翡翠の森

蒼翠琥珀

泉の精霊

 今朝のアレは一体何だったのだろう。


 時間が経って、少し冷静になった。昼が過ぎ、客足も引いて、ようやく一段落したし、今なら少しは考える余裕がある。少し休もうと、ジンジャーエールを入れて、テラス席の籐椅子に腰を落ち着けた。


 今朝、翡翠カワセミの森へ立ち入ったのは、泉の水を汲むためだ。

 泉は森の奥深く。わざわざ行こうと思わなければ、決して辿り着かない場所にあるから、普段誰かに遭遇することはまず無い。


 だが、今朝は違った。



   ***



 樹々が心地よさそうにさざめいていた。

 森の奥から流れてくる爽やかな風が葉を震わせる中、泉に近づくにつれ、澄んだ歌声が聞こえてくる。心が洗われるような透き通る歌声は艷やかで、どこか色気を孕んでいた。

 森の奥が明るい。

 生存競争に余念がない森の植物たちが光争奪戦を一時休戦し、歌声に耳を澄まして喜びを感じていた。


 期待と不安を抑えつけて踏み込んだ泉の空間は、鬱蒼とした森の中にしては少し開けており、樹々の切れ間からいつも陽が差している。いつものように、蒼々あおあおとした苔やシダもしっとりと生い茂り、宙を舞う塵や霧が陽の光に煌めいていた。


 だが、全てがいつもと同じ……ではなかった。


 泉のほとりで数羽の兎が鼻をひくひくとさせ、対岸には牡鹿と牝鹿が寄り添うように現れた。樹のうろから這い出てきた栗鼠リスが枝の上を駆け、小鳥たちは歌声に合わせて喉を振るわせている。

 動物達の気配は普段から森の中にある。だが皆一様に、その姿を密やかに隠しているのだ。こんな風に集まっているのを見たのは初めてだった。皆が皆、歌声に耳をそばだてている。


 泉のほとりにある大岩の上に、一人の少年。


 歌声の主は恍惚とした夢見心地のような表情かおで歌っていた。小鳥たちが共にさえずり、柔らかな陽の光が降り注いでいる。琥珀色の髪は陽を浴びて輝き、纏う空気さえも艶めく姿はあまりに神々しく、別次元の存在にさえ思えた。


 やがて歌が止み、泉の水が思い出したように音を立て始めると、息を殺して静寂を生み出していた森が再びささやきだした。牡鹿が泉の水に首を伸ばし、兎たちは草をむ。

 少年は小鳥たちが自身に留まっていることに初めて気がついたらしく、驚いた表情かおをする。枝から飛び降り岩を駆け上った栗鼠リスがそのままの勢いで少年を這い上がり、身体よりもふっくらとした尻尾で少年の頬をぜると、少年はくすぐったそうに弾けるような笑顔を見せた。


 一瞬にして目を奪われた。いや、既に心も奪われていた。


 思わず抱えていた瓢箪ひょうたんを取り落してしまった。軽くてくびれた部分が丁度持ちやすいので、泉の水を汲む為に持ってきたのだ。

 控えめなカサリという音を立てて瓢箪が転がると、ハッとした兎たちが一目散に逃げ出し、こちらに気がついた少年と目が合った。ほんの一時いっとき驚いた表情かおをしたものの、直ぐに無邪気な笑顔を向けられた。


 もう目を離すことはできなかった。いや、初めからずっと離せずにいた。


 少年が大岩から飛び降りると、小鳥たちが一斉に飛び去る。少年の首に尻尾を巻きつけるようにして依然と肩に乗ったままの栗鼠リスをぼんやり眺めていると、身動きどころか、まばたきすらできないうちに、少年がすぐ目の前に居た。

 

 細身で小柄な印象だったが、頭半分ほど背が高い。柔らかい笑みを湛えた少年は、おもむろにこちらに手を伸ばした。触れた部分が温かい。身体が硬直し、顔に一気に血が上るのが分かった。気がついた時にはその腕に抱き寄せられていたのだ。

 いつの間にか栗鼠も姿を消しており、泉のそばの陽の当たる明るい空間に居るのは自分と少年だけだった。


「怖がらないで」


 不意に耳元で歌声と同じ凛とした声が響いた。それと同時に、青林檎のような甘く爽やかな香りがする。ふわりと髪を撫でられ、その滑らかな手が頬に添えられた。

 眼の前にある顔は美しく、まるで神話を描いた絵画。色白の肌にほんのりと朱に染まった頬と、つやつやとした桃色の唇が印象的だ。


 その顔がゆっくりと近づいてきて、下唇をやんわりと小鳥のように啄まれ、閉ざした唇の隙間を潤んだ舌先がつっとなぞる。突然の、しかも初めての柔らかな感触に頭が真っ白になる。

 されるがままに舌を絡め取られ、背筋にゾクリと電流が走り抜けるような感覚の後、不思議なことが起こった。まっさらのカンヴァスになった自分の中に、色鮮やかな光景が描かれてゆくのを感じたのだ。


 サラサラと音が聞こえてくるような水が湧き出る泉に、温かみを感じさせる陽光が降り注いでいる。存分に水を吸った苔がふっくらとし、丸まっていたシダがその手を広げ、翡翠カワセミが樹上から一気に泉に飛び込んだ。


 一連の映像は、この泉に初めて来た時の感動そのものだった。

 暫く身をゆだねている他無かった。いや、そうしていたい心地良さを感じていた。


 ようやく解放され、美しく満足げな色に満ちた表情かおが目に入る。その新緑を思わせる美しい翠色の瞳に呆然と見入っていると、少年もきょとんと見つめ返した。

 不思議な間の後、少年は何か閃いた顔をして、もう一度唇を重ねてきた。今度は幾分遠慮なく吸われた気がした。


 そこでやっと、自分が何をされているかに思い至り、あとは無意識だった。


 勢いよく少年を突き飛ばし、一目散に駆け出した。水飛沫しぶきが目の端に映り、水の跳ねる盛大な音が聞こえたが、構ってなどいられない。


 歌っている時は、もしかすると泉の精霊だろうかと思った。

 でもきっと、あれはあやかしの類だ。理解の及ばない存在。美しい姿で人間ヒトたぶらかし、騙したり虜にするあやかしなのだ。

 既に自分は手の内に堕ちているのかも知れない。それでも直ちに離れた方が、逃げた方が良いに決まっている。

 そう信じる他無かった。


 見慣れた森の中がまるで異世界に見える。

 足はもつれそうだし、息は切れる。胸が破裂しそうで苦しかったけれど、構わず来た道を必死で駆けた。



   ***



 そこまで思い返してジンジャーエールを口に含み、木の枝に吊るした卵型のハンギングチェア中に深く座り直した。樹のうろのような、樹上の鳥の巣のような空間に収まっているのは何とも心地いい。のんびりと時を過ごしたり、昼寝をするのに丁度良い空間はさざ波の立つ心をいくらか落ち着けてくれた。水汲み用の瓢箪を置いてきてしまったことも、どうでもいいかと思えてくる。


 少し昼寝しよう。そうすれば、今朝のことも、今もまだ残っているほのかな胸の苦しさも、きっと夢だったと思えるはず……

 温かく風が心地よい昼下がりに、卵型のハンギングチェアの中で丸くなった。


「こんな処に居たのか」


 不意にハンギングチェアが揺れた。頭上の樹に鳥が舞い降りたにしては、幾分重い。声が聞こえた気もしたが、気にしないことにする。今は頭と心を休めることが大事だ。

 また揺れた。今度は樹の上から何かが飛び降りてきたような気配がした。

 でも、それもきっと夢だ。

「おーい。おいったら。寝てるのか?」

 なんだろう、この呑気な声は。

 ハンギングチェアに差し込んでいた陽の光が遮られたような気がして、思わず薄っすらと目を開けてしまったが、人影を感じて、すぐさま閉じた。

 同時に身体を捻って背を向けた。

「おーい。狸寝入りって言うんじゃないのか? そういうの。俺を騙そうったって、そうはいかないぞ」


 騙すですって⁉ それはこっちの台詞……


 居ても立ってもいられずに勢いよく身体を起こすと、すぐ目の前に見覚えのある美しい顔があった。いつの間にかハンギングチェアの中に乗り込んできていたのだ。

 にんまりと口の端を上げたその顔を見て、言葉にならない悲鳴を上げると、慌てた少年に腕を取って引き寄せられ、顔を胸に押さえつけられた。

 細い体のどこにそんな力があるのかという程に少年は力強く、身動きできなかった。もう何が何だか分からず、息苦しい。

 知らぬ間に目の端に涙が溢れていたらしかった。


 不意に自由になり、頬に流れた涙がそっと拭われた。ぼんやりしているうちに、目元に残る水も残らず舐め取られる。

「ごめん。泣かせるつもりなんて……」

 もしかして、このあやかしは犬か何かなのだろうか。

 今度はそのまま優しく抱きしめられ、初めの時と同じ温もりに涙が溢れ、不思議と安堵している自分に混乱した。腕は力強くも、肌は吸い付くような滑らかさだ。

「頼むから、泣かないでくれ」

 少年は叱られた子犬みたいな顔をして、今度は傷を舐めるように唇をんだ。


 また……何故そうも当たり前のようにするのか。

 今朝の今朝まで、他人と口づけを交わしたことなど無かったのに。一体何が起こっているのか分からないけれど、気にしている自分の方が変にも思えた。

 それに少年には悪気など微塵もない事が不思議と理解できた。そこにあるのは温かな慈しみだけで、今度のそれは子守唄みたいにあまりに優しい。慰められるように次第に心が落ち着いてゆく。

 同時に自分を理解してもらえたような気さえした。


「落ち着いたか?」

「なぜ、なの?」

「え?」

 ポツリとこぼした言葉に、少年は不思議そうな顔つきで答えた。

「なぜ、わたしに構うの?」

「なぜって、俺はあの瓢箪ひょうたんを届けに来ただけだ」

 ジンジャーエールが入ったグラスの横に、見覚えのある瓢箪が置いてあった。

「ちゃんと水も汲んでおいたんだ。褒めてくれ」

 少年は口角を上げて得意げに微笑んでいるが、こちらはそれどころではない。

「そうじゃなくて、今朝、わたしに……」

「ああ。凄く清々すがすがしい気分だったから、直ぐにでもあの感動を誰かと共有したかったんだ」

 少年は不思議そうな顔で首を傾げてから、ああ、と閃いたような顔をしてにこやかに答えた。まるで当然のことだとでも言うような口ぶりだ。


「あなたは感動を共有するために、誰とでも口づけを交わすの?」

 顔が赤くなるのが分かる。勢いに任せて口にしたものの、あの時感じた腕の温もりと唇の柔らかさを思い出してしまった。

「んー、誰とでもってわけではないけれど、共有したければするけど?」

 聞いたこちらが馬鹿だった。なにせ相手はあやかしだ。こんなことは、きっと挨拶程度なのだろう。


口伝オスクで相手の心にイメージを直接描くんだ。あの泉の光景、綺麗だったろう? もう一度見せてやろうか?」

 少年はにんまりとした顔をずいと寄せてきた。

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