第38話 ここが天国という奴ですね

 理想郷はここにあったのだ。

 知らず知らずの内に、私は生活の中で癒やしを失っていた。

 

 最近喫茶店にも行けなくなっていた。

 喫茶店に行けば、また余計な事に巻き込まれるんじゃないかと警戒して、意図的に避けるようになっていた。


 もう私には、救いの道は残されていないのか。

 そう思っていた時に、この理想郷が目の前に現れたのだ。


 ここは北関東にある鬼怒川温泉。

 江戸時代に源泉が発見されて以来、特権階級のみがその湯に浸かることを許されてきたが、明治以降は一般市民にも親しまれ、バブル時代には企業団体旅行の聖地となり大勢の観光客が押し寄せた。

 しかし、バブル崩壊後団体旅行が次々と消滅し、あっという間に客足が遠退いてしまい、いつの間にか倒産したホテルが立ち並ぶ廃墟マニアの名所と化してしまった。


 そこに高井財閥が救いの手を差し伸べ、鬼怒川温泉圏内全てを買収し、景観を損ねる廃屋を全て解体し、新たな観光施設へ生まれ変わらせ、今では日本どころか世界でも有数の観光地へとカムバックを果たした。

 とにかく観光客の集客に関しては高井財閥の総合力を結集し、あらゆるチャネルから呼びかけ続けているので、文字通り湯水の如く押し寄せているようである。


 そんな高井財閥の所有地である温泉街に、私達一般庶民は無料招待されたのである。

 もうこれは勝ち組といっても良いのでは・・・・・・?


「いやー生きてりゃ良いことあるね~!」


 はらちゃんが既に街中の酒屋からワンカップ大関を買ってがぶ飲みし始めている。

 私の方に腕を絡ませて、既に千鳥足の様相だ。


「ひっく・・・・・・うーん、あとは風呂入って寝て起きて、風呂入って・・・・・・ここが天国ってやつかぁ」

「まだ旅館に着いてないのに酒飲み始めたらダメでしょ!もうこれじゃ今日は露天風呂入れないでしょ」

「えーやーだーはいるー」

「まったく・・・・・・せっかくの温泉街なのに、普通風呂入ってから酒飲むでしょうに」


 私が引き連れた友人共はだいたいこんな感じで浮かれきっている。

 招待をしてくれた志成になんのリスペクトを持たず、ただ好き勝手に飲んで食って歩いて回り始めている。


「皆さん楽しそうで良かったです」

「いや、ちょっとこれはハメ外し過ぎじゃないですかね」

「これくらいで良いんですよ。皆さん色々ことを普段から我慢されているんですから、こういったハレの日ははっちゃけてしまった方が後腐れがないってもんです」

「それは確かにはっちゃけた本人が言うから説得力ありますね」


 志成はそのまま押し黙ってしまった。

 自分も殻を破った経験をしたから、人に寛容になれたのだろうか。

 脱走する前は志成がどんな振る舞いをしていたのかは、とても気になる所だ。


「そういえば神の姿が見当たらないんですけど」

「一応遅れるって連絡が来てました。手持ちで着ていく服が全く無いらしくて、急いで買い足している最中です」

「夜逃げしてきた人みたいな感じですね」

「元々服なんかお手伝いさんや専属スタイリスト達が勝手に調達して、決められたモノを着るみたいな生活でしたしね。自分で選んで自分で着て、っていうのにあまり慣れてないんですかね」

「やっぱり人は楽を覚えるとダメ人間になって行くんですねー」


 虚空を見つめ、志成は軽く微笑んだ。


 志成と2人で冗談を言い合いながら、あっという間に今日の宿泊するホテルに到着した。


 外観から超巨大な高層ビルのようなホテルで、中に入れば最上階まで達する圧巻の吹き抜けが待ち受けていた。

 吹き抜けの地階には人工の滝や松などが飾られており、まるで日本庭園の様相を見せている。

 

「はぇーこれはたまげた」


 ジジイが早速インスタントカメラで吹き抜けの様子を写真に撮り始めている。


「そんなカメラ、よく持ってたね」

「これの方が風情が出るからね。買い漁ってるんだよ」

「現像って今でも出来るの?」

「古い写真屋さんとかでしてもらえるよ。これがまた・・・・・・良い色合いで印刷されるんだ」


 恍惚の表情を浮かべて、フイルムを回すのに必死になっている。


「もう受付で鍵貰ったから、先に部屋行ってるから」


 ジジイは黙って頷き、その場を離れる事は無かった。


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