果樹園と狐のデニス

 地面から顔を上げると、溢れんばかりの色彩と甘い香りが押し寄せました。イエブラウスについた紐を握りしめながら、ミーシカは驚きました。目の前には数え切れないほど、真っ赤な実をやどしたヴィシネサワーチェリーの木々があったからです。さらに見渡すとアプリコット、チェリー、コルコドゥシェマラベルプラム、クワ、リンゴ、ナシ、カイセアプリコット、ネクタリン、プルーン、ひらたいモモなどの木々もありました。野には苺、ラズベリー、ブルーベリー、ブラックベリーが。日の光をきらきらと浴び、宝石のように輝いていたのでした。

「森にこんな場所があったなんて——」

「ぜんぶ君のものさ。好きなだけお食べ」

 いつの間にか木に登った蛇が言いました。まるまると実った林檎のついた枝に体を預け、感情のわからない瞳でミーシカを見つめていました。ぞわわ。ミーシカはなぜか、身震いをしました。ぬるい風が頬を撫でました。風に引っ張れたように、蛇から一歩、いっぽ、後ずさりしました。

「——ありがとう。おばあちゃんに、果物も届けようかな」

 笑っているように、蛇は舌をちょろりと出していました。ぞわわ。ミーシカはまた一歩、いっぽ、後退りし、林檎の木から離れました。

 葡萄酒とケーキの入ったカゴは少し重いものの、果物を何個か入れられないほど重くありませんでした。おばあちゃんはひらたい桃が大好物でした。すると木影から「後ろ!」と声がしました。はっとミーシカは振り向くと、蛇がすぐ背後にいました。

「どうしたのさ、そんな怯えて」

 ミーシカの足元を横切り、蛇はするりと木に登りました。柔らかな産毛に包まれた桃に、頬ずりして見つめています。まるで、林檎を進めるわるい老婆のようです。お話ではお姫様は眠ってしまい、王子様がやってきます。でもミーシカ・ヌミシカはお姫様ではありません。この国には王子様はいません。つまり食べてしまったら眠り続けるしかないのでした。

 シャァっと牙をみせ、蛇のシモナは笑っています。風が、葉が、裾が動いているのを感じました。ゆっくりと、ゆっくりと、時間が進んでいるように感じました。

「ぜんぶ君のものさ。たんとお食べ——」

 足元に転がった骨のような石のような真昼の月のような未来の光のような歯がミーシカに向かっていました。

 食べられる——!

「——こっちだ! 急げ!」

 木陰から声がして、茶色い毛玉が飛び出ました。ふさふさな尾をもった狐でした。蛇の頭を押さえています。

「——走って!」

 ミーシカは走り出しました。終始大人しく黙っていた木の精霊たちが何事かと囁き合っている声がしました。するとミーシカの背後から乾いたものが崩れていく音がしました。振り向くと、果物の木々が黒くなっていくのが見えました。色鮮やかだったのが、黒く、暗いものになりました。

「こっちだ!」

 ミーシカは狐を追いかけました。走って、走って、走っていくと、川のせせらぎが聞こえるようになりました。蛇の話し声のように澄んだ流れでした。木漏れ日できらきらと輝いているのが見えました。

「もう大丈夫だ」

 カワセミが魚を捕まえている様子を眺めているミーシカに、狐は言いました。

「あの蛇は、人を惑わして食べてしまうんだ。果物に口を付けていたら、君は助からなかったんだ」

 ミーシカはまばたきました。

「あなたも私と同じように話せるのね」

「そうさ」

「もしかして、私と同じ髪色をした女の子に教わったの?」

「いいや、フクロウに教わったのさ」

 恐怖は川のきよらかさによっていつの間にか流されていました。

「フクロウさんは誰から教わったの?」

 好奇心がまたよみがえっていました。

「さあね。フクロウはなんでも知ってるからな」

「私はミーシカ・ヌミシカよ。あなたのお名前は?」

「デニスさ。フクロウが付けてくれたんだ」

 ほうきのように尻尾がぱたぱたと動き、ミーシカは笑ってしまいました。鱗の無い、目の前の獣にミーシカはすっかりと安心していました。

「とっても素敵ね」

「もしよかったら葡萄園に来ないかい?」

 つややかな瞳がミーシカを見つめています。四本足の先は靴下のように白く、鋭い爪がのぞいています。

「葡萄は大好きだけど私、おばあちゃんを探しているの。道に迷ってしまったところで蛇に出会っちゃって……」

「じゃあフクロウに聞いてみるかい?」

「ええ。それが良さそうね」

 そうしてミーシカは軽やかに進む狐と共に、獣道を歩き始めました。辺りはやはりミーシカの知らない場所のようでした。見たことのない花、あざみと同じ色をした小さな花が所々に咲いていました。花の精霊たちが見知らぬミーシカ・ヌミシカを不思議がって、盗み見ているのを感じました。果樹園から漂った甘い香りは無くなり、新鮮な木々たちの香りへと変化しました。

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