第2話

 K市は工業地帯が有名であり税収が安定している、福祉政策に一定の評価があるためここ数年で人口が増加しているのが特徴だ。僕は数年前からK市で生活しており、残業が多い時期もあるが公務員として何とかやっている。趣味なし女なしではあるが、自分では充実していると感じている。こんな生活をしているということは、あの頃の僕には想像できないと思う。自分が何者で何になりたいのか全くわかっていなかったし、そんなことを考えさせてくれないほど僕は静佳に振り回されていたのだ。





「やっぱりいいよね、キリンってこのシルエット?赤と白のコントラスト?が最高!サイズ感も何ていうか雄大でいいよね!」


 キリンっていうのは黄色と茶色のコントラストじゃないのか。という言葉が口に出かかっていたのを我慢し、僕はなんとなしに相槌を打った。動物園でデート、そんな甘美な期待をしていた僕が間違っていた。静佳が行きたいと言っていたのは真昼のK市臨港区域、工業地帯。キリンというのは比喩表現でタンカーなどの船から積み荷を下ろすクレーンのことだ、一部の人達の間ではこのクレーンをキリンという愛称で呼んでいるらしい。僕達は自転車を飛ばして臨港区域に来て工業地帯を見て回っていた、よく言えばサイクリングデートなのだがどうしてクレーンやタンカーが魅力的なのか僕にはあまり理解できなかった。しかし、それ以上に理解できないのがどうして僕をデートに誘ったのかということ、いや、果たしてこれは本当にデートと呼べるものなのだろうか。


「助かっちゃった、一人で来るの抵抗感あったんだよね、ほらあたしってかよわい女の子じゃない?一回来てみたいって思ってて、なかなか来れなかったのよ」


 静佳は満面の笑みで、楽しそうにデジカメで何度も写真を撮っている。どうして僕を誘ったのか気になっていたが、聞くに聞けない、何だか急に静佳の前にいる自分が恥ずかしくてしょうがなくなってしまった。


「描けなくなったんだよね」

「え?」

「そう、絵が描けなくなったの。先輩よくわかったね。」


 噛み合っているようでいないコミュニケーションはいつも通りなのだが、その内容はいつもと全然違う。こんな弱気な静佳は初めてみた。


「私の美的感覚?って少しずれてるみたい、特に抽象画。あれは本当に難しいのよ、何にも役に立たないような感じしちゃってさ。先生や他の子は、あなたの心を移す鏡とかみたままを感じるとか言っちゃって、なーんか調子狂っちゃってるんだよね」


 確かに静佳と言えば良い意味で美大生らしくない。偏見であるが美大生というのはどこかよくわからない感覚的なところがあって、服装は柄物で派手過ぎるか全身真っ黒で地味過ぎる両極端なイメージがある。静佳は健康的でどちらかというと理系女子っていう感じの服装だ、まぁ自転車に乗ってるというのもあるとは思う。僕は精一杯フォローしたい気持ちがあるのだが言葉が出ない。


 風が吹いた。


 静佳のストレートの長い髪の毛が口に入った、憂いを帯びたいつもと違うその横顔を僕は純粋に美しいと思った。


「綺麗…」

「先輩もようやくキリンの良さがわかったかな、これが夜になるともっと綺麗なんだよ」


 綺麗なのは風景じゃないのだが、特に訂正はしなかった。自分でも驚いている、言葉が気持ちを超えて口から勝手に出ていったのだ。


「機能美ってあるじゃん、クレーンとかタンカーとかは役目があってさ。そういう美しさがあるんだから、大丈夫だよ」

「ぷすぷす、ウケるんだけど。先輩は優しいね〜でもそういうことじゃないんだな〜残念!」

「なっ、せっかく人が励ましてるのに、その笑い方、全然可愛くないぞ。」

「余計なお世話だし、ってか励ますならさ、もっと気の利いたことできないのかね。こう、頭ポンポンとかさ、先輩の癖にさ…だけど、ありがとう」


 本気なのか冗談なのかわからないが、僕が意識するには十分過ぎるセリフだ。結局、静佳の悩みが解消したのかもどうして僕がデート?に誘われたのかもわからなかった。しかし、僕の気持ちが静佳に引き寄せられていったことだけは、はっきりとわかっていた。

 静佳にとって、絵が描けなくなることがどれだけ苦しいことなのか、どれほど辛いことだったのか。この時の僕が少しでも想像できていれば、何か変わっていたのかもしれない。

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