第15話 家族のような

 寝室の扉がようやく開けられたのは、日がとうに落ちて窓からは月と星の光が注ぐ頃になってからだった。心行くまでアロイスと抱き合った後、疲れ果ててまどろんだと思ったら、思いのほかに時間が経ってしまっていたようだ。


(昼のうちから……こと……)


 アロイスにたっぷりとことを思い出して、リアーヌは寝台の上で縮こまる。陽の光を浴びながら、隠すことも許されずに|姿を見られ、声を聞かれてしまった。恥ずかしくて消え入りそうな思いだったけれど、妻が生きていることを確かめたいから、と懇願されてはリアーヌに断ることはできなかった。それに──彼女としても、とても幸せでとても嬉しかった。今までの閨では、アロイスの顔を正面から見ることを自身に禁じていたから。夫に甘えて良いのだと、むしろそうして欲しいと囁かれて、抗うことはできなかった。


「こんな時間になってすまない。何か食事を用意してもらえるか……?」


 寝台の外から、アロイスの声が聞こえてくる。ドレスを脱がされてしまったリアーヌは、ひとりでは再び着付けることはできない。だから、扉を開けたのは一応は肌着を身に着けたアロイスだった。しとねを身体に巻き付けて寝台で待つリアーヌの耳に、外で待ち構えていたらしい侍女たちの高い声と慌ただしい足音が届く。


「リアーヌ様……っ」

「オレリア……あの、本当にごめんなさい」


 寝台を揺らすような勢いで真っ先に枕元にやって来たのは乳母のオレリアだった。


「ええ、本当に! どれだけ心配したとお思いですか!? ずっと何も召し上がらないで……! なんの相談も、してくださらなかったなんて!」


 オレリアの胸はふかふかとして、懐かしい温もりだった。思えば、リアーヌが乳母に抱き着いて泣いたのはずっと前、最初の夫を亡くした頃が最後ではなかっただろうか。その後は、《黒の姫君》が悲しみに浸って良いものかどうか自信がなかった──夫に死をもたらしたのは彼女自身ではないかと失って、他者に縋る甘えを、自分に許す気になれなかったから。昼間の騒ぎでは、オレリアは驚く以上に傷ついたに違いない。乳を与えて育てた娘が目の前で死ぬかもしれなかったなんて。


「そう……アロイス様に叱られていたの。ええと、とても心配をかけることだと分かったのよ。ひどいことをしてしまって……ごめんなさい」


 リアーヌが苦しめたのは、アロイスだけではなかったのだ。オレリアの目に涙が浮かんでいるのを見て、自身の愚かさを改めて知って、リアーヌの唇から心からの謝罪の言葉が零れ落ちる。彼女の方からも手を伸ばして乳母をぎゅっと抱き締めると、オレリアは大きく音を立てて鼻を啜った。


「悪い噂を、リアーヌ様の前では聞かせないようにしていたつもりだったのですよ。すべてご存じで……しかも、あんな誤解をなさっていたなんて!」

「ええ、きっと、ちゃんと聞いていれば良かったのかしら。毒なんかじゃないって、オレリアにも分かったのかしら……?」

「何よりもまず、父君様はそのようなことはなさいませんとも!」


 オレリアが断言するほどには、リアーヌは父のことをまだ信じ切ることはできない。乳母にとっては主君なのだから、その意図を疑うことなど思いもよらないのではないかと穿った目で見てしまう。でも、実際には誤解していたのはリアーヌの方だった。何をしでかしたかは言わずとも、父ともちゃんと話をしなければならないのだろう。

 疲れた頭でリアーヌがぼんやりと考えていると、オレリアは女主人の身体を見下ろし──眉を顰めながら頬を染めた。リアーヌの乱れた髪や一糸まとわぬ肢体、それに寝台の隅でしわくちゃになった衣装を見て、アロイスのがどのようなものであったか悟ったらしい。


「お食事──よりも先に湯浴みと着替えですわね。湯を沸かしますから、少しだけお待ちくださいませ」

「え、ええ。お願いね」


 褥をマントのように掻き合わせて、リアーヌは首元までを隠した。これまでも、アロイスと過ごした後に身体を清めて着替えさせてくれたのはオレリアではあったのだけど、昼間からあんなに長い間寝室に篭っていた後だから、恥じらう思いは一層強い。枕元に立つアロイスをちらりと見上げてみると、彼も照れたように表情を浮かべていた。


「申し訳ありませんでした。その……一日、何もできなくなってしまって」


 召使を采配するためにだろう、来た時と同じく慌ただしくオレリアが寝室を出ていくと、アロイスはリアーヌの裸の肩に掌を置いた。着替えや飲み物を運ぶ侍女たちは行き来しているから、先ほどまでのように思い切り抱き締めてはくれないけれど。でも、掌が触れる一点からだけでも、リアーヌの心を温めるに十分な熱が伝わってくる。


「何も、ではありませんでしょう……? とても、大事なことだったと思います」


 アロイスへの誤解も解けたし、リアーヌのしでかしたことについて、何が最大の罪だったのかも思い知った。その上で、彼は共にいることを望んでくれた。亡くなってしまった夫たちとは結べなかった絆を、人生を共にする伴侶を、今度こそ得られるのかもしれないと思えた。


「そう、でしょうか」

「ええ、そうです」


 アロイスは巧みに立ち位置を移動すると、リアーヌを彼自身の影に隠した。使用人たちの目を盗むような口づけは、かすめるようなほんの一瞬だけのもの。でも、この上なく甘くリアーヌを酔わせた。


 綺麗な格好に着替えた後は、ふたりで簡単な食事を取った。朝食を取ったきり、茶会の席での菓子さえ口にしていなかったからだろう、温かいパンとスープは空の胃に染み渡るようだった。いかにして毒を呑むかに意識を集中していたから、ここ数日のリアーヌはものを味わう余裕もなかったのだ。

 心身共に満たされると、もう眠る時間になっていた。さすがにもう寄り添うだけで、はしなかったけれど。でも、アロイスはずっとリアーヌの手を握っていてくれた。だからリアーヌは夢を見ることもなく、ひたすら幸せな眠りに揺蕩たゆたった。




 リアーヌが謝るべき相手は、アロイスやオレリアだけではなかった。

 誰も予想しない形で打ち切られた茶会の翌日、リアーヌは改めてアデルを私室に招いた。侍女としてなどではなく、大公妃がシェルファレーズの名家の令嬢に相対するのだ。当然のように、夫であるアロイスも共に客人を迎えてくれる。でも、彼が隣にいてもなお、アデルの目を真っ直ぐに見るのに、リアーヌはありったけの勇気を振り絞らなければならなかった。取り急ぎ、事情を説明する手紙を朝早くにしたためて送ってあるけれど──もちろん、それだけで済ませる訳にはいかないのだ。


「アデル様……本当に、申し訳ございませんでした。なんて失礼な誤解を……それに、昨日もさぞ驚かれて怖い思いをなさったことと思いますのに」


 リアーヌのでは、生きてアデルに頭を下げることなど想定はしていなかった。では、アデルに対しても十分に紙幅を割いて謝罪と説明の言葉を並べたつもりだったけれど、でも、そんなもので足りるはずはなかったのだ。勝手な思い違いで人がひとり目の前で死ぬのを見せられてしまったとしたら、アデルにとってどれほど深い心の傷になっていたことだろう。そもそも、恋敵がいなくなるのを喜ぶだろうなんて、この方の心根を見誤るにもほどがある考えだった。それだけ思い詰めていた、などと言っても言い訳にしかならないだろう。青褪めていたアデルの顔が、リアーヌをひと目見るなりぱっと日が射したように輝いたことからも、分かる。アロイスと同じく、この方も優しい方なのだ。


「いいえ! そのように思われていたのでしたら、私のことはさぞ疎ましく思われたでしょう。辛い思いをさせてしまったのは、私の方ですわ」


 アデルは、用意された茶菓に見向きもせずにリアーヌに駆け寄ると、彼女の手を取った。リアーヌが生きた、体温も実体もある人間なのだと確かめようとでもいうかのように。リアーヌが呑み干したのが毒ではないと看破したアデルだけど、それでも昨日のアロイスの剣幕は不安を覚えるのに十分なものだったはず。彼女は、ひと晩中どのような思いで城を見上げていたのだろう。そう思うと居た堪れなくて、リアーヌはアデルの手を強く握り返した。


「いいえ、私こそ……!」

「いいえ、そんな──」


 握り合った手を挟んで、女ふたりがいつまでも言い合いを続けそうになったところで、アロイスが軽く咳払いした。早く席に着くよう促されたのを悟って、リアーヌとアデルは少々気まずく気恥ずかしく微笑み合うと、大公の命令に従った。


 今度こそ蜂蜜のほかには何も入っていない茶の香りが漂う中で、リアーヌは改めてアデルの方へ身を乗り出した。


「あの……アデル様は、本当に……?」


 アロイスの思いは、昨日確かめた。アデルを愛している訳ではない、と。でも、彼女の方でも同じなのか、確かめずにはいられなかった。アロイスもいる場で、公妃であるリアーヌの前で本心を明かしてくれるとは限らないから、安心できる答えを聞きたいだけの浅ましい問いかけかもしれないけれど。でも──リアーヌの後ろめたさを吹き払うように、アデルは晴れやかに笑って首を振った。


「シェルファレーズの臣下として、大公への忠誠は抱いておりますわ。幼い頃から見知った間柄でもありますし……でも、それだけです。リアーヌ様がどうしてそのようなことを思われたのか、手紙を拝読した時は不思議に思ったくらいですわ」

「それは……あの、私が、フェリクス様のお言葉を誤解してしまったのです。アデル様は公妃になるはずの方だったと教えていただいたのですが──」


 そこは、文章で説明すると自身の咎をフェリクスに押し付けてしまっているようで濁したところだった。彼が嘘を吐いた訳ではないのはアロイスも保証している。非があるのは、誰に確かめることもせず勝手に決めつけたリアーヌに、だけだ。でも、リアーヌの補足を聞いたアデルははっきりと顔を顰めて非難の意を表した。


「まあ。リアーヌ様がお心穏やかでいられるはずもございませんのに、ひどいことを言ったものですわね」

「大公としても兄としても、至らなかったと思っている。アデル、貴女にはもちろんのこと、リアーヌ姫にも改めて心からお詫びを申し上げねば」

「え……?」


 アデルの反応も、それにアロイスが唱和したのも意外で、リアーヌは目を見開いた。彼女が口元を覆う間も、アデルは口を休めることなく主君であるはずの大公を舌鋒鋭く責め立てている。


「そうなさい。そもそも貴方は、フェリクスの言葉を真に受けてリアーヌ様を疑っていたのでしょう。お若い方が異国に嫁いでいらっしゃるのだもの、心細いはずに違いないと言っていたのに……!」

「言い訳の余地がない。姫の前での目に余る言動は、叱っていたつもりだったが」

「私もよ。でも、足りなかったようね。──フェリクスへの処罰はくれぐれも加減をなさらないでね。リアーヌ様は、貴方を許してしまうくらいに優しい方のようだから」

「あの……」


 アロイスに対するアデルの遠慮のなさに、リアーヌは驚かずにはいられない。でも、ふたりのやり取り、そこに滲む親しさは彼女がしていたとは少々方向性が違うようだ。恋人同士では明らかになく、きょうだいのような、と言った方が近いのではないかと思う。


(少し、羨ましいかしら……)


 一朝一夕では築くことのできない距離感だと思うと、胸が苦しくなるのは止められない。でも、甘さが一切ない関係なのも分かったから、嫉妬を覚えることもない──それはつまり後ろめたさも感じなくて良いということだと、リアーヌはやっと得心することができた。そして同時に、彼女が誤解していたことはまだあったらしいということにも気づかされる。


「アロイス様に打ち解けるのは難しいと仰っていらっしゃいましたね。私……どうも、お言葉の意味を分かっていなかったのでしょうか……?」


 例の襲撃の直前、羊たちが毛を刈られる横で犬を撫でていた時のことだ。妻のほかに想う相手がいる人だから難しいということだと、リアーヌは思い込んでいたのだけれど。でも、前提からして間違っていたということは、アデルの真意はほかにあったということだ。


「アロイスの──と、大公殿下の口ぶりから、よほどのことをなさったのだろうと察しました。だから、酷なことを申し上げていると思っておりましたが……ああ、そこも誤解していらっしゃった……?」


 恐る恐る口を挟んだリアーヌに、アデルはわずかに眉を寄せて答えた。とはいえその表情もリアーヌへの不快を示すものではなく、アロイスへの憤りを再燃させたからのようだった。品のある声と口調にも明らかに険が滲んでいたので、リアーヌは慌てて夫と義弟を庇う。


「あの……ありがとうございます。そこまで、案じていただけるとは思っていなくて……アロイス様やフェリクス様の疑いももっともなことでしたから、私は、何も──」

「では、私のためにももっとお怒りくださいませ。フェリクスの言葉は、私に対しても侮辱ですのよ。私がリアーヌ様を妬んだり恨んだりしているように思わせようということにもなりかねませんもの。アロイスにも、しっかりと怒ってくださいませ。小国とはいえ国の主が、簡単に偏った見方に流れるようでは困ります!」


 アデルの主張も、もっともなのかもしれない。でも、だからといって今さら怒りを燃やすことなどできそうにない。何より──リアーヌの胸に湧くのは喜びだけだったのだ。

 彼女は人生の多くの時間を、異国で過ごしてきた。これまでの夫もその臣下や親族も、彼女を丁重に扱ってくれた。幼く未熟で妃の役目もまともに果たせなかった彼女を、辛抱強く導いてくれた。でも、これほど直截に諫言を届けてもらえたのは、初めてのことだった。まるで、この国ではやっと家族として迎えてくれたような気がして──だから、嬉しくてならなかった。


「いいえ、でも、私がとても心配をかけてしまって……ひどいことをしてしまったのですから」

「リアーヌ様、ですが──」

「本当にありがとうございます。アデル様──アロイス様も。私が間違ったことをしたら、これからもどうぞ叱ってくださいませ」


 アデルはまだ何か言いたそうだった。でも、微笑むリアーヌが涙を堪えているのに気付いてくれたのだろう、言葉を呑み込んでくれた。


「──何よりもまず、私が叱られることがないように、と思っています。妻の寛容を、何度も期待してはいけないのでしょうから」

「アロイス様」


 代わって声を上げたのは、アロイスだった。アデルに見えないように、ということだろうか、卓の下で手を握りながら囁かれるとリアーヌの頬は熱くなる。ちょうど茶器を手にして視線を逸らしたアデルは、もしかしたら気付いていない振りをしてくれただけかもしれないけれど。心臓をどきどきとさせながら、リアーヌは彼女の気遣いに甘えることにした。


「ええ……よろしくお願いいたします」


 すなわち、こっそりとアロイスの手を握り返したのだ。膝の上で繋がれたふたりの手は、夫婦の絆の証のようでもある。確かな温もりは、不安ばかりだった婚礼の時よりもよほど、妻と夫になったのだという実感をリアーヌに与えてくれた。

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