そしてコギトの彼方まで

朝沢コール

① 他人と知りせばかけざらましを

 師走の終わりの寒い夜だった。

 

 私はいつも通り、事務所を出て自宅への道を歩いていた。コートにマフラー、口元にはマスクを着けて、冷たい風に吹かれながら足取り重く歩いていた。

 

 マスクもすっかり生活必需品として人々の間に定着した。喉が弱い私にとって、マスクは乾燥対策になる。それに、少なからず防寒対策にもなる。

 私は、マスクが好きだった。

 

 駅までの道を歩いていると、大学院時代お世話になった先輩とすれ違った。

 マスクをかけていたため、厳密に言えば先輩と似てる人、なのだが。

 

 この先輩は学生時代、勉強や人生の相談に乗ってくれたり、困った時には進むべき道をさらりと示してくれる、頼りになる人だった。

 

 昼夜を問わずカフェに行っては法律や人間関係の話に盛り上がり、こんな面白い人物に出会えるなんて大学院まで進んで良かったと、そう思えるほどに敬愛できる先輩だ。

 

 そんな恩人とも呼べる人だが、お互い卒業して職に就いてからは自然と疎遠になってしまっていた。

 

 尊敬してやまない先輩であるが故、同期や友達と同様に接するのとは違った配慮をしてしまい、なんとなく急務の連絡以外はとらなくなってしまっていたのだ。


 そんな先輩と偶然街中ですれ違ったのだから、驚いた。

 場所は横浜の繁華街の横道。おそらく仕事帰りなのかスーツを着ていた。

 

 全体的にウェーブがかかった髪質とヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばしたであろう前髪。

 まぎれもなく私の知る先輩だった。


 私はすれ違った後、一瞬の間をおいて振り返り、その人の名前を呼んだ。

 マスク越しで声がこもったのか、1回では気付かれなかった。

 もう一度名前を呼んで、「おつかれさまです!」と声をかけてその人の背後に近寄った。

 

 その人は私の声に驚いたように振り返った。

 そしてまじまじと私を見つめ、「はい…?」とだけ答えた。

 私は違和感を覚えながらその人の近くへさらに歩み寄った。

 

 至近距離で見たその人は、知らない人だった。

 全くの他人だった。


 体格、髪型、雰囲気、すべてがそっくりなだけの、赤の他人だった。

 間近で見ると分かるが、目の大きさや涙袋の膨らみなど、顔のパーツが私の知っているそれとは大分違っていた。

 

 私は、目が悪かった。


 「あ、すみません。間違えました。」。私は小声で謝り、さっと頭を下げた。

 その人の方も私の顔を見て、全く知らない人だなと判断できたのだろう、軽く会釈をしてから、それまでと同じようにまた歩き始め、去って行った。


 残された私は、その人の背中が夜の街に消えていく様子を、呆然と眺めていた。


 その時の私には、恥ずかしくてその場を逃げ出したい、というような感情はなかった。

 恥ずかしさと情けなさと、急に湧き上がった先輩への懐かしさとが混じった複雑な感情に、体全体がどんよりと包み込まれていた。


 先輩は最近何をしているだろうか。仕事で忙しいだろうか。また食事に誘ってみてはどうだろうか。


 そんなことを考えながら、私はまた、寒波の到来した師走の冷たい風の中、家路に向かってよろよろと歩き始めた。


 他人と分かっていたならば、声をずに済み、そして恥をこともなかったであろうに。


 私はマスクのことが少しだけ嫌いになった。





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