第1話 始まりの予感

 朝がきた。ベッドの横にある目覚ましの音が、けたたましく部屋に鳴り響く。


 今日は土曜日。僕が通う新川高校あらかわこうこうは、土曜日も午前中だけ授業がある。


 目を擦りながら自分の部屋を出た。隣の部屋のドアを開けて中を覗く。父さんと母さんの部屋だ。二人はもうとっくに仕事に行っていた。


 僕たちは、愛媛県松山市にある地方百貨店の日光屋にっこうや創業家系だ。松山市の地域三番店である。父さんが日光屋の会長兼CEO(最高経営責任者)、母さんが社長だ。日光屋は、江戸時代から続く地場の老舗百貨店である。


 多忙な二人は、毎朝早くに出勤している。起きるといつもいないのは、日常茶飯事だった。


 ダイニングルームに近づくと、朝ごはんの匂いがしてきた。ときさんが食事を作ってくれているのだろう。


 時さんはこの家の家政婦さんで、米山時絵よねやまときえという。僕にはおばあちゃんのような存在だ。僕は親しみを込めて時さんと呼んでいた。


「おはようコウ君」

 

「おはよう時さん!」


 ダイニングルームの中に入ると、時さんが笑顔で挨拶してくれた。


「今日は学校お昼まででしょ?」


 時さんが焼けた食パンをお皿に乗せている。


「そうよ」


 僕が椅子に座り、目玉焼きを食べながら言うと、時さんはニコッとした。


「お昼も作っておくから一緒に食べましょ」


「ありがとう!」


 あまり言えないが、時さんの料理は母さんのよりも美味しい。お昼も食べられると思ったら、ワクワクが止まらなかった。


        *


「行ってきまーす」


「行ってらっしゃい」


 朝食を食べて、身支度を済ませた後、僕は玄関を出た。時さんが洗い物の手を止めて、お見送りをしてくれた。


 季節は春。周りの空気もだんだん暖かくなり、新芽の匂いが漂う。セキュリティーのかかった鉄の門を開けて、外に出た。


 皮肉な事に、家の前にはライバル地域一番店の上松堂うえまつどう松山店がそびえ立っている。僕の家は、大通りの向かい側にあるのだ。最上階の観覧車は、まだ開店していないので止まっていた。


 横断歩道の向こう側から手を振ってくる人がいる。僕の親友の藤崎将太ふじさきしょうただ。将太とは毎朝一緒に登校している。信号が青になり、将太が渡ってきた。


「おっはよー広樹」


「おはよー将太」


 将太は相変わらずテンションが高い。朝から顔が生き生きとしている。


「昨日の宿題できた?」


「できたよ。将太はした?」


 将太がニヤッと笑った。


「俺は朝のホームルームまでに仕上げるけん大丈夫よ」


「それヤバイやん。結構多かったよ。大丈夫なん?」


「大丈夫大丈夫」


 将太はいつもこの調子だ。でも要領が良いから、さっさと終わらせることができるのだろう。僕はそんな将太が、少しだけ羨ましかった。


        *

 

 話しているうちに教室の前まできた。僕たちは同じクラスだ。


 教室に入り、自分の机の上に荷物を置いた。将太も自分の席に着き、宿題を広げている。


「小林君おはよう」


 宿題を一生懸命解き始めた将太をボーっと見ていると、池野さんがにこにこしながら僕の目の前に現れた。


「お、おはよう池野さん」


 僕はドキッとした。同じクラスの池野陽菜いけのひなだ。僕は最近彼女のことが気になってしょうがない。


「この前、小林君から借りた本面白かったよ! ありがとう!!」


 池野さんが目を輝かせながら、本を両手でさっと返してきた。


「それは良かった。池野さんに気に入ってもらえたらそりゃ……」


「えっ……?」


 池野さんが首を傾げながら、不思議そうに僕を見る。


「な、何でもないよ! 気に入ってもらえて良かったなって思って……」


 つい大きな声が出てしまい、僕は周りを見渡した。どこからか視線を感じる。すると視界に、将太が飛び込んできた。 


 将太がニヤッと笑って、ヒューヒューという素振りをしている。池野さんの目の前で、僕は顔が熱くなってしまった。


「おすすめの本あったらまた教えてね」


 池野さんは、にこっと笑って自分の席に帰っていった。僕と池野さんの席は残念ながら遠い。


「うん。また?……え? また!」


 僕はパーッと心が晴れて嬉しくなった。だが将太がまだ僕を見てくるので、平静を装った顔をした。


 将太の隣では、静かに本を読んでいた根暗でマザコンの影山信夫かげやまのぶおが、僕を睨みつけてくる。あいつは何故か僕に対して感じが悪い。僕はサッと視線をそらし、こちらからは目を合わせないようにした。

  

        * 

 

 チャイムが鳴った。ホームルームが始まり、担任の本村喜智子もとむらきちこが入ってきた。本村が入ってくると、僕の気分は一気に沈む。三十六歳の未婚で、最近特にイライラしているのだ。どのタイミングで怒り出すか予測不能だ。


「みなさんおはようございます! みんな、どう?」


 本村が笑った。時々機嫌が良いときもある。土曜日だから機嫌が良いのかもしれない。


「今日はお知らせが特にないから、みんな一限の古典の用意、しっかりしておいてね」  


 お知らせがないときは、いつもこの流れだ。僕は憂鬱な心持ちで、一限目の古典の教材をカバンから取り出した。


        *


 一限目以降の授業は、着々と終了していった。二限目に英語、三限目に現代文、四限目に数学。どの授業も長引いたため、休み時間はあまりなかったものの、意外と早く放課後になった。


 僕は荷物を持って、すぐに将太の机に向かった。将太が自慢げにガッツポーズをしている。


「俺、今日も朝の内に宿題終わった」


「え? 本当? それは凄いね!」


「どうだ。凄いだろう?」


 将太が誇らし気な顔で僕に言った。今日も朝の内に宿題を終わらせたようだ。あれだけの量を解くなんて驚きだ。


 その時、僕はお腹が空いたせいか、反射的に教室の時計を見た。時計は十二時半を差している。


「じゃあそろそろ僕は帰るね」


「おう。俺は飯食って部活行ってくる」


 将太は陸上部に所属している。土曜日も部活があるなんて凄いなと、帰宅部の僕はいつも思っていた。


「頑張って。じゃあね」


「おう。じゃあな! 帰宅部の広樹!」


「その呼び方止めろ」


 僕は将太に手を振った。将太も椅子に座ったまま、笑いながら手を振ってくる。僕は教室を出て、そのまま階段の方へ向かった。


 将太の冗談は何故か親しみが湧く。きっと根は優しく、憎めないからなのだろう。そしてそれが、人気者の秘訣なのだと僕は思っていた。


 それより、時さんの昼ご飯が食べられる。僕はもう半分の階段を降り、急いで靴箱へと向かった。


        *


「コウ君お帰り!」


「ただいま時さん!」


 家に帰ると、中からミートスパゲッティの匂いがした。玄関に荷物を置いたまま、ダイニングルームへ向かう。


「いただきます!」


「召し上がれ!」


 テーブルの上には、すでに料理が並べられていた。ミートスパゲッティとサラダが置かれている。時さんの料理はアットホームな味で、美味しくない料理は一つもない。


「今日は学校どうだった?」


 時さんが、くるくるとスパゲッティを巻きながら聞いてきた。


「いつも通りやったよ。でも今日は、時間の流れが早く感じた」


「授業集中していたら、時間って結構早く経つものね」


「今日の授業は集中して聞いたよ。眠くならんかった」


「偉いわ。その調子よ」


 スパゲッティを口に入れた。ミートソースの味付けが最高だ。甘いような、少し酸っぱいような香りが口の中に広がる。


「おいしい!」


「良かったわ。ミートソースがちょっと自信なかったの」


 時さんが安心したように言った。自信がなくても美味しいのだから、自信のある料理はさらに美味しい。時さんは料理のプロだ。


「あ、そうそう。今日もお父さんとお母さん遅いみたいよ」


 父さんと母さんは今日も遅いようだ。僕はこの前、父さんに言ったことを時さんに言ってみようと思った。


「僕はもう、日光屋はデパートなんて辞めてしまえばいいと思うんやけど、時さんはどう思う?」


 日光屋は苦境が続いている。実際父さんにこれを言ったら怒られてしまった。「昔からの百貨店の伝統を壊すのか」と。


 しかし現在、郊外のショッピングモールのオープンや、ネット通販などが幅を利かせており、百貨店は押される一方だ。特に構造改革に出遅れる地方百貨店は、閉店、倒産に追い込まれる。


 時さんが、飲んでいたグラスをゆっくりと置く。そしてそのまま、僕の方を見た。


「そうね。確かに今は不景気よ。時代の流れというのもあるし……。百貨店を残しつつ、それを補う何かを始めないといけないと私は思うね。でもお父さん、結構頑固だからね」


 時さんが最後、小さい声で苦笑いしながら言った。


 とにかく、どうにかしないと僕たち一家は路頭に迷うかもしれない。解決策はいくつかある。だがそのほとんどは、過去のやり方やプライドを捨てなければならないものだろう。僕は内心そう思っていた。


        *


「ごちそうさまでした。美味しかったよ!」


 三十分が経った頃、僕は今日も残さず完食した。とても美味しいため、体調が悪いとき以外時さんの料理を残したことがない。


「嬉しい! 今日も綺麗に食べてくれたね!」


「本当に美味しかったよ! また食べたい!」


「ありがとう。また作るわね」

 

 時さんが嬉しそうにしている。喜んでくれて良かった。時さんの姿を見て、僕も自然と笑みがこぼれた。


 それから僕は、ダイニングルームを出て、玄関の方へ向かった。置いたままの荷物を持ち、二階へ上がる。


 階段を上り終え、自分の部屋の扉を開けた。そして中に入って荷物を置き、そのままベッドに倒れ込む。今日は早起きだったため、少し疲れてしまった。


 体の力を抜き、目を瞑る。そしてそのまま、僕は深い眠りへと落ちていった。

 

        * 


 目を覚ましたのは、夕方の五時だった。思ったより疲れていたのか、深く眠っていたようだ。


 外から雨の音が聞こえてくる。日暮れが重なって、部屋の中は薄暗くなっていた。


 僕はベッドから降りて、自分の部屋を出た。二階の洗面所で軽く顔を洗い、下へ降りる。


「あら。コウ君起きたの?」


「寝すぎたよー」


 僕は大きく伸びをした。どうやら時さんは、帰る用意をしているみたいだ。


「私もう帰らないといけないけど、コウ君一人でお留守番大丈夫? 雨も結構降ってるけど」


「大丈夫よ。もう高校生やけん」


 時さんは、何歳になっても僕のことを心配してくれる。


「大丈夫ね。じゃあ何かあったら連絡してね。今夜はとんかつ作ってあるから、なるべく冷めないうちに食べてね」


「ありがとう。時さん」


 時さんがエプロンを外した。そして後ろにくくったお団子を直しながら、外に出て帰っていった。


 外の雨が、先ほどより少し強くなっている。雷も光り始めた。春の嵐だろうか?


 少し早いが、冷めないうちに時さんのとんかつを食べてしまおうと思った。ラップに包まれたとんかつは、まだ温かかった。


 お茶碗を出してをつぎ、インスタントの味噌汁にお湯を注ぐ。時さんが作るとんかつも絶品なのだ。作り置きしていても、いつも新鮮さが残っている。


 僕はラップを丁寧に外し、手を合わせた。


        *

 

 時さんの絶品とんかつを全て食べ終わった頃、急に甘いデザートが食べたくなった。疲れた時に、糖分が欲しくなることがある。冷蔵庫の中を探っても何も見つからない。 


 雨は先程より弱まっているような気がする。僕は、家の前の上松堂のデパ地下に何か買いに行こうと思った。本当は日光屋の方に行きたいが、歩いて三十分のところにあるから遠すぎる。


 傘をさして外に出た。家の鍵を閉めて、扉の隣にある門のセキュリティーをオンにする。セキュリティーをしっかりしておかないと、街のど真ん中にある広い一軒家だから、誰が入ってくるか分からない。


 門をくぐり歩道に出ると、ちょうど信号が青になっているのが見えた。左右を見て、車が来ていないか確認してから渡る。


 雨がアスファルトを優しく濡らす。地面に当たった時に弾ける様子は、華麗なるおはじきのようだ。


 そんな幻想的な光景を見ながら走っていると、すぐに上松堂の正面入り口まできた。傘をたたみ、小走りで中へ入る。


「いらっしゃいませ」


 入ってすぐのインフォメーションカウンターにいる受付嬢が、笑顔で僕に頭を下げる。僕も軽くお辞儀をした。


 最大手系列の大円だいえん百貨店のような、重圧な高級感はない。だからと言って単調でもない。館内にはいつも華やかさが漂っている。それが僕の感じる上松堂の雰囲気だ。


 そして上松堂の隣には、松山市駅がある。その影響で、閉店一時間前にもかかわらず、仕事帰りの人達で賑わっていた。


 インターナショナルブティックの売り場前を横切り、下りエスカレーターで地下の食品館へ向かう。一階のフロアが見えなくなり、代わりに地下の売り場が見え始めた。


 地下もかなり賑わっている。だがやはり、その大半は仕事帰りの人たちだ。今日の夕飯のおかずでも、買い求めに来ているのだろうか?


 エスカレーターを降りると、右側に向かって歩いていった。多くの人を交わし、やっとケーキ屋の前にたどり着いた。


 美味しそうなケーキがたくさん並んでいる。どれにしようか迷っていると、目の前に突然誰かの顔がひょこっと現れた。将太だった。僕は驚いた。


「将太! 何しよん?」


「よっす! 部活の友達の家行ったついでにうろうろしよったんよ。日光屋のお坊ちゃまこそ、ライバルの上松堂で何しよんぞ?」


 相変わらず元気の良い声だ。部活のユニフォームに、大きくて重そうなリュックを背負っている。


「そうやったんや。僕はさっき家で夜のごはん食べて、甘い物食べたくなったけん買いに来とんよ。ほら、ここ家の目の前やろ」


 目の前のケーキに自然と視線が向いてしまう。今すぐにでも食べたい。


「なるほど。日光屋をついに裏切っちゃったと」


 将太が冗談っぽく僕に言う。


「違うよ。違うって。家が目の前やけん」


「分かった分かった。今日は俺がジュースを特別に奢るよ。ジュースも甘い物やけんいいやろう?」


「本当!?」


 棚ぼただ。今日は何だかついている。池野さんとも話せたし、時さんの美味しい料理も朝昼夜食べられた。そして将太に何かを奢ってもらうのは久しぶりだ。


        *

 

 それから僕たちは、ケーキ売り場から少し離れた所にあるジュース屋のカウンターに座った。将太が果汁百パーセントのバナナジュースを注文し、僕は百パーセントの温州みかんジュースを注文した。


「ありがとう将太。今日は何かついとる」


 みかんジュースを口にした。百パーセントであるため、濃厚でとっても味が深い。


「池野さんとも話せたし良かったやん。早く告白せんと池野さん取られるんちゃうん?」


 将太が僕を焦らせてきた。池野さんは、可愛いから誰かに取られる可能性もゼロではない。


「将太はいいよな。女子からモテて」


 僕は勉強もスポーツも普通で、顔は童顔である。女子と付き合ったことなんて一度もない。


 一方で将太は、顔がいいし運動神経も良いから女子からモテる。少し前まで、吉永よしなが佳代かよという手話部の女子と付き合っていた。別れた理由は、将太の部活が忙しすぎるからだと以前言っていた。


「お前もアピールしたら十分モテるよ。池野さんにもっとアプローチしたら?」


「まあ。今度学園祭あるし。その時にでも近づいてみるか」


 僕はあまり女子に慣れていない。気になる女子と話すと、しどろもどろになる。だから僕は適当に言った。池野さんを取られないか不安だが、それよりも池野さんに上手く近づける自信がない。


「それよりお前ん家のデパートどうなん?」


 将太が話題を変えてきた。


「やばいよ。父さん何も変える気ないみたい。やけん十年後にはなくなってそう」


「やばくなったら俺んち来いよ。俺が面倒見てやる」


 将太が手をグッとして誇らしそうに言った。僕は思わずジュースを吹きそうになった。


「お前母さんかよ」


 まるで将太が母さんみたいだ。可笑しく感じた僕は、ジュースを手に持ったまま大笑いした。

        

        *


 ジュースを飲み終わった後、僕たちは上松堂を出た。外ではいつの間にか、滝のような雨が降っている。


「俺向こうやけんじゃーな」


 将太が傘をさしながら僕に手を振った。


「ありがとう。ジュース美味かったよ」


 僕も将太に手を振る。それから傘を差し、将太とは反対方向へ歩き始めた。


 前の信号がちょうど青になっている。だがもうすぐで、点滅し始めそうだ。僕は歩幅を速め、急いで横断歩道を渡った。


 するとその時、空が一瞬だけ明るくなった。雷だ。どうやら本格的に光り始めたようだ。それを見た僕は、早く家の中に入りたくなった。


 家の門のセキュリティーを解除する。そして小走りで中へ入り、玄関へと向かった。


 次にポケットに手を突っ込み、家の鍵を取り出した。そしてそのまま、急いで解錠して玄関の扉を開ける。


 中は真っ暗だった。もちろん父さんと母さんは、まだ帰っていない。僕は手すりに傘をかけ、靴を脱いで階段へと向かった。

 

 雨の音が、先ほどよりも激しくなり始めた。僕は転ばないようにしながら、駆け足で階段を上った。

 

 自分の部屋に入り、電気を点けたその時、外からドカーンという音がした。雷が近くで落ちたようだ。部屋の電気がバチッと消えて、また点いた。


 さらに追い討ちをかけるように、また近くで大きな雷が落ちた。さすがに怖い。何か嫌な予感がする。気のせいだろうか?


 僕はその直感を無視して、自分の部屋のカーテンをピシャリと閉めた。

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