【書籍化】ナイチンゲールは夜明けを歌う

干野ワニ

第一部 家族再生編

プロローグ

「フロランス嬢、余はシャルル五世とそなたの婚約を検討しておる」


「は」


 思いもよらないお言葉に、私はひざまずいて玉座の陛下を見上げたままフリーズした。


「むろん、孫はまだ成人しておらぬ。正式な婚約は、齢十三となり成人を迎えてからとなるだろう」


「殿下の婚約者候補にご検討頂きまして、幸甚こうじんの至りに存じます。ただ僭越せんえつながら、わたくしめはシャルル五世王孫殿下より年かさでございます」


「構わぬ。そなたは確か十六であったか。五つ程度の差であれば、前例などいくらでもあろう」


「仰せの通りにございます」


 ああそうだった。アラサーの記憶が混ざってから忘れがちだけど、私まだ十六歳でした!


 私は内心冷や汗をダラダラと流しながら、なんとかお断りの言い訳を探した。だがこれまでお断りした求婚者達とは違い、国王陛下直々の打診である。下手に断ろうものなら、最悪一族郎党の首が飛ぶ。物理で。


 私が頭を下げたまま黙っていると、玉座の隣に立っていた王孫殿下の足音が近づいてきた。


おもてを上げよ」


「はい」


 少年特有の高い声に応えると、まだ体つきも華奢きゃしゃ紅顔こうがんの美少年が立っていた。


 うわー、可愛い! でも、年下は守備範囲外なのですよ。

 それに……もし王家の長男に嫁ぐことになどなってしまったら──私がが、全て水の泡になってしまうだろう。


「その……わたしは覚えていないのだが、そなたの口づけでわたしは死のふちより目を覚ましたそうではないか。乙女の口づけを奪った以上、わたしは責任を取らなくてはならぬ」


 いえ、取って頂かなくて大丈夫です。


 というかいつの間に、「人工呼吸で蘇生した」が「乙女の口付けで目覚めた」に変化してしまったのだろう。むしろ私としては子供の人命救助なんてノーカウントということにしたいので、早めに忘れて頂けるとありがたいのですが。


「光栄ながら殿下、私は治療を行わせて頂いただけでございます。このような治療法を今後一般に普及させて参りたく存じ、本日は御前にまかり越しました。処置を行うたびに責任を問うていたのでは、治療法として立ちゆかないでしょう。殿下のようにお救いできる命を、みすみす見逃してしまうことにもなりかねません」


「それは……だがそなたにはまだ婚約者もいないのは、確かであろう。何も問題はないではないか」


 いえ、問題大アリです。私の話、ちゃんと聞いて頂いてました?

 どうしてこうなった……。


 私は目の前でちょっとしょんぼりしているショタっ子をどこか他人事のように眺めながら、原因となった事件を思い出していた。



 *****



 突如、つんざくような女の悲鳴が、王宮の庭園に響き渡った。広大な園遊会場をざわめきが一瞬にして覆いつくし、楽団も演奏の手を止める。近衛兵の号令に交じる悲痛な叫び声を聞いて、私はドレスのスカートを引っ掴んで走り出した。


 この声は、さっき挨拶したばかりのアウロラ王太子妃殿下のものだ。物静かで線の細い印象からは想像もつかないような声音で、狂ったように息子の名を呼び続けている。


「早く、もっと治療呪文レメディウムを!」


「しっ、しかし、殿下はもう息をしておられず……」


 私は現場に到着すると、人垣を掻き分けて騒動の中心地に飛び出した。


 推測通り。そこには全身をぐっしょりと濡らした王孫殿下が、母の腕に抱かれて力なく横たわっていた。すぐ横には、庭を彩る睡蓮の溜め池が口を開けている。


 ──溺水できすいか。


 治療呪文レメディウムの心得がある者が手をかざし続けているが、自然治癒力を補助する作用の「それ」では、心肺停止に効果はない。


「下がりなさい! 邪魔だ!」


 怒号と共に押しとどめようとする衛兵を押しのけて、私は叫んだ。


「私にお任せ下さい!」


 私の剣幕に驚いた衛兵の手が、一瞬緩む。その隙をついてすり抜けると、私は母子の前に膝をついた。


「あっ、こら!」


 さらに止めようとした衛兵の手が私の肩にかかった瞬間。


「待て! その者はかのエルゼスの天使である。その者のしたいようにさせよ!」


 低いが良く通る声が響き、衛兵の手が止まった。


「セレスタン殿下!」


「この年若いご令嬢が……かの戦場の天使であるというのか!?」


 仮面の大公殿下が投下した爆弾ネタに、再びざわめきが広がった。あの妙な尾ひれのついた噂は、まだ消えていなかったのか。顔から火が出そうになったが、今はそれを細かく否定している暇はない。


「シャルを助けて……」


 枯れかけた声で懇願する母親に力強く頷いて見せると、私は傷病者の様子を確認した。呼吸ナシ、心拍ナシ。極めて危険な状態である。


 王孫殿下は御年十一の細身の少年、つまり小児である。私は片手を殿下のまだ薄い胸板にあてると、三分の一程度沈み込むくらい力強く、ぐっと力を込めた。そのままリズミカルに、だが確実に圧迫を繰り返していく。


「で、殿下になにを無体な!」


「責任は私が取る! 続けさせよ!」


 群衆を抑えている大公殿下が、仮面の下から声を上げた。前例のないことをやって結果が出せなければ、十中八九首とおさらばすることになるだろう。せめて家族や信じて任せてくれた大公殿下に累が及ばなければいいのだが。


 だがとにかく、今は処置を続けるのみだ。考えている暇などない。私は三十回の胸骨圧迫を終えると、少年の顎を持ち上げて気道を確保し、鼻をつまんだ。口を大きく開けて、空気が漏れないようしっかりと蒼白い唇を覆う。

 ふーっと深く息を吹き込むこと二回。私は素早く身を起こすと、再び胸骨圧迫を繰り返した。


 近年は心臓マッサージを行う際に人工呼吸はいらないという変更点だけが独り歩きしているが、それは正確ではない。人工呼吸をしなくてもよいというのは、あくまで心肺停止した直後、それも窒息が原因でない場合のみである。

 心肺停止してから時間が経過していたり窒息が原因で心停止に至ったりした場合、血中の酸素濃度が著しく低下していると考えられる。その場合、圧迫だけしても細胞の酸素化は絶望的である。人工呼吸が不可欠なのだ。


「そなたたち女官が何人も近くにいて、なぜ気付かなかったのだ!」


「それが……助けを求めるお声の一つも聞こえなかったものですから……」


「だから目を離すなと言ったのだ!」


「もっ、申し訳ございません!」


 そりゃそうだ。子供は溺れるとき、たすけてー! バシャバシャなんて大きな音をたてたりしない。多くの場合、ただ静かに沈んでいくのだ。だから水辺では子供からひとときも目を離してはいけないのが、鉄則である。


 そんなやり取りを背後に聞きながら、私は一心に胸骨圧迫と人工呼吸のサイクルを続けた。少し焦りを感じ始めた、六サイクル目の胸骨圧迫。小児の場合、本当は圧迫と呼吸を手分けして行いたいところだが──

 そこで私は、いつの間にか兄がすぐ横に待機してくれていることに気が付いた。何かと話が早いこの人になら、胸骨圧迫を任せられるかもしれない。


「おにい様! 胸の圧迫代わって下さい!」


「わかった」


「おにい様が圧迫十五回、私が呼吸二回の繰り返しです」


「ああ」


 兄に短い説明を行う間も、私は圧迫を続けた。そして呼吸を二回。私が胸から離れると、すかさず兄は少年の胸骨に片手の平をあてた。人工呼吸で膨らんだ胸が沈みきると同時に、素早く圧迫を再開する。


 小児の場合、ひとサイクルの圧迫回数を減らして呼吸を増やした方が良い。二人いれば呼吸を増やしても、間を置かずすぐに圧迫に戻ることができるという訳だ。


 呼吸を増やして間もなく。少年の口からゴブっと水が吐き出され、私はすかさず彼の顔を横へ向けさせた。ゴホゴホという咳と共に、自発呼吸が取り戻される。


 私は毛布で少年の身体を温めるよう指示すると、治療術師に後を委ねた。


「一体どういうことだ!? シャルル殿下の御息は、確かに止まっておられたはずだ!」


「一度息の止まった人間が生き返ったなど、本当であれば前例のないことだぞ!」


 王孫殿下が運ばれていくと、周囲を取り巻いていた貴族たちがこぞって私に押し寄せた。口々に疑問や怒り、戸惑いの声が投げかけられる。疲れで上手い切り返しも思いつかない私に代わって、兄が一歩前に出る。だが上手く混乱を抑えられずもみ合ううちに、ヒートアップした群衆の一人が叫んだ。


「蘇生術を使うなど……もしやエルゼス侯爵令嬢は、天使などではなく魔女……」


「黙れ!」


 大公殿下の一喝に、群衆はたちまちしん……と静まり返った。


「私は戦場で、何度も奇跡を目の当たりにしてきたのだ。フロランス嬢が蘇生術を扱えたとしても、不思議ではない」


 ちょっと待て! 奇跡を起こした覚えなんて、これっぽっちもないんですけど!?


 こうして変な噂ができあがったのか……。魔女として異端審問にかけられずに済んだのはありがたいが、誇張されて伝わるのも困りものである。これから死者の蘇生依頼がバンバン来るようになってしまっては大変なので、私は慌てて口を開いた。


「誰でもお救いできる訳ではありません。シャルル殿下はお救いできる条件が揃っていたのです」


「条件とは!?」


 またもやざわめき始める群衆に向かって、私は静かに続けた。


「その蘇生方法は、手順さえ守れば誰にでも扱えるものです。まずは陛下に奏上そうじょうしたてまつり、その後広く伝えるご許可を頂くつもりでございますので、お待ちくださいませ」


 私はすっと腰を落として淑女の礼を取ると、まだざわつく庭園をようやく後にすることができたのだった。



 *****



 そして今日、私は心肺蘇生法についてまとめた文献を、国王陛下に献上しに来たというわけである。


 それが一体、どうしてこうなった……。


 日本人としての三十年ほどの人生を思い出してから、早四年。最初はただ、平穏な老後を望んでいただけだったのに。


 私は前世(?)の記憶が目覚めたあの運命の日の朝に、遠く想いを馳せた──。

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