや早く、早く! わたしを、助け助け助けてください」


 記憶媒体部分に刃を差し入れるようにして、パチン、パチンと削ぎ落す。

 ドア向こうの声は言葉にならず、泣き叫ぶ。ベランダ側もがたがたと窓が叩かれた。


 パチン。

 むわっと死臭が湧き上がった。


 パチン。

 ベッドの下、トイレのドア、キッチン壁の横、隙間から灰色の手足がうごめき、壁を這いながら伸びてくる。


「よ吉瀬さん……よ……しせ……ささん……いたいいたい……」


 燈子の悲痛な声が聞こえてくる。きっとぐちゃぐちゃに顔を歪ませて泣いているのだろう。それはそれで見てみたい気もしたが、ぼくはに集中した。

 認識など、してやるものか。

 おまえなどいない。

 存在しない。


 パチン。

 いくつから床に崩れ、いくつかは激昂したように指先を軋ませた。


 パチン。

 窓から入ってくる光、照明の光が次々に塗り潰されていく。


「たた助けててくだだださい、吉瀬ささん……わたわたし……し、ここのままでは……ししし死んで、いっぱいしまいまいるますす」


 もし、角守燈子がドアの前に化け物に襲われたりしていたのなら。彼女は黙って――それこそぼくに死を悟られまいとひと声すら漏らさないだろう。実に強情で陰湿な女だ。


 とはいえ、ドア向こうの何者かが死ぬ――それは事実だ。

 ぼくが残してきたハンディカメラの映像こそが、いまやこいつらのなのだから。


 ぼくに残された謎。

 鏡を壊したはずなのに、解けない呪い。

 芹沢と燈子の感染経路――共通点。

 それは同じ場所に帰着した。


 結果から言えば、ドアの前にいるあいつは複製だ。ぼくが転生させてしまった……というほうが正しいかもしれない。


 あいつは田邊が捏造した、都市伝説の化け物だ。形などない。都市伝説を都市伝説たらせる何かしらの証拠が必要なのだ。なんの因果か、そこまで察することができないが、それがぼくたちに鏡の幻を見せた。鏡があったからこそ、自殺者たちは都市伝説を信じ、ぼくらは徹頭徹尾が捏造とは思わなかった。だが、それは燈子に破壊された。その話は、確かにそこで終わった。


 だが、もう一つ。

 その経緯の中で、都市伝説を都市伝説たらしめる証拠が誕生していた。ぼくが撮っていたビデオ記録だ。ここには『自殺アパート』の伝説がありありと残されている。


 そして、その映像を見て、都市伝説の存在を知ったのは燈子と芹沢だ。燈子は自らの意思で、芹沢は盗み見る形だったが……気が重い。


 なんにせよ認めなければならないが、彼らはぼくのカメラを経由して呪われた。

 ぼくは知らぬうちに田邊と同じように、化け物を生み出していたのだ。


 こいつを語り継ぐ物語、すなわちこいつの都市伝説がこの世から消えれば、呪いが感染することなどないはずだ。


 こんな薄っぺらい記憶媒体ならば、半分に割れば、それこそ燃やしてしまえば簡単に決着がつく。だけどそうはしない。してやらない。


 おまえなんて、ぶっ殺し直し直してやる。

 誰のものでもなく、獲物であるはずのぼくの手で報復してやる。

 できるだけ長く、ゆっくり、苦しめて殺してやる。

 やられたぶんだけやり返す――それがぼくにとっての正しさだった。


「死んでるくせに……生者を舐めるなよ」


 陰湿な殺意にふけりながら、作業を続ける。


 パチン。

 死臭は充満し、灰色の指先はすぐ目の前まで迫っていた。

 ドアを叩く振動がさらに強くなり、爪を立てる音が激しくのた打ち回る。きっとドアスコープを覗けば、凄惨な燈子の姿があるのだろう。

 SDカードはもう半分以上、千切られている。指でつまむことも困難だ。ここまでしてしまえば復元なんて、どんな機械でも難しいだろう。

 彼らの残骸をハンマーで滅茶苦茶に破壊した燈子も大概だが、ちびちびとあいつの本体をニッパーで引き千切っているぼくも同類だ。どこか誇らしい気分になった。やっと共犯者になれた。


「……吉瀬さ、ん」


 絞り出すような声だった。

 迫った手の一本が、ぼくの首を掴む。しかし、力無く落ち、胸を撫でるだけだった。


「また……どこかでお会いしましょうね……ふふ」


 残った黒く小さな塊に刃を当てる。

 パチン――と小さな音を立てて彼らの都市伝説は引きちぎられた。

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