2-2 開戦と不通

 

 七月一日。

 陽陵学園の年中行事の一つ、球技大会の日である。


 陽陵学園の球技大会は、グラウンドと体育館、そして多目的コートの三つの場所でサッカーやバスケットボールなどの様々な球技が一日かけて行われる行事である。生徒は最低一つ、最高三つの種目に参加することになっているが、二人とも補欠の枠に入っているので途中欠場する生徒がいない限りは種目に出る必要はない。これは連上の指示だった──運動が不得手な島崎はそれについては一向に構わなかったのだが、そう告げると連上はなぜだか渋い顔をしたのだった。


「それは良くないなあ──島崎君、今日から毎日5キロ走ってくれる?」


 随分簡単に言うものだと思ったが、連上はこれから相棒としてやっていくには最低限の体力は絶対に必要だと言うのである。頭脳担当の連上に対して島崎は運動面をカバーしろ、ということなのかもしれない。仕方がないので島崎はここ数週間ジョギングで登下校していた。元々は自転車通学だったから最初のうちは辛くて仕方がなかったが、今では割合楽になりつつあった。

 今日も島崎は走って登校した。ジャージに着替えて校庭に出る。

 開会式は予定調和じみた惰性的雰囲気の中で始まり、だらだらと進行した。

 

「続いて、生徒会長による開会の言葉です」

 

 司会者の気だるげな声に、島崎は身をこわばらせた。

 生徒会長──陽陵学園の闇に巣食う利権システムを牛耳る生徒会の頭、南岳密みなみだけひそか

 壇上に上がった南岳は、これまでとはどこか違って見えた。

 いや──それはおそらく先入観による錯覚なのだろうと島崎は打ち消す。

 改めて見てみれば、普段とどう違うという点を指摘することはできない。逞しい体格、後ろで束ねた黒髪、きりりと上がった眉と柔和な笑みを浮かべる目。全体的に凛々しく精悍な造作を備えた南岳は、傍から見れば誠実そうなスポーツマンにしか見えない。

 南岳は低く落ち着いた声で当たり障りのない挨拶をした。

 一分半ほどに及んだ開会の言葉が終わりを迎えかけた時、異変は起こった。

 

「っ──」

 

 島崎は鳥肌が立つのを感じた。

 確かに──見えた。

 南岳は言葉を締めくくる直前に、整列している生徒の中ほどに視線を向け──いわく表現しがたい表情を見せたのだ。

 表現しがたいという言い方は不適切なのかもしれない。正確には、その表情と普段の南岳とを繋げるための言葉を探すことが困難なほど──温厚な人柄と誠実な職務態度で知られる南岳からはあまりにもかけ離れた、残酷で凶悪な面相だったのである。

 例えるならば、人に刃物を突き刺す刹那の連続殺人鬼のような。

 あるいは、燃え盛る火炎の中に幼児を突き落とす人非人のような。

 それが見えたのは、ほんの数秒のことである。何も知らない一般の生徒ならば、気のせいだと考えて忘れてしまうだろう。

 しかし島崎はそうは思わない。あの顔が──あれこそが、南岳の本性なのだ。

 あれが権力の頂点に君臨する暴君の目──いや、そうではない。単なる強者という立場に留まる程度のものではない。

 

 あれは。

 あれは人殺しの目だ。

 島崎はゆっくりと息を吐いた。幾分心細くなっていた。

 今この場において真実を知っているのは、奴らの手の者を除けば島崎と──もう一人。南岳の表情を見て思考を共有した者が、もう一人だけいる。

 連上千洋──

 島崎はそこでようやく思い至った。

 あの時南岳は生徒の列に目を向けていた──連上を見ていたのだ。

 そしてあの残虐な表情──つまり。

 戦いは、今日起こるのだ。

 

 

 

 先に動いたのは向こうだった。

 開会式が終わった後、昇降口の前で島崎は連上と合流した。

 

「とりあえず、飲み物を買いに行こうか」

 

 連上の不用意な言葉に島崎は驚いた。

 ここから校内の自販機に向かうには、人気のない校舎裏を抜けなければならない。向こうからすれば、誰も見ていない場所に二人が行くことは願ってもない好機なのではないか。

 

「おい……大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ」連上は頷いた。「それが、あたし達の最初の一手だ。さて、奴らはどう来るかな?」

 

 果たして。

 それから三十秒もしないうちに、柄の悪そうな一団に出くわした。

 島崎はその中に見覚えのある連中が何人か混ざっているのに気付き、確信した。

 ──テコンドー部だ。

 一団は島崎達の前で立ち止まると、こっちを睨みつけたまましばし静止した。

 前を塞がれるような形で立ち止まられたため、こっちも立ち止まらざるを得ない。

 睨み合いが始まった。

 後方の男がガムを噛む音だけがその場に響く。

 島崎は早くも心細くなった。

 校舎の影が落ちる場所で、男達は切れるような視線で威圧する。

 対する連上は、まるで池に泳ぐ白鳥を見ているかのような優雅さで、連中を見返している。

 

「……ちょっと来い」

 

 一分ほどでガン付けを切り上げ、先頭にいた男が顎を右方にしゃくった。迷いもない様子でその方向へ進んで行く。

 連上は迷いなく一団の後ろについて歩き出した。慌てて島崎も続く。

 何もわざわざ向こうの動きに従ってやる必要はないのではないか──テコンドー部にペースを握られることに危機感を覚えながら島崎は連上の表情を窺うが、まるで緊張感が感じられない。

 

「あ、あれ。あそこの理科室で昨日喧嘩があったらしいよ──ほら、窓ガラス割れてるだろう」

 

 能天気そのものである。

 

「お、おい」

 

 島崎の声から不安を嗅ぎ取ったのだろう、連上は振り返ってにこりと笑った。

 

「大丈夫。この日のために、準備はすべてしてきた」

 

 

 

 テコンドー部部室の中は、相も変わらず薄暗かった。

 面積が広いこともあり、戸を開けても隅まで光が行き渡らないのだ。

 島崎は、不明瞭な視界の中にいくつもの害意を感じた。見えずとも感じ取れるほどに、部屋のそこここから暴力の気配が発散されている。

 部屋の奥──かつて島崎が単身で乗り込んだ時には梁山が鎮座していた場所から、ドスの効いた低音が響いた。

 

「よく来たな。もう観念したか?」

 

 そこに立っていたのは、不良達の中心に陣取る鋭い眼をした長髪の男──二年の渡辺修わたなべおさむ。梁山からの指示を受け、現場にて部員をまとめる副将的存在である。

 

「今日という日までに何の動きも打たなかったのは失策だったな、連上。球技大会という場は俺達のホームグラウンド──悪ガキにお仕置きするにはまたとない機会なんだぜ」

 

 背後の不良達が不気味な笑みを浮かべている。

 

「生徒のほとんどが校庭や体育館に集中し、そばに誰もいないという状況を作りやすい。かつ、個々人で出る種目が違うこともあってクラスの一人二人が欠けていても気にされない。先輩と後輩が一緒にいても怪しまれることはないし、不慮の事故による負傷があっても不自然ではない。あらゆる点で、俺達の側に有利になるような条件が揃ってんだよ。要するに」

 

 渡辺はそこでわざと言葉を切り、連上と島崎をじろりと見やった。

 

「球技大会まで決着を持ち越した時点で、お前の負けは決まったんだ」

 

 今までの島崎ならば、震えあがっていたかもしれない。

 しかし、今日の島崎は気圧されることはなかった。

 ──震えない。

 渡辺の凄みに、島崎は大して恐れを感じない。

 なぜなら、渡辺の眼光は──常識の地平の上にあるからだ。怖がらせよう、萎縮させようという計算が見えている時点で、それは理性の範疇にあるものだ。

 開会式の際に垣間見た南岳のそれとは、まるで比べ物にならない。

 

「──はっ、下らないねえ」

 

 連上も同じように感じたのだろうか──目の前にいる屈強な男を、心底小馬鹿にした表情で嘲笑した。

 

「まったく、馬鹿だとは思ってたけどここまでとはね。髪の毛を染めたり一生懸命に形を整えたりする前に、そのあまりにお粗末な頭蓋骨の中身をなんとかするべきだってことにそろそろ気付くべきだよ、ばーか」

 

 ばーかばーかと子供のような口調で数回繰り返した後、急に声のトーンを落として──底冷えのする語り口で、連上は静かに場のすべてを威圧した。

 

「球技大会こそ邪魔者を叩くのに絶好の舞台──あんたが散々語ったその思惑、とっくのとうに全部読まれてたことにまだ気付かないのかよ」

 

 渡辺の表情が変わった──演出された凶気が吹き飛んだ。

 

「さっきの言葉、そのまま返すよ。今日まで様子見を決め込もうと選択した、その時点であんた達は全員あたしの手の中に落ちた」

 

 そう言うなり、連上はジャージの上着の前のファスナーを開けて内側に手を突っ込んだ。

 すぐ隣にいた島崎には見えた。ジャージの内側に、似た色の布を縫い付けて隠しポケットが作られている。

 出したのは黒い円筒状のものだった。導火線のついたそれは──

 

「ダイナマイト──」

 

 誰かがそう言った。その瞬間、動揺が伝播して場の空気が波打つ。

 しかし連上は馬鹿だなあ──と一笑に付した。

 

「そんな危ないもの使うわけないじゃん。これは発煙筒」

「発煙筒?」

 

 そこで連上は不敵に笑い、天井を仰ぎ見た──そこにある何かを確認するように。

 

「!」

 

 島崎はそこでようやく、なぜ連上がここで囲まれたかを悟った。

 そう、まさに連上は目的ありきで不良達に自らを囲ませた──わざとこの状況を作り出したのだ。

 閉ざされた室内。そこで焚かれる発煙筒──もうもうたる煙。人数の多さは不利な要素に転じ、奴らはうろたえる。こちらはその隙にゆうゆうと脱出できるというわけだ。

 そして連上の思惑はここからなのだ。奴の本当の狙いはおそらく、室内に取り付けられた火災報知機を作動させることだろう。

 火災報知機は声高に煙の在処を告げる。誰もが慌ててここに駆け付ける──そこにいるのは、いかにも馬鹿な騒ぎをしでかしそうな不良達である。

 こっちはさっさと脱出し、知らぬ顔を決め込んでいればいい。奴らは元々大所帯の上に予想外の展開による動揺があり、さらに煙で視界が少なからず悪化するわけだから、そう早く逃げ出すことはできないはずだ──仮にこっちの脱出が失敗したとしても、かたや品行方正な優等生、かたや素行の悪い不良達。疑いの矛先が向く方向は一目瞭然である。

 早い話が、連上は自ら騒ぎを起こし、あろうことかそれを丸ごと目の前の連中になすりつける腹積もりだったのである。こんな騒ぎを起こしたと知れれば不良達は教師達にマークされ、不穏分子への攻撃どころではなくなる──防御にして攻撃、消極的と見せかけて積極的な一手だった。

 そう考えると、わざわざ囲まれに行ったのも、この出口が一か所しかない場所に誘導したのも──深読みをすれば転校してきて以来徹頭徹尾猫を被って優等生ぶってきたことすらも、すべてこの時のための下準備に過ぎなかったのかもしれないと思える。実際にそこまで計算づくかどうかは島崎には判断のしようがないが、そう思わせるだけの迫力は十二分にあった。

 不良達はひるんでいる。

 連上は笑みを浮かべた。

 

「やめておきなよ、連上君」

 

 背後から声がした。

 島崎は反射的に振り返った──四人の強面を引き連れた梁山正貴がそこにいた。言葉は静かな物腰だったが、細い目には相変わらず爬虫類じみた威嚇の光をたたえている。

 連上は振り返らないで、発煙筒をしっかり握ったまま口を開く。

 

「こりゃどうも、梁山先輩。島崎君、あたしの背後は君が守れ」

「あ、ああ」

 

 島崎は言われた通りに連上と背中合わせに立つ。確かに二人して振り向けば室内の不良達に発煙筒を奪われかねない──こうして両面に対応するのが最も良い陣形だろう。

 梁山は、向かい合った島崎に一瞬ちらりと視線をよこしたが、すぐにまた奥の連上に焦点を戻して語りかけた。

 

「発煙筒なんて無粋な真似は止した方がいい。見ての通り──いや見てはいないのか──まあいいや、この通り出口は塞いだ。この状況で発煙筒を使えば、君達も現場に残ったまま衆目に晒されることになるぜ?」

「あたしみたいなおしとやかな女の子がこんなものを振り回してたなんて誰が信じるの? 何ならあんた達全員が寄ってたかってあたしを襲おうとしたって証言してもいいんだけど」

「そんなことを吹聴したって、証拠は何もないじゃないか」

「この状況そのものが証拠になり得ると思うけど」

「その言葉は君に対しても当てはまるようだな」

「どっちを信じるか、という話の流れに持っていけばいいだけの話」

「それこそ、数の力がものを言う状況じゃないかね? 俺達全員はすでに口裏を合わせる用意はできている」

 

 互いに、相手の言葉の末尾に被せるように言い合う。

 緊迫した空気が淀んで、部屋の中心に渦を巻いた。

 

「ふう……譲る気なし、か。どうやら膠着状態のようだね」

 

 梁山が両手を上げる。

 

「いつまでもこうしているわけにもいかない。ここはお終いにしようじゃないか──俺達は何もしない。だからどうか、そんなものはしまって出て行ってくれないか? 今回は一部の部員の独断行動で迷惑をかけたね、すまなかったよ連上君──それと、ええと──島崎君」

 

 しれっと言い放った梁山に島崎は反感を覚えた。

 

「ちょっと待てよ──独断行動だと? 責任逃れをするなよ。裏で糸を引いていたのはあんただろ」

 

 島崎が言いつのると、梁山はへらへらと軽薄な笑みを浮かべた。

 

「何のことだい? 俺はたまたまここに立ち寄っただけだ。範疇外だよ。これは一部の部員達の──どうやら渡辺が主導したようだが、自発的な行動でしかない」

「はあ?」

「うちの部員は結束が固いからね──俺の顔に泥を塗った君達に、こいつらは我慢がならなかったようだ。申し訳なかったね、ほんと」

「ぬけぬけと、この──」

「いや、美しい話だねえ。ほんと、素敵な部員ばっかりだ」

 

 憤る島崎の言葉を遮って、険悪な調子で連上は言った。梁山の言うことなど微塵も信じていない口ぶりである。

 島崎には連上の言わんとすることがわかった。

 これ以上言い争っても無駄──か。

 

「ふふん」

 

 梁山は鼻で笑いながら肩をすくめて、おい──と不良達を一喝する。

 まず渡辺が頭を下げ、周りの者も不服そうにしながらそれに続いた。

 連上は不良達が頭を垂れている様を数秒眺めてから、ゆっくりと出口に向かった。

 梁山が脇にどき、島崎と連上は外に出た。あくまで緩慢な動作で、連上は発煙筒をポケットに押し込む。

 

「ありがとう。それじゃ」

 

 梁山は島崎の肩をぽんぽんと叩き、おざなりに手を振って部屋に入っていった。

 

「引き分けに持ち込まれた──な」

 

 島崎の言葉に、連上は答えないまま歩き出した。

 

 

 

「どうやら向こうもこの日を決戦と決めて、それなりの細工を打ってきたようだよ」

 

 連上がそう言ったのは、部室からある程度離れてからだった。

 

「どうしてそう思うんだ?」

「表情に余裕が滲み出ていた。おそらく、今の一件はほんの小手調べだろうね」

「対策はあるのか?」

「奴らは生徒会の汚れ仕事を一手に引き受ける秘密部隊だからね──今回も今までと同じように、一般生徒には気付かれないままあたし達を始末するつもりだろう。逆に言えば、テコンドー部は誰にも見られないような場所でしか機能しない。それがわかっていればいくらでも手の打ちようはあるよ」

「そうか──準備はすべてしてきた、って言ってたもんな。もしかしたら、携帯も隠し持ってるのか?」

「うん、持ってるよ」

 

 連上はジャージの隠しポケットから携帯を取り出して見せた。

 島崎は安心して息をつく。

 

「なら、いざとなればいくらでも助けが呼べる。完全に裏をかいたな」

「──いや、それはどうかな」

「え?」

 

 連上は携帯を開き、画面を見るとすぐに小さく嘆息した。

 

「やっぱりだ──携帯が通じない」

 

 連上は島崎に画面を見せた。確かに、電波状況は圏外と出ている。

 

「ど、どうしてだ?」

「おそらく、校内一帯に電波障害の細工を施したんだろうね──携帯を持っている可能性も読まれていたわけだ」

 

 連上は島崎を──いや、むしろ島崎の背後に焦点を当てて見通した。

 

「あたし達は、檻に囚われた」

「どうするんだ!」

「大丈夫、安心していいよ。この程度のことは予測の範疇──携帯が封じられたってどうということはない」

 

 連上はゆっくりと歩を踏み出した。

 

「あたしにだって、牙はあるんだからね」

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