4-9 罠と牙
「井守っ!」
机に腰掛けて退屈そうに待っていた井守は、教室に飛び込んできた島崎に向き直ると、怪訝な表情を浮かべながらも幾分ほっとしたような声で迎えた。
「栄一、どこに行ってたんだ? まあいいや、俺は予定通りに動いたぜ。総会には代理で出席しておいた。特に問題はなかったよ」
そう。
島崎は、対策を立てていた。
自信のあった組織票説を連上本人に笑い飛ばされてから、島崎はすべてにおいて用心に用心を重ねていた──ゆえに、全立候補者に出席が義務付けられている立候補者総会に何らかの理由で出られなくなる状況というのも想定して、島崎は井守とある取り決めを事前にしていたのだ。
それは、立候補者総会の会場である生徒会室に島崎が到着したら井守にメールを送るというルールである。決められた時刻までにメールがなかった場合、代理として井守が出席するという手筈だった。
井守の言葉では、その慎重な予防線が功を奏したらしいのだが。
電話での連上の言葉が、島崎を動揺させている。
問題は──なかった。
その楽観的な言葉が信じられず、島崎は井守に詰め寄る。
「総会では何を決めた? 何かおかしなことはなかったか? 連上の方に動きはあったのか?」
「あ、ああ。議題は、立候補者が多すぎるってことだ。まあ、本当なら対策を練らなきゃならないことじゃないんだが、ほとんどが一年じゃ不安にもなるってもんだろうな。実際ノリで立候補したみたいな奴多かったし。でも、だからって南岳みたいに事前審査をするわけにもいかないしってんで、場は煮詰まってた──あらかた意見も出尽くしたあたりで、連上が新しい制度を提案したんだ。意思確認票っていう名前のな」
「意思……確認票?」
「要は、立候補者を更に絞り込むための措置だな。あなたは本当に生徒会選挙に出馬しますか? って、もう一度問われるわけだ。二年の登録が禁止されたっていう異常事態の中で登録が行われていたわけだから、冷やかしや大した考えなしに立候補してしまった生徒も多いはずっていう連上の主張はもっともだったし、そういう連中には降りてもらった方が選挙管理委員会もやりやすい。所定の用紙に記名して委員会に提出するだけっていう手軽さもあって、すんなり決定されたよ」
井守の言葉の中に、島崎は嫌な予感を感じる。
連上の発案──それはただ単に選挙の効率化を図ろうなんて殊勝な意識に発したものではない。そこには必ず別の意思が、狙いがあるはずだ。
島崎の中で、幾通りもの発想と試算が交差する。
そして閃きに至る──以前から頭の中にあった着眼点と、連上の言葉が重なった。
──票の分散。
──ズレてるよ。
──そんな方向を向いていたんじゃ。
──百年走り続けても。
──あたしの所へは辿り着けない。
「!」
答えを確信して、島崎は目を見開いた。
衝撃。
恐怖。
絶望。
虚脱感に飲み込まれそうになりながら、呟く。
「やら……れた」
「え、どういう事だよ?」
「奴の狙いはまさにここ──意思確認票の提案にあったんだ。それまでの動きはすべてそのための布石──伏線に過ぎなかったんだ!」
井守は怪訝な表情を浮かべた。まだ気付いていないのだ──今日の総会で結実した、連上の恐るべき票操作のシステムに。
「意思確認票──その制度が何を起こすって言うんだ?」
「生徒会長の立候補者は人気の美男美女揃いだ。だからそのまま選挙に臨めば票はほぼ均等にばらけるというのが当然の見方だろう。しかし、そいつらのほとんどが途中で──投票日を目前にして棄権したらどうなる?」
途中棄権。
意思確認票制度は、裏を返せば候補者の途中棄権を容認するためのシステムに他ならない。それは発案者──連上の企図したプロセスの中では必須条件だったのだ。
このタイミングで擁立したすべての候補者を引っ込める──それこそが連上の最後の一手だったのだから。
島崎は自分でも信じられない思いで、今や全貌を現した連上の鬼謀を解説する。もはや手遅れな段階にまで進行してしまった悪魔の詭計を解き明かす。
「答えは簡単だ。大量の浮動票が出るんだよ」
「……!」
呆然としている井守をよそに、島崎は話し続ける。
「もし投票しようと思っていた候補が棄権してしまったとしたら、有権者は誰に票を投じるだろうか? 必ずと言いきれるわけじゃないが、おそらく多くの人はその時一番目立っている候補者に入れてしまうんじゃないかな」
「目立ってる……って」
「その状況が出現したとすれば──最も脚光を浴びるのは、画期的な方策を提案した連上に他ならない」
「!」
これだ──これなのだ。
島崎はこの苦境に追い込まれていながら、奇妙な納得を感じていた──これこそが連上の策略だ。無駄のない、かつその段階では何をしようとしているかすら気取らせない下準備。敵方が誤った解釈をするように誘導する迷彩効果。牙を剥いて一気に致命傷を与える、そのタイミングを逃さない巧妙さ。すべての要素が絡み合い、巧緻な絵図を描き出していた。
「くそっ!」
島崎は両手で机を叩く。
「僕なら気付けたっ! 僕なら回避できたっ! その場にいさえすれば──採決に至る一歩手前で連上の真意を見破り、どうにかしてこの制度を阻止する方向に動くことができたはずだ! 畜生、だから奴は僕をさらわせたんだ! 今や生徒会選挙とはまったく無関係なはずの旧生徒会陣営を巧みに操って、自分は一切手を汚さずに!」
「そ、そ、そんな……そんなことって」
井守は目に見えてうろたえている。島崎も心中は穏やかでなかったが、目の前の人間に先を越されて取り乱すタイミングを失ってしまった。
中途半端に冷静な島崎に、混乱する井守は問いかけた。
「ど、どうすれば……今からではどうにかならないのか?」
「総会が終わってしまった今ではどうしようもない。連中の棄権を阻止しようにも、連上の息がかかっている立候補者に意思確認票を提出させる方法なんか──」
そこまで言って、島崎は不意に戦慄した。
それはまるで──前方に立ちふさがる敵を警戒していた者が、いつの間にか後ろから拳銃を突きつけられていたことに気付いた時のような。
注意していない角度からの攻撃があり得ることを知った時の、鼻先に触れそうなほどに死を間近に感じた、背筋が凍るような衝撃だった。
「おい井守。その意思確認票はもらってきたんだよな?」
「え──ああ、もちろん。今渡すよ」
井守はようやく自分の手が届く範囲に話題が下りてきたことで少し平静を取り戻したらしく、井守は半分ほど落ち着きかけた声で答えて廊下に出て行った。しばらくロッカーの上に置かれていた鞄を探っていたが、やがて戻って来る。
「いや、おかしいな。確かに受けとって鞄に入れたはずなんだが、なくなっちまった」
島崎の頭の中に響いていた不安の囁きが、にわかに音量を増した。
不安の中から湧き出た危機意識がわさわさと全身を這い上り、覆ってゆく。黒く濁ったそれにすっぽりと包まれて、ようやく島崎はその意味を認識した。
「……まずい」
「島崎? ──まさかこれって」
「まずい、まずいまずいまずい!」
島崎は部屋を飛び出した。
意思確認票という制度の提案には──二つ目の意味があった。そのことに島崎はたった今思い至ったのだ。
意思確認票は、各立候補者に本当に選挙に臨む意思があるのかどうかを確かめるという趣旨のものだ。意思がある者は用紙に署名をし、選挙管理委員会に提出する。提出しなかった者は棄権と見なされ、立候補者としての資格を剥奪される。
つまり──島崎に意思確認票を提出させなければ、戦わずして勝利が決まることになる。
意思確認票という制度の創設の裏には、確かに連上の選挙での立場を有利にしようという目的も多分に存在するのだろうが、この急所がある限り向こうはまず島崎に立候補をさせないことを第一目標として動いてくるだろう。井守が受け取った用紙が紛失したのもおそらく偶然じゃない──尾行してきた連上の手の者が隙を見て抜き取ったのだ、と島崎は半ば確信していた。
島崎は最初に自らの現状をかなりの苦境に立たされたと分析したが、実際にはそんな甘ったるいものですらなく──連上の意図が完全に実現すれば、勝負の土俵にすら上がれなくなるという極限状況だったのだ。
まずい。
この流れは──完全に連上の計算通りだ。
一度連上の描いたシナリオの上に着地してしまえば、もうその人間は蜘蛛の巣に引っ掛かった虫けら同然である。渾身の力で足掻いても、知恵を振り絞って策を弄しても、計画の進行を妨げることはできない──そうやって何人もの人間が連上の望んだ通りに動き、破滅してゆく様を島崎は見ていた。今までは敵として──しかし今そうなろうとしているのは自分自身だ。
まずい。
まずい。
まずい。
恐怖が肥大し続ける意識の中で、島崎は痛感した。
──完全に、連上の謀略に絡め取られた。
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