ヒトコワ
「あそこは父の代では炭鉱夫とその家族向けの住まいでして、周囲にも何棟か似たアパートがあったんですが山が閉じて次々に取り壊しが決まる中、父が亡くなりましてね。手続きがもたつきましてね。なんやかんやで私が相続したんですが――最近だと訳あり物件ってあるじゃないですか。あんな形で、難しい事情の方のために残しておくことにしたんです。まあでも私も年でしたので、アパート経営も畳んで、嫁の実家に越してきちゃったんですけどね」
「当時の入居者さんってどんな方だったんですか?」
「入居者さんの事情は深入りしませんので本当のところはわかりませんが、借金とか、夜逃げとか……そんなお話だと思います。あんな山奥でしょ。見つかったとしても、しょっちゅう追いかけてくる人なんていませんからね」
「ちなみに、三〇一号室にお住まいの方は?」
保坂さんは思い出そうとしているのか、静かに両目を閉じて唸った。
「たしか、若い男女が住んでいて……でもマンション経営を止めようか考えている間に、お子さんが生まれるとかで出ていかれましたよ。それきり、三〇一は空き家です」
「亡くなられた方はいますか?」
単刀直入に言うと、保坂さんは「うーん、まあ……」と言葉を濁しつ首肯した。
「正直にいうと、身寄りのないおばあさんがおひとりで亡くなられてたことはありましたよ。二〇二号室でした。まあ、年も年でしたからね。父が管理していた頃も、ご年配の方が住まわれていたので、人並みにそういったケースはあったと思います」
「最近、あのアパートには? 荷物を取りに行ったり、逆に置きに行ったりしていませんか?」
「いやあ、恥ずかしながら最近は全然で。住人も出ていったので、手放してしまったようなものなんですよ。本当はいけないんですけどねえ。相続するにも、また面倒でしょ。税金とかかかるし」
事前の電話口でも、彼はそういって大した話はできないと言っていたが想像以上になんのとっかかりもない。
そもそも彼は、ぼくが撮影したいと電話した時も「どうぞどうぞ」と二つ返事だったのだ。ぼくも最初から、良心的というより無関心というニュアンスを感じ取っていた。それでも建物が軋むだとか、人影を見たとか、そのくらいの話はあるだろうと思っていた。
しかし、まったくもって、ぼくたちが期待しているような不可思議な話は出てこない。曰く因縁なんて無いのだから仕方ないのかもしれないが。
ダメでもともと、ぼくは「例えば――」と誘導尋問を切り出した。
「あのアパートでの怖い体験談とかってありますでしょうか?」
これもまた長く唸り、逡巡し、保坂さんは一つ手を打つ。
「あります! とっておきの、ぞ~っとしたお話が」
その出だしに、中西がようやく視線を保坂さんに向けた。
「別の部屋の方が噂していたのを聞いただけなんですがね、さっき話した三〇一号室の奥さんのことで。ほんと、愛想が良くて器量よしで、みんなに可愛がられていたんですよ。おめでたで出ていくって決まってからはいっそう面倒を見たものです。引っ越したあとすぐにお手紙を寄越してくれまして。家族で仲良くやってるって。でもその差出人の住所がね……産婦人科とかじゃなくて、精神病院だったんですよ」
声を低くして話のオチを告げた保坂さん。
ぼくたちの間には、なんともいえぬ微妙な雰囲気が流れていた。
いわゆる、懇意にしていた隣人が狂人だった、人が怖いというタイプの話だ。
かいつまんでしまえば、優しそうな若い奥さんが実は精神を病んでいて、住人達が祝福したはずの子どもも存在せず、夫は彼女を病院に入れたのだ。
たしかに不気味であるが、求めているものとは異なっていた。
ぼくらの沈黙の意味が保坂さんにも伝わったのか、彼は麦茶でのどを潤おそうとコップを持ち上げ――その時を見計らったかのように中西が言った。
「
十五年前、自殺アパートの記事を書いた記者の名前だった。
いわば、ぼくらは彼の記事の焼き回しをしようとしているのだ。当時、田邊記者と保坂さんにかかわりがあっても不自然な話ではない。逆にコンタクトがなかったとしてもゴシップ記事側が勝手にやったことならそれもまた頷ける。
どちらの回答でもおかしくない質問をしてどうするのかと思ったが、保坂さんの反応は顕著だった。
「いいえ?」
はっきりと答えたものの、手にしたコップの中に残った麦茶の表面が目視してわかるほどに波打っている。
さらに誤魔化そうとコップを乱暴にテーブルに置くが、焦りの音が部屋中に響いた。
回答が「はい」でも「いいえ」でも疑問ではない。ゆえに嘘を吐く必要もない、はずだ。
しかし、保坂さんは明らかに動揺している。隠し事をしている。嘘をついている。後ろ暗いことがある。
そうとしか思えなかった。
「あんた、嘘ついてるな。もっかい聞くで。田邊、た・な・べ! 知っとるやろ」
暴力上司であり、都市伝説作りたいおじさんでもある中西だが、これまでの場数が培った勘がモノをいうのか、時折こうして関係者をたじろがせる。
ぼくは困惑しているふりをしつつ、中西の追求を野放しにした。
「なにぶん、十五年前のことですから……」
「言い方変えるわ。十五年前、雑誌記者に会わんかったか? あんたみたいな年金暮らしの爺さんが雑誌記者に会うなんて滅多にあるもんじゃなし、そんな珍体験あったら覚えとるやろ」
「すみません、このとおり年なものであまり覚えていなくて……」
「田邊はあんたのこと知っとるで。なんせ俺ら、田邊から詳しい話聞いとんのや。あんたの連絡先も田邊から聞いたんや」
保坂さんの住所はぼくが登記簿で調べたので、これは中西のカマかけだろう。
だが、保坂さんは愛想笑いを浮かべテーブルを見つめたまま機械的に答えた。
「わからないです」
「わからないことないやろ、あんた管理者なんやろ。こっち録画しとんのや。金になる話捻りだしてくれんと、ためにならんで」
「これ以上のことはわからないです」
「嘘つくなや! なんか隠しとんのやろ、おまえ!」
とうとう、ぎゅう……と皮を絞るような音がしたかと思うと、保坂さんは唐突に拳を振り上げテーブルに叩きつける。
テーブル上のものが跳ね上がるほどの衝撃と打撃音と共に声を張り上げた。
「知りません! さっきからそう言ってるじゃないですか! さっきから! あの人なんてね、わたしは知らない! 知らない!」
迫力に押されてぼくと中西は黙った。
あっけにとられた、というほうが正しいだろう。
見れば、保坂さんの目は一瞬にして血走って、歯の隙間からは唾液の泡がじゅくじゅくと溢ている。言っていることも矛盾していた。
顔面に張り付いているのは、怒りか恐怖。どちらともとれる表情だった。
「な、なんやイカレとんのか」
中西の言葉は率直すぎたが、ぼくも同様に思っていた。
しばらくシュウシュウと呼吸をすると、保坂さんは今度すすり泣くかのような声で「帰ってください」と唱えるだけだった。
まるで魂が抜けたかのような有様である。
こんな状態でヤラセ交渉ができるはずもなく、ぼくたちは渋々撤収することにした。
「なんや、あの嘘つきクソジジイ」
玄関口を出てすぐ、中西が言った。
さずがにぼくも保坂さんが本当になにも知らないのだと納得してはいない。
しかし、アパートへの探索をあれだけやすやすと許可しておいて、雑誌記者について口を割りたくないとはどういうことだろう。
もしかして、それが燈子の言っていた『非常にマズいこと』に繋がっていくのだろうか。
ぼくたちはいまだ何かの渦中にいるのではないか。
持ち込むにしては不自然な鏡。
美和の異変。
謎の訪問者。
ぼくではないぼく。
それらは、いたずらやストレス性の病気、勘違いで説明がつくが……。
「ま、そんなんはええねん」
中西の声で我にかえった。
そうだ、中西にとって虚偽も真実も関係ない。
彼は都市伝説を作りたい、科学での常識を引っ掻き回したいのだ。たとえ心霊現象でも歓迎する。
ぼくは寄生虫なのだから、中西様がやるというのならやるしかない。
「トンチキなジジイってシーンも使えんこともないやろからな。細かいとこは任せるわ」
考えてもみれば保坂さんにはなにか込み入った事情があるのだろう。訳ありアパートを運営しているくらいだ、彼自身も訳ありに違いない。昔のことを思い出したのかもしれない。思い出したくもないのかもしれない。だからあれほどまでに「知らない」と言うのならば、不自然な話でもない。
ぼくたちこそ日銭のために、保坂さんをトンチキジジイ、様々な事情を受け止めてきた思い出のアパートを心霊スポットとしてでっちあげるのだ。嘘を吐いたからといって、彼を責められるはずもない。
「吉瀬。蕎麦屋よってこか。こっから
今回の収録も荒れたが、中西は手ごたえを感じているのだろう。
こうなると捏造の手間が増えていることに加えて、いっそう神経質になった中西の蹴りがパワーアップすることにもなる。
ぼくは前金と思って素直に御馳走になることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます