5-6 虚無と必死

 

「まあ、なんとか時間内だったな」

 

 四時四十六分。

 腕時計を見て、南岳は安堵のため息をついた。

 魚住が南岳に振り返る。

 

「よりによって、まさか奴が俺らに泣きついて来るとは思いませんでしたね」

「ああ──まったくだ」

 

 

 

 井守優生──彼が南岳のもとにやって来たのは数十分前のことだった。

 最初、南岳は井守の普段と違う風体に驚き、次いでどうしたことかと身構えたが、井守はひどく急いだ様子で協力を申し込んできた。

 陽陵学園の現状と、それを打開するために島崎が企んだ作戦の手筈を一通り説明した後に、井守は息を弾ませながら言った。

 

「あいつの作戦には致命的な欠陥がある──」

 

 井守が言っていたのは、連上の握る余剰兵力のことだった。

 島崎の構想は、基本的には連上陣営に島崎はもう帰ったと誤認させ、その間隙を突く形で意思確認票を提出するというものだった。であれば、どうしたってその提出のために生徒会室まで出て行くより他ない。しかし周到な連上であれば、用心のために期限の五時までは生徒会室付近に手駒を配置して最終防衛線を張っているのではないか──そのことに、井守は作戦を終えて校門を出てから思い至ったのだ。

 連上の手持ちの兵力は島崎一人を捕捉するには多すぎる。ならばそういう形の保険も大いにありうる。いや、むしろどうして今までその点に気付かなかったのかわからない、それほどにその危険は大きいのだと井守は主張した。

 もしそうであれば、提出しようとその場に近づいた段階で見咎められて一巻の終わりということになる。これではいくら連上本人の目を欺こうと意思確認票を提出することは不可能だ。早い話、島崎の立てた作戦では生徒会室までの露払いが不完全なのである。

 そこで──南岳は急遽動くことにした。魚住を伴って陽陵学園へ赴いたのだ。

 かつての古巣である生徒会室に行くと、果たして井守の洞察通りにテコンドー部部員と思しき連中が何人か戸の前に立っていた。あまり見覚えがないのは一年生だからだろう。

 連中を立ち退かせるのは簡単だった。南岳は暇そうにしている彼らの傍に寄っていくと、ただ一言囁いた。

 

「すぐにここをどいて家に帰れ。従わんのなら──殺すぞ」

 

 部員達は顔中に怯えの色を浮かべ、そそくさと立ち去って行った。

 政権が破綻した今となっては南岳に権力はない。しかし、かつて闇の帝王だったという残像はまだ厳然として残っている。学園を追われ日蔭者になろうと、南岳が人殺しであるという事実は消えない──それは自らが背負うべき十字架でもあると知っていたが、今回南岳はあえてそれを脅しの言葉に用いたのだった。

 

 

 

「目的は果たした。誰かに見つからないうちに撤退するぞ」

 

 そう言って魚住を見やると、修業僧のような風格を持つ元生徒会副会長は誰に聞かせるでもないといった調子で呟いた。

 

「どうにも奇妙です──まさか奴に助け舟を出すことになるとは」

 

 頷きはしなかったものの、その点に関しては南岳も同感ではあった。

 あの男──島崎栄一は、今は違うとはいえかつて連上の仲間だった人間だ。連上に潰走させられた旧生徒会であるところの自分達が、そんな男の後ろ盾を務めるというのは確かにおかしな具合ではある。

 しかし、他に選択肢はなかった。

 

「奴の選挙生命が断たれれば、いよいよ連上の権力掌握は阻止できなくなる。否も応もないだろう」

 

 連上の台頭を防いだところで何が変わるのか──そう問われれば、南岳に答える言葉はない。

 自分がかつての立場に復帰する可能性など、もはや無に等しい。それは確かだ。しかし──それでも、動かないわけにはいかなかった。

 あるいはそれは、連上が力を得て更に勢いを増すことへの恐怖だったのかもしれない。

 もしくは、連上に追い詰められた者同士としての島崎へのシンパシーだったのかもしれない。

 すべてを失うことによって初めて生まれた贖罪意識だったのかもしれないし、いつの日かすべてを取り返したいという妄想じみた執着だったのかもしれない。すべてが正解のような気もするし、どれでもないようにも思える。

 南岳は自分の腹の中を読むことができない。それは長い間、取り返しのつかない過去を含む自分の内面に目を閉ざしてきたせいなのかもしれない。南岳という人間はいつだって混沌としていて、それでいて虚無感に満ちている。

 

「もしかして俺達……島崎に踊らされていたんでしょうか?」

 

 魚住が静かに発した言葉に、南岳は考え込んだ。

 島崎が、ここで自分達が動くことまでも計算していた?

 つまり、不測の事態が起きた際に旧生徒会が動く可能性──それをいざという時の保険として考慮に入れていた?

 実際はそうなったわけだが。

 

「……いや、あり得んな。不確定要素が多すぎる。いくらなんでもそこまで見通すのはあの連上だったとしても不可能な話だろう。島崎の何かが道を開いたとするなら、それは知略ではない」

 

 奴の──必死さだ。

 最後の言葉は口に出さず、南岳は誰もいない廊下を見やった。

 

「ここから先は奴次第ですか……」

 

 同じ方向を見ながら魚住がそう言った。

 その口調がまるで友人を慮るような響きを帯びていたことに、南岳はおかしみを覚えた。

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