第41話 大津波

 ロイたち一行が山を登り、グランダル国との国境に向けて山を下り始めると、グランダル国はもう間近に迫っていた。

 遠方に見えるグランダル国の上空は、黒い雨雲が覆い、大地に雨を降らせていた。

 「この季節に雨が降ることなどないグランダルの砂漠地帯にまで雨が降るなんて、エドが言っていたことは本当だったのだろうか」

 ロイは、目の前の信じられない光景を目にしながら思わず呟いた。

 「雨の事など気にするよりも、今はもっと重大なことがあるのではないのか?」

 リディアが、眼下の向こうに見えるグランダルの港湾を眺めながら言った。

 ロイたちが、リディアの視線の先に目を移すと、グランダル海軍の軍船いくさぶねが艦隊を組んで港湾に集結し、全ての軍船いくさぶねが今まさにトラキアに向けて出港し始めているところだった。

 「遅かったか…」

 「師団長殿、グランダルの海軍が全船を集結させて出港し始めたということは、恐らく、クベス王は、水も食糧も確保するのが難しくなった祖国を捨てて、トラキアに攻め込んで都をトラキアに移す気なのでしょう。もしそうだとしますと、ステイシア姫は、あの軍船のどこかにとらえられているかもしれません。軍船が出港してしまえば、我々にはもうどうすることも出来ません。ここはひとまず、伝書鳩を飛ばして、メテル様にこのことを伝えて、ご指示を仰ぎましょう」

 クロードが、やや諦めたような声でロイに提言すると、すぐには答えを出せずに悩み始めたロイに代わって、リディアが答えた。

 「今さらそんなことをトラキアの連中に伝えたところで、どうにもならぬ。それよりも、トラキアのことは、グランダル軍をせん滅すると言っていた臥神に任せて、我々は、このままグランダルに向かったほうがよかろう。たとえトラキア本国に戻ったとしても、我々にはどうすることも出来ぬのだからな」

 「しかし、あなたの目的は、母親のかたきであるクベス王を討つことだったはずです。もしクベスがあの船団のどこかに乗船しているとすれば、今からグランダル国に乗り込んだとしても、船が出港してしまえば、もう打つ手はないのではありませんか?」

 ロイも、クロードと同じように、やや諦めかかったような声で言った。

 「クベスは、まだ乗船などしておらぬ」

 リディアは、鼻で笑いながら答えた。

 「クベスは、用意周到な男なのだ。自分の命を危険にさらすようなことなど絶対にせぬ男だ。そんな男が、戦場にわざわざ出向くことなどするわけがないのだ」

 リディアは、クベスが城を出て海軍の戦船いくさぶねに乗船すると言っていた臥神の言葉は信じてはいなかった。

 「では、クベスはまだ城にいるとおっしゃるのですか?」

 「そうだ。私はこの時を狙っていたのだ。今がまさにグランダル国内が手薄になろうとしているときなのだ。私は、このままグランダルに向かうが、そなたたちは、どうするのだ?トラキアに戻るのはそなたたちの自由だが、ステイシア姫を国外に連れ出す手筈をレイ王子が整えていることを、姫が書簡でわざわざ伝えてきたのは何のためなのだ?そなたたちは、姫を迎えに行くために、わざわざこんなところまで命懸けで来たのではなかったのか?」

 リディアの言う通りだった。まだステイシア姫が拘束されて船団に乗船させられていると決まったわけではなかったのである。

 「確かにその通りです。軍の指揮官であるレイ王子であれば、国の内情や軍の計画などは良く分かっているはず。そのレイ王子が姫様の救出の手筈を整えているのであれば、恐らく姫様はすでに出国に向けて準備されていることでしょう。我々もあなたと一緒にこのままグランダルに向かいます」

 ロイは、リディアに鼓舞されるように、このままグランダルに向かう決意を固めた。

 ロイたち一行が、再び馬を進めると、グランダルの港湾の方向から、かすかに号音ラッパの音が聞こえてきた。

 「どうしたのでしょう?グランダルの船団が進行をめたようです」

 クロードが眼下の船団を眺めながら言った。

 ロイたちが、グランダル軍に何があったのだろうかと、しばらく眺めていると、上空から何かが降下してくるのが見えた。

 グランダル軍の船上の弓兵隊が、その物体に向かって一斉に矢を放ったが、その物体には全く届かないようだった。

 「あれは何でしょう?」

 空を飛ぶ奇妙なものを初めて見たクロードが、好奇の目でその物体を眺めながら呟いた。

 「恐らく、あれが気球というものなのだろう」

 「師団長殿は、あの物体をご存知なのですか?」

 「いや、私も初めて見るが、臥神は、あの気球という乗り物に乗って、アマラ神殿に現れたらしい。グランダル軍も、その乗り物に乗ってアマラ神殿に攻め込んできたとのことだ。グランダル軍が、あの物体に矢を放っているところを見ると、あの物体に乗っているのは、グランダル軍の兵士ではなく、臥神なのかもしれないな」

 ついに、臥神がグランダル軍のせん滅に向けて動き出したのである。

 ロイは、巨大なアマラ神殿を簡単に崩壊させてグランダル軍を撃退した臥神であれば、今回も何らかの策略をもって、グランダル軍の艦隊のトラキアへの侵攻を食い止めてくれるのではないかと、心のどこかで期待しながら気球を眺めていた。

 「師団長殿、あちらをご覧ください」

 近衛兵の一人が突然、グランダル国の対岸にある遠方のトラキアの方角を指し示しながら言った。

 「かすかにではありますが、狼煙のろしが上がっているのが見えます」

 ロイは、思い出したように巻物を懐から取り出して、改めて記載内容を確認した。

 そこには、『狼煙を合図に、高台に速やかに退避すべし』と書かれていた。

 ロイには、それが何を示唆しているのかはすぐには分からなかったが、別の近衛兵の次の一言が答えへと導く糸口となった。

 「師団長殿、海岸線をご覧ください!潮が急激に引き始めています!」

 ロイをはじめ、全員が海岸線に目を向けると、その目を見張る光景に、全員が言葉を失った。潮がそれほど短時間に引く光景など、見たことがなかったからである。

 海岸線は、引き潮によって急速に沖へと遠のいていった。

 突然上空に現れた気球への応戦で停船していたグランダル軍の戦船いくさぶねは、沖へと逃げるように移動し始めた。しかし、潮が引く速度が速すぎたため、水深が異常に浅くなり、動けなくなってしまう船もあった。

 「津波だ!津波が来るぞ!」

 リディアが突然叫んだ。

 リディアは、海上での戦い方や生き残る方法、海に潜む危険性などについても、グレン=ドロスに幼い頃から叩きこまれていたため、津波がくる前兆のこともよく知っていた。

 「津波が来るのだとすると、ステイシア姫のことが心配だ!急いで救出に向かうぞ!」

 グランダル国にある発掘調査対象の巨大遺跡は、沿岸付近にあり、もしまだステイシア姫の調査団がグランダルを出国していなければ、津波に襲われる危険性があるため、ロイは、クロードたちに指示して、全速力で馬を走らせて山を下り、グランダル国を目指した。

 しかし、津波は予想以上に速い速度でグランダル国の沿岸に押し寄せてきた。

 遠方の沖合で異常に膨れ上がった海水が、屹立きつりつした山脈のごとく巨大な壁と化し、たけり狂う雷鳴のような轟音を立てながら、沿岸に迫って来たのである。

 飛沫しぶきを上げた真っ白な波頭なみがしらの巨大な海水の壁は、それだけを見れば美しく見事なものではあったが、その巨大さゆえに、その破壊力は想像を絶するものと思われた。

 そして、グランダル軍の艦隊は、次々と、襲い来る津波に呑みこまれ、沿岸に押し流されて、すべての戦船いくさぶねが大破した。それはまるで、大自然の脅威からすれば、人間の造った船など、幼子おさなごの手でも簡単に破壊できる脆弱ぜいじゃくな模型のようだった。

 ロイたち一行は、その凄まじい光景を山腹さんぷくからの当たりにし、驚愕と恐怖に圧倒されて、再び言葉を失ってしまった。

 あらゆる物を呑みこんで内陸部に押し寄せた津波は、巨人族の建造した巨大遺跡を除く全てのものを破壊し尽くした。

 沿岸付近にそびえ立つグランダル城も、例外ではなかった。堅固な城壁も、粉々に破壊されて海水に押し流された。

 たとえ、クベス王がグランダル艦隊のいずれの船にも乗船せずに、グランダル城に残っていたとしても、これほどの破壊力を持った津波から逃れることは出来ないだろうと、リディアは思った。

 「終わったな…」

 積年の恨みを晴らし、リディア自身の手で復讐を遂げるということは、実現は出来なかったが、クベス王は、予期せぬ巨大津波という海水の脅威によって、命の炎を消されたのであった。

 グレンや恵土ケイトも、この津波に呑まれてしまったのだろうか…。

 リディアは、ふと、自分の育ての親であるグレンと恵土のことが心配になったが、グレンと恵土であれば、津波の予兆を察知して、何とか逃げ延びているのではないか、いや、逃げ延びているはずだと、自分に言い聞かせるように、心の中で彼らの無事を祈った。

 「それにしても、あれほど巨大な津波は、どうして起こったのでしょう」

 クロードが我に返って、ロイに視線を向けて呟くように言った。

 「まさか、あの津波まで臥神が引き起こしたというのか…」

 臥神の言葉通りに、トラキアに攻め込もうとしていたグランダル軍はせん滅されたが、果たして、自然の力まで人間が操ることなど可能なのだろうかと、ロイは感じていた。

 確かに、臥神は、石の特性を利用してアマラ神殿を崩壊させた。さらに、果実を利用してグスタルを酩酊めいていさせて闘技試合の初戦に勝利しただけでなく、蟲を操ってアシュベルにまで勝利した。そして今度は、気球という乗り物に乗って空を飛行してグランダル王国の上空に現れて、巨大な津波まで引き起こしたのだとしたら、臥神とは一体何者なのだろうか。もしかすると神に匹敵するほどの能力ちからを持った、人間を超越した存在なのではないかとさえ思え、そんな人物が、本当に自分の学舎で学んだあのティアンなのだろうか、と様々な思いが心の中に渦巻くのを感じた。

 「師団長殿、とにかく姫様のことが心配ですので、急いでグランダルに向かいましょう」

 クロードが、これまでに起こったあらゆる出来事を頭の中で整理できずに茫然としていたロイを促すように言った。

 クロードの言う通りだった。恐らくクベス王は死んだであろうが、ステイシア姫はまだ生きているかもしれないのである。レイ王子の手引きでグランダルを出国していてさえくれれば、恐らく命は助かっているだろう。ロイは、一縷いちるの望みにもすがる様な思いで、再び馬を走らせた。

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