第2章 出航用意

 空を飛び交う海鳥の声が心地よい。

 熱い日差しも日本のものとは違い、カラッと肌を照りつける。

 沖縄から遥か南に位置する風光明媚なこの島。その中心部から少し離れた処に、海が一望できる高台がある。

 遥か地平線を眺めるように立てられた石碑には、数名の日本人の名が刻まれていた。


「お父さん……なんで外国なのに日本人のお墓があるの?」


「これは慰霊碑って言うんだ。遠い昔に日本は、こんな南の島まで戦争で戦いに来ていたんだよ」


 水平線の彼方が太陽に照らされキラキラと反射するのを眩しそうに目を細め、父である男はそう答えた。


「学校で習ったよ……戦争はいけない事なんだよね」

 少年は少し得意げに語った。


「確かに、沢山の人を殺したかもしれない。でも、そうしなければ自分や大切な家族が同じように殺されてしまう。大事な故郷や友達、家族を守る為だったとしたら……きっと当時の人達は、沢山悩みながら一生懸命に戦ったんだよ」


 まだ幼い少年にもその言葉の意味は理解出来た。戦争はいけない事だと知りつつも自分の境遇に照らし合わせ父親の言葉を繰り返し反芻はんすうした。


 その少しの沈黙の後、父親は自分の中に何か沸々と湧き上がる想いからだろうか、一瞬歪ませた表情を掻き消すかの様に、少年の頭をクシャクシャっと撫でると大きく息を吸い呼吸を整えた。その微かな感情の揺れを鋭敏に感じ取った少年は、心配そうに夕陽に照らされる父の顔を見上げる。


 すると、遠くでふたりを呼ぶ声がした。


「二人ともーっ、そろそろ帰っておいで」

「あっ、お母さんだ」

 嬉しそうに振り返ると、少年は母親の元に走っていった。


 一瞬、ビュッと暖かくも強い風が丘の上を吹き抜ける。


「あの夏、貴方は何を失い……そして我々は、何を得たのか?」




 ドイツ軍のUボートの活躍により、潜水艦の有効性が立証され、各国は本格的な潜水艦隊運用に乗り出した。

 大日本帝國海軍においても例外ではないが、その中で数々の戦歴を遺し伝説とまで呼ばれた一隻の潜水艦がある。


 その名は、伊一四一型潜水艦。


 日本軍の慣例として、成績上位の者は戦艦に勤務するのが通例だが、少将という階級でありながら自らその潜水艦長を志願した男。


辻岡寛人つじおかひろと


 大阪出身のその男は屈託のない関西弁を使い、言動と行動と尻の軽さは軍内トップ。たまの休暇ともなれば街に繰り出し、女の尻を追い掛け回しては朝まで帰って来ない。

 陸軍に比べ多少自由な風潮のある帝國海軍であるとは言え、軍人あるまじき軽率な言動を嫌う司令部参謀は幾人かいるものの、その奇想天外な作戦と潜水艦運用術は折り紙付きで、戦歴優秀な彼に異論を唱える者は数少なかった。


 他の艦艇乗組員との酒の席でも、真っ先に歌い出すほどお祭り騒ぎが大好きで、決して偉ぶる事なく一兵卒と同じ立場になって朝まで酒を酌み交わし、分け隔てなく接するその姿は当然海軍内では異色であったが、それこそが彼の信望と自艦乗組員の結束を裏付ける一番の要因なのかも知れない。


 当然そんな彼の周りには、いつも沢山の人が集まり「人集めの辻岡」と揶揄される程であった。

 しかしそれを本人が意図して行なってるのか、はたまたそういった性分なのか不明ではあるが、軽率な言動による失敗が多い諸刃の剣を兼ね備えているのも、これまた悩ましいところである。


 彼をよく知る海軍士官学校の後輩である三宅一郎は、辻岡について聞かれると首を激しく横に振りながらいつもこう答える。


「そんな筈ありません……買いかぶりです。あの人は、只の目立ちたがり屋でしかありません」


 その三宅と辻岡は、本国横浜での作戦会議に出席した後、トラック諸島沖に停泊中の聯合艦隊まで三宅を秘匿帰還させる作戦の命を受け、伊一四一型潜水艦の針路を太平洋南方に向け進んでいた。



 辻岡が航海図を広げた机の隅で、何やら一生懸命にペンを走らせながら三宅に話し掛ける。


「しかし、一郎も出世したのぉ……アッちゅう間に俺と同じ少将やないか。しかも、帝國海軍を代表する戦艦武蔵の艦長様とはなぁ」


「そうですよ、辻岡艦長! 三三〇〇名を収容、なんと世界最大の四六センチ砲を搭載する、帝國海軍が誇る超弩級大和型二番艦、あの戦艦武蔵ですよ! 排水量は六万五〇〇〇トン、四六センチ砲以外にも火力は――」


 世界の戦艦マニアである日比野の知識量は半端ではなかった。

 少しうんざり気味の辻岡が、長くなるのを嫌って早めに制止した。


「もうえぇで、克平……それぐらいで」


「よく勉強しているね、日比野航海長」

 その武蔵の艦長である三宅に褒められて、上機嫌の日比野は更に饒舌さを増し話し始めた。


「はい、ありがとうございます。帝國海軍聯合艦隊の旗艦である大和、その姉妹艦武蔵の艦長様を本艦でお見送り出来るなど、大変光栄であります」


「そんな事はないよ、本来なら武蔵は辻岡先輩が適任なのですが……まぁ、日比野航海長も知っての通りの人だからね」


 三宅は物腰も柔らかく常に冷静なタイプで、感覚と直感で行動する自由奔放な辻岡とは正反対。時に良き後輩であり、良き理解者でもあった。


 先程から一生懸命に白紙の便箋に噛り付くものの、一向にペンの進まない辻岡の背後を敢えて気を散らす様に、三宅がゆっくりと行ったり来たりを繰り返す。


「謙遜するなや一郎、俺は潜水艦でちょこまか動くんが性に合っとる。武蔵みたいなんは堅苦しいわ、まぁそう言うこっちゃ」


『まぁそう言うこっちゃ……』


 なんでも都合良くまとめるその関西弁は、辻岡の口癖でもあった。


「唯一、単独の判断を許される潜水艦は、先輩にお似合いかもしれませんね」


 そう言って三宅は悪戯っぽい笑みを浮かべ、静かに首を伸ばして辻岡の机上を覗き込んだ。

 三宅の気配に気付いたのか、辻岡は急いでペンを置くと書いていた便箋を左腕で隠した。


「あれっ? 先輩、手紙なんか誰に書いてるんですか?」


「ちょっ……一郎! お前、人の手紙を覗き見するなんて! しょうも無いやっちゃな」


「申し訳ありません、つい……」

 少年のように悪戯っぽく口角を緩ませニヤつくその言葉に、全く謝意は感じられなかった。


 そんな仲の良い辻岡と三宅の一部始終を、微笑ましく眺めながら海図を引く日比野がクスッと笑い肩を揺らした。


「しかし、先輩が机に向かってかれこれ数十分になりますが、文頭の 〝ありがとう〟から一切進んでませんよ。〝〟って始まる手紙って……ご家族宛でありますか? 先輩のご家族は確か――」


「誰でもええやろっ! 一郎、ところでお前は……この戦争、何の為に戦ってるんや?」


 恥ずかしそうにそそくさと便箋を封筒に入れ直すと、わざと話題を変えるかのように少し真顔になった辻岡は訪ねた。


「何の為……?」

 三宅は、少し考えて答えた。


「勿論、祖国を護るためです」


「そうか、そやけどこの戦争、日本は負ける。我々が護るべきは、これからの未来の日本や。平和を尊ぶ人間の誇りは、銃や兵器で護れるものやない。これから大事なんはなぁ、我々日本人が日本人の誇りを持って生きて行く事や」


「はい、先輩」


 そんなふたりの会話を突然遮った元田通信長の緊迫した声が、操舵室の和やかな空気を搔き消し一変させる。

「艦長、機械音を探知しました」


「直ちに敵位置を割り出せ」

「はい」


 辻岡は元田の方を振り返り冷静に指示を出す。それと同時に、日比野は潜望鏡を上げ周囲の敵影を目を皿のようにして三六〇度見渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る