第25話 計画始動

 翌朝も、前日と同じく美しく爽やかな青空が広がっていた。とはいえ、昨日のように遊び気分でいることはもうできない。この空の下には、リアーヌを狙う者たちも息を潜めて隠れているのだ。大公一族の館に泊まったリアーヌたちとは違って、夏とはいえ冷える夏の夜に凍えながら、その過酷な境遇があるからこそ、悪意や敵意を研いでいるかもしれないのだ。


「疲れは取れましたか……?」


 フェリクスをはじめとする護衛や従者たちが、馬の準備に行き来するのを横に、身支度を整えたアロイスが少し心配そうな面持ちでリアーヌに尋ねた。野外で行動するのに備えて、崩れにくい髪形と、丈夫で暖かい生地の衣装を選んでいるのは昨日と同じ。けれど今日は、さらに短剣を隠し持っているのが違うところだ。着付けの際に衣装の裏地に縫い付けてもらった冷たく怖い金属の存在を意識しながら、リアーヌは小さな声で答える。


「はい。あの、身体は……少し怠いのですけれど。でも、大丈夫です」


 彼女の疲れの原因は、要するに昨日の昼間ではなくのことなのだ。そんなことを打ち明けるのも恥ずかしくて、自然、リアーヌの頬は赤く染まり顔は俯いて地面を向く。アロイスに晒されることになった旋毛つむじに、はにかんだように微笑む気配が降ってくる。彼も、リアーヌと同じ思いを味わってくれているのだろうか。


「それならば安心ですね。──動き出したら、迂闊な言動はできないので、今言っておきます」


 そして──彼は不意にリアーヌを強く抱き締めた。周囲に人がいるのを忘れたかのような行動に、彼女の体温は一層上がる。でも、振りほどこうなどとは思えない。鋭く、けれど不安に震える声で、アロイスに囁かれてしまっては。


「必ずお守りします。くれぐれも取り決めた通りに、無茶はなさらないでください。が何を言っても、耳を傾けてはなりません」

「はい。信じておりますから、絶対に助け出してくださいませ」


 アロイスが言うのは、彼女を狙う者たちの狙いや言い分が何であれ、リアーヌが気にしてはならない、ということだ。たとえかつての夫の縁者に恨み辛みをぶつけられたとしても、復讐させてあげよう、などと考えてはならないのだ。


(アロイス様は、私を求めてくださる……愛してくださる……)


 だから、誰になんと言われようとも耳を傾けたりはしない。自分に改めて言い聞かせて、リアーヌもアロイスの背に腕を回し、力を込めた。


「──さあ、参りましょう。笑って……まるで、ただの遊びに出かけるかのように。そのように、油断させないといけませんもの」


 笑顔を浮かべるのは、アロイスを安心させるためと自らを鼓舞するための両方だった。今日の狩りの獲物は、鳥や獣ではない。リアーヌを狙う何者かの正体を暴き、その陰謀を潰えさせなければならないのだ。




 騎乗した一行が館を出て、森の中に踏み入ったところで、フェリクスがリアーヌの馬にくつわを寄せた。


の巣は、見つけておりますよ」


 それは、計画通りに兵の配置が済んだ、という符丁だった。これから向かうのは、山と森の狭間に拓けた草地。身分高い者がそこで待機する間に、勢子せこや犬を使って鹿や猪を追い立てるのが狩りの倣いというものだけど、今日の勢子は近隣の村々から集めた農民や猟師ではない。フェリクスの麾下きかの兵たちが、そのように扮装しているのだ。


「そうですか。楽しみですわね」


 手綱を握る手に汗が滲むのを感じながら、リアーヌは微笑んで頷いた。あるいは、そう見えるように努めた。フェリクスとのやり取りが聞こえる距離に敵が潜んでいる可能性はさすがに低いだろうけれど、遠目で見ているかもしれないに、公妃は無邪気に狩りを楽しんでいると信じさせなければならなかった。兵の配置は──少なくとも一部は──事前にに伝えているから、きっとこちらの布陣の隙間を縫うように、水が堤防のひび割れに染み込むように、はこの美しい森に魔手を伸ばしているに違いないのだ。

 リアーヌは、蜘蛛の巣に飛び込む蝶のようなものだ。フェリクスのによって、彼女はいったん敵の手に落ちなければならない。シェルファレーズの公妃を誘拐しようとしたという、言い逃れのできない状況が必要だからだ。


「奴らに教えた逃げ道は、先回りが可能なものです。すぐに取り戻して差し上げますから──」

「逃げることさえ許さないつもりです。その場で捕らえれば、怖い思いをされるのも一瞬で済むでしょう」


 硬く、緊張した声で。それでもリアーヌに請け負おうとしてくれたフェリクスを遮って、アロイスが強い口調で宣言した。まるで、作戦会議とはいえ弟が妻と顔を寄せて話しているのが耐えられない、とでも言いたげな勢いだった。穏やかな夫に似合わぬ激しさ──というか心の狭さがおかしくて、リアーヌはつい声を立てて笑ってしまう。


「はい。アロイス様もフェリクス様も、信じております。どうかすぐに、助けてくださいませね」


 アロイスが本気で言ったのか、リアーヌの緊張を和らげようとしてくれたのかは分からない。でも、どちらにしても嬉しく心強いことには変わりないから、作戦決行の場に向かう間、リアーヌは怯えて気力を消耗せずにいることができた。


 一行が目的の場所に到着すると、リアーヌは馬から降りた。乗馬用のドレスは、馬上でも足を晒さずに済むように丈を長めに取ってある。だから、地上だと裾を摘ままないと、たっぷりとした生地に足を取られてまともに歩くことも難しい。不自由な姿は不安ではあるけれど──だからこそ、も油断してくれるだろうと思いたかった。

 リアーヌと同じく下馬したフェリクスが、長い裾によろめく兄嫁に手を差し出してくれた。硬い表情をしているのは、リアーヌに触れる気遣いのためだけではない。もう、は始まっているのだ。


「リアーヌ様、こちらです」

「はい、フェリクス様。──アロイス様、行って参ります」


 狐の巣穴、はに対する説明でもあった。フェリクスは、可愛い仔狐を見つけたからと、リアーヌを兄から引き離すのだ。親狐を警戒させないように、ひとりだけに特別に見せて差し上げるからと、言葉巧みに言い包めて。新妻を溺愛するアロイスだって、実の弟の裏切りまでは予想しないから、妻から目を離してしまう。護衛はひとりで十分だという、フェリクスの言葉を信じてしまう。そんな筋書きを、あらかじめ伝えてあるのだ。


「リアーヌ姫、どうぞお気を付けて」


 だから、アロイスは笑って送り出さなくてはいけないのだろうに。フェリクスの手を取ったリアーヌに口づけるアロイスは、ひどく強張った、青褪めた顔をしていた。また抱き締められそうな気配を感じて、リアーヌは必死に応えたくなる衝動を押し殺さなければならなかった。に警戒心を持たせてしまうような行動は、慎まなければならないというのに。


「嫌ですわ、アロイス様。私は仔狐を見に行くだけですのに」


 背伸びしてアロイスの頬に口づけながらわざとらしく大声で言うのは、オレリアやアデルにも聞こえるように、だった。彼女たちも、今回の計画には驚き心配して、思いとどまるように何度もリアーヌを説得しようとしてくれた。この期に及んでも、リアーヌが怯えた様子を見せてしまったら、止めて良いのだと言ってくれるだろう。だから、リアーヌだけでも微笑んでいなければならなかった。




 アロイスたちに手を振って別れて、リアーヌはフェリクスと森の木々の間を進む。ドレスと女ものの靴でも辿れそうな道を、彼があらかじめ見繕っておいてくれる。


「少し、下りになります」

「はい。……水の音が、聞こえてきましたね」

「『公妃は沢で足を滑らせたことにする。大公が水辺の捜索に気を取られている間に悠々と逃げれば良い』……」


 フェリクスが低く呟いたのは、に送った手紙の内容だった。その文面は、リアーヌも実際に目にして知っている。の場所が、いよいよ近づいているということだ。リアーヌを引き渡した後、の姿が森の中に完全に消えてから──十分に間を置いてから、フェリクスは慌てた演技で兄に報告するのだと、手紙は続いていた。もちろん、建前としてそう伝えたというだけで、フェリクスが配した兵たちは間近にいて見張っている。が逃げる方向さえも分かっているのだから、蜘蛛の巣のような罠にかかるのは実際はの方だ。


「本当は狐の子供がいないなんて、残念ですわ」

「実のところ、仔狐が見られるのは春先までなのですよ。来年の楽しみになさると良い」

「ええ……!」


 緊張を紛らわせるための呟きに、意外にも真摯な慰めが返ってきたので、リアーヌは強く頷いた。同時に、木々が拓けて水の香りが鼻に届く。せせらぎの音が一層はっきりと聞こえるようになって、水面が反射する陽の光がリアーヌの目を射る。それに──人里離れた山奥のはずが、幾つかの人馬の影が、ふたりを待ち受けていた。


「フェリクス様──」

「『悪く思わないでいただきたい、公妃殿下。貴女の居場所はシェルファレーズにはない。この者たちについて行かれるのが良いだろう』」


 怯え戸惑うをするリアーヌに、フェリクスは棒読みの台詞で応えながら、彼女をの方へ押しやった。ドレスの裾に足を絡ませてよろけるリアーヌを、素早く進み出て支える者がいる。


「リアーヌ姫! どれほどこの時を待ったことか! このような山奥に閉じ込められてなんと気の毒な──我が花嫁、ようやくお迎えすることができた……!」

「貴方は……!」


 夫以外の声を間近に聞いて、夫以外の腕に抱き留められて、リアーヌの肌が粟立つ。しかも、彼女の名を呼んだその男の声は、聞き覚えがあるものだった。そうだろうと予想したのが当たったのだから、喜んでも良いのかもしれないけれど。でも、不躾に触れられて訳の分からないことを言われた怒りと混乱のために、リアーヌは絶句してしまう。

 全身を強張らせたリアーヌに、彼は──ルメルシエの貴公子、ベルトラン公爵ロランは、端正な顔に笑みを浮かべた。優しげな声も表情も、リアーヌにはひたすら嫌悪を催させるだけなのが不思議なほどだ。革の手袋を嵌めた指先が、彼女の唇に触れて黙らせるのも同じく、だった。


「ああ、呼んでくださるのは後にしてくださいますように。私の名を知られたら、を手に掛けなければならなくなる」


 ロランの言葉を契機にして、待ち受けていた男たちが一斉に剣を抜いた。その切っ先は、真っ直ぐにフェリクスを狙っていた。

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