第39話 再びランドルの森へ

 夜のランドルの森は、噂に聞く以上に気味の悪い森だった。リディアから話は聞いていたものの、実際に森の中に入ると、いつ魔物が現れてもおかしくないと思えるほど、辺りは暗く、陰湿な空気が漂っていた。

 「師団長殿、木々が繁茂し過ぎていて、空の星すら見えませんので、これでは方向が分からなくなってしまいますな」

 クロードが、馬上から上を見上げて言った。

 時折、木々の葉の隙間から月明かりが見える以外は、ほとんど星も見えず、松明の明かりだけが常に辺りを照らしてくれる唯一の明かりだった。

 「そうだな。とにかく星の見える場所を探して先を進むしかないな」

 ロイは、馬の歩みを止めて辺りを見廻すと、どの方向に進むべきかを考え始めた。

 すると、後ろから馬車に乗ってついて来ていたエドが、馬車から降りて何かの匂いを嗅ぐ動作をし始めた。

 「エド、何をしているんだい?」

 エドの妙な行動を不思議そうに見つめながら、ロイが尋ねた。

 「匂いを確認しているんだよ。右手の方向から、何かの腐臭のような匂いが漂ってきているのが分かるかい?」

 ロイも、エドの言う方向に顔を向けて、匂いを確認した。

 「そういえば、何かが腐ったような臭いがするようだが、これは何の臭いだい?」

 「これは、ある植物が虫をおびき寄せるために発している臭いなんだ。さっき、馬車の中で美璃碧姫に聞いたのだけれど、この不快な臭いで、侵入者が森の奥に入り込むのを防いでいるらしいんだ。そして、侵入者がその方向を避ける心理を逆手にとって、実は、その方向にこそ、隠された安全な道があるそうなんだよ」

 エドの話を聞いて、リディアは、クベス王の暗殺に失敗してランドルの森に逃げ込んだときに、その腐臭を避けて森の中を彷徨さまよっていたことが、実は間違った行動だったのかと後悔した。

 「ただし、ひらけた道にたどり着くまでは、有棘ゆうきょくつる植物が繁茂しているらしい。肌を露出させていると、とげにやられてしまうので注意が必要だ」

 エドは、全員の服装を確認し、注意喚起を行った。

 「しかし、この初夏の暑さの中、こんな格好でずっといなければならないというのは、さすがにこたえますね」

 ロイたちに同行した四名の近衛兵の一人が、鎧を着ている状態での暑さに耐えきれなくなり始めたようだった。

 「仕方がないさ。こんな森の中では、いつ、誰に、どこから襲われるか分からないので、鎧を脱ぐことは死を意味することになる。みんな、つらいだろうが、我慢してくれ」

 ロイが、近衛兵たちをねぎらうように言った。

 リディアは、どんな環境でも生き抜けるようにグレン=ドロスに訓練されていたため、この程度の暑さは大したことはなかったが、すでに森の中で体験した妖術の恐ろしさが常に脳裡のうりぎり、暗闇の森の中では、精神的な苦痛を感じていた。

 「あのつるからみ合う植物の中を通り抜けるのか?」

 リディアが右手側の腐臭の漂う方向を見つめながら、エドに尋ねた。

 「はい。あそこは繁茂する植物で行く手がふさがれているように見えますが、実は、しばらく進むと、隠されたひらけた道があるのだそうです」

 ロイは、一隊の後方にいるエドと美璃碧姫の乗る馬車や、従者たちの運ぶ散水車とウモールを乗せた荷馬車に目を向けた。

 「このままでは全員が通ることは出来ないので、つるを斬り裂いて進むしかないな」

 ロイは、腰の剣を抜き、手に持つ松明の火が、繁茂する植物に燃え移らないように注意しながら、つるたたき斬って、馬車が通れるほどの空間を作りながら進んだ。

 リディアや近衛兵たちも、同様に剣を抜きロイの後に続いた。

 しばらく進むと、エドが言ったように、ややひらけた道が見えた。

 「こんなところに道が隠されていたなんて…」

 ロイたちは、やっと月や星の位置などで方角が確認できるほどのひらけた場所に出て安堵し、剣をさやに収めた。

 「のんびりしている余裕はありません。このまま先へ進みましょう」

 クロードが、額から流れ落ちる汗をぬぐいながら先に進もうとすると、突然、左手の方向から、恐怖感をあおるような、聞いたことのない低い太鼓の音のようなものが聞こえてきた。

 「敵か!?魔物か!?」

 リディアが、すぐさま松明たいまつの明かりを消して身構えた。

 ロイや近衛兵たちも、すぐに松明の明かりを消して、音の聞こえる方向に目を向けた。

 後方の馬車から、美璃碧が何かを叫んでいる声が聞こえた。

 「今、美璃碧姫は何と言ったんだい?」

 ロイが後方の馬車に向かって叫んだ。

 「蛮族だ!彼らは、美土奴の皇族の指示には従わないので、逃げた方がよいそうだ!」

 エドが通訳して答えた。

 「蛮族だと?面白い。相手が人間であれば、恐るるに足りぬ」

 リディアは、音の方向から近づいてくる敵を見定めながら、敵の出方を探る様に馬を止めて剣を抜いた。

 ロイは、近衛兵たちを二手ふたてに分け、一方は馬車の中の美璃碧姫とエドを護るように指示した。

 すると、突然、リディアに向かって、おのが回転しながら飛んできた。

 リディアは、軽く身をかわしてそれをけると、飛んできた斧が出撃の合図であるかのように、馬に乗る蛮族たちが襲いかかってきた。

 リディアたちは、蛮族の持つ武器に目を向けた。

 彼らの持つ武器には、斧や斧槍ふそうだけでなく、長柄ながえに短柄の棍棒や鉄球が鎖で繋がれた連接棍れんせつこんなど、見たことのないような武器も含まれていた。

 リディアは、様々な武器に精通していたため、蛮族の攻撃を難なくかわしながら、剣を振るって蛮族に斬り込んでいったが、連接棍などの武器に慣れていないロイや近衛兵たちは、彼らの攻撃から身を護るのに苦心した。

 蛮族が長柄を振り回して近衛兵に襲いかかると、近衛兵は盾で防御しようとしたが、鎖で繋がった短柄の棍棒や鉄球が、盾の内側に回り込み、打撃を喰らわすのである。

 変則的な動きをする武器の攻撃で、ロイや近衛兵たちの鎧は次々に損傷を受けていった。

 「逃げたほうがよさそうだ!」

 リディアは、ロイたちが苦戦しているのを見ると、数の多い蛮族たちを一人で相手にするわけにはいかないと考え、ロイたちに逃げるように指示した。

 ロイや近衛兵たちは、馬車を護りながら、蛮族の追撃から逃れるように、全速力で馬を走らせた。

 リディアが殿しんがりを務めて防戦をしながら逃亡を図ったが、蛮族たちはリディアたちの命を奪うことが目的ではなかったようで、しばらくすると追撃を止め、いなくなってしまった。

 しかし、安心している余裕はなかった。

 近衛兵の乗る馬の一頭が、脚を突然斬り込まれ、苦痛のいななきを発して倒れたのである。

 荷馬車を引く従者の一人も、脚を何者かに斬り込まれ、悲鳴を上げて倒れ込んだ。

 リディアたちは、再び敵襲かと思い、辺りに目を配ったが、周りに敵がいるような気配はなかった。

 あのときの鎌風か!?

 リディアは、ランドルの森に逃げ込んだときに、馬と自分の左脚が斬り込まれたことを思い出した。

 「地龍チリュウだ!敵は地面の中に隠れている!煙霧草エンムソウを使って敵をいぶし出すんだ!」

 馬車の中で巻物を見ながら、美璃碧の説明を聞いたエドが叫んだ。

 「煙霧草?」

 「トラキアで言うウモールのことだよ!」

 そうか!

 ロイは、すぐに馬を反転させて荷馬車に駆け寄り、従者たちにウモールに着火するように指示した。

 ウモールは、狼煙のろしに使う草である。従者たちが火打石で着火すると、すぐに大量の煙を出しながら燃え始めた。

 ロイは、ウモールを左手に持ちながら、右手で短剣を取り出すと、それを地面に放り、目を凝らして地面を見つめた。

 短剣が地面に落ちると、それと同時に、地面の穴のふたのようなものが僅かに開き、そこから鎌のようなものが現れて、くうを斬り裂いた。それは一瞬のことだった。そして、その後は何事もなかったかのように、蓋は再び地面と同化してしまった。

 「戸立とた蜘蛛ぐもみたいじゃないか!」

 その様子を馬車の中から見ていたエドが、命が危険にさらされていたことなど忘れて、生物学者としての顔になって、笑みを浮かべて興奮しながら言った。

 それはまるで、地面の土にみせかけた扉を開いて、巣穴付近を通りかかった獲物に襲いかかる戸立て蜘蛛の行動にそっくりだったのである。

 ロイは、すぐさま長剣を抜いてその土の蓋を突き刺すと、それを持ち上げて、ウモールを穴の中に投げ込んだ。

 しばらくすると、男たちがぞろぞろと土の中から這い出てきて、逃げ出し始めた。土の中に網の目のように縦横無尽に張り巡らされた隧道すいどうの中に潜んでいた彼らが、ウモールの煙で呼吸困難に陥り、苦しくなって出てきたのである。

 「こんなからくりだったとは…」

 リディアは、臥神の言っていた、妖術によって引き起こされる現象には、すべてからくりがあるという言葉を思い出し、ランドルの森に対する恐怖心が少し和らいでいくのを感じた。

 敵が去った後、ロイとクロードは、傷を負った近衛兵の馬の脚と、従者の脚を確認した。

 幸いどちらの傷も深くはなかったため、簡単な応急手当を施した。

 馬はまだ問題なく歩けるようだったが、従者は歩くのは難しいようだったので、荷馬車に乗せることにして、再び一行は先を急ぐことにした。


 しばらく馬を進めると、周りの樹木が今までとは少し異なり始め、一行はやがて、暑さに加えて、湿度の高さにも苦しめられるようになった。

 そのため、厚い鎧で汗だくになり、体温の上昇に耐えられなくなった近衛兵たちが、かぶとを脱ぎ始めた。

 「兜は脱がない方がいいですよ。おつらいでしょうが、もう少し我慢してください」

 エドが、近衛兵たちに同情しながら提言した。

 「兜くらいなら脱いだって大丈夫でしょう。敵が来たらすぐにかぶり直しますから」

 近衛兵たちは皆、兜を脱いで汗まみれになった顔を手でぬぐった。

 「周りの木の樹上には、恐らくクネールという山ヒルが生息しています。彼らは、動物の歩く振動や体温などを感知して、樹上から落ちて来て、露出した皮膚から血を吸うので、気を付けてください」

 エドがそう言うやいなや、頭上から大量の山ヒルが落ちてきた。

 兜を脱いでしまった近衛兵たちは、頭の上に落ちてきたクネールの餌食となって、顔や首筋などの皮膚が食い破られて、血を吸われることになった。

 「ここは危険だ!キラー・スティングが襲って来るぞ!」

 リディアが、以前の体験を思い出しながら叫んだ。

 すると、リディアの言った通り、キラー・スティングの大群が、闇夜の中で、黒い龍のような影となって、近衛兵たちに襲いかかるように飛んでくるのが見えた。

 「散水車だ!甡龍シンリュウは、散水車で撃退できると書かれているぞ!」

 巻物を見ながら、エドが叫んだ。

 クロードは、すぐに部下と従者に指示して、散水車を荷馬車から降ろさせた。

 そして、散水車をキラー・スティングが飛んでくる方向に向けてから、取っ手を回して散水を始めた。

 散水車に貯め込まれていた水は、空気の圧力によって勢いよく噴き出した。それはまるで、空から降ってくる雨のように、水しぶきが落下し、水に濡れたキラー・スティングは、すべて飛翔能力を失って、地面に落ちてしまった。

 「どういうことなんだ?」

 その光景を見たロイが、エドに説明を求めた。

 エドは、馬車を降りて、散水車の中に残っている水の匂いを確認した。

 「恐らく、この水の中には、ツユシグレが混ぜてあったのだろう」

 「ツユシグレ?」

 「ああ。ツユシグレは、粘々ねばねばした植物の汁で、小鳥や小動物を捕獲出来るほどの粘性があるんだよ。それを水に混ぜて散水したので、それを浴びたキラー・スティングは、飛べなくなってしまったのだろう」

 「なるほど、そういうことだったのか」

 ロイは、エドの説明に感心するとともに、臥神がリディアに授けた巻物に書かれた適格な指示にも驚いた。臥神はすべてをお見通しだったのである。


 ロイたち一行が、襲いかかってきたキラー・スティングの脅威から逃れた後、再び美璃碧の案内に従って馬を進ませると、ひらけた空間が目の前に広がった。

 まだ森の中からは抜け出してはいないようだったが、そこは、森の中に作られた人工的な広場のように見えた。

 森の中で、何か儀式のようなものでも行うために作ったものだろうか、とロイは思った。

 その空間は、円形状になっていて、地面の中心に何かが描かれているかのような、いくつもの線が引かれていた。しかし、それは、ロイたちのいる場所からでは、何が描かれているのかは分からなかった。それほど大きなものが描かれていたのである。

 「もしかすると、これは、空から見ないと分からないのかもしれないな」

 エドが、馬車から降りて、地面の絵を見ながら呟いた。

 「空から見ないと分からないだって?じゃあ、これは、鳥たちが上空から見てこの場所が分かる様にした目印だというのかい?」

 ロイが、エドの言っている意味がよく理解できずに尋ねた。

 「いや、この絵の目的は、鳥たちのための目印ではないと思うが」

 「じゃあ、これほど大きな絵は、何のために描かれたんだい?」

 「恐らく、気球の離着陸場としての目印としているのだろう」

 「気球の離着陸場?気球というのは、もしかして、エドが話していた空を飛ぶ乗り物のことかい?」

 「ああ」

 エドは、気球という乗り物を知らないリディアや近衛兵たちには、今のロイとの会話が理解出来ないだろうと思い、彼らにも分かる様に、霞寂カジャクから聞いた話を伝えた。

 「恐らく、美土奴国も、糞樽フンダル族に学んだ、空を飛ぶ技術を使った気球という乗り物の飛行実験を行っているのだろう」

 ロイは、エドの話を聞いて、思わず空を見上げた。そこには、満天の星が、地上を見下ろすように輝いていた。

 人間も、あの星々のように、空から地上を見下ろすようになるのだろうか。

 ロイは、心の中で呟いた。

 ロイたちが地面の絵に注目している中、美璃碧は、馬車を降りて、別のものに注意を向けて眺めていた。森の樹木に留まって彼らを見下ろしている白と黒の二羽の鴉である。

 美璃碧は、その鴉を見上げながら、指笛を吹き始めた。

 リディアは、すぐに美璃碧の見ている方向に視線を移した。

 妖鴉ヨーアだ!

 リディアには、すぐに分かった。

 木の枝にまる白い鴉が、美璃碧の指笛に反応して、美璃碧の方に滑空して下りてきた。

 美璃碧が右腕を差し出すと、鴉は、その腕にゆっくりと舞い下りて留まった。

 美璃碧は、その鳥をじろじろと眺めまわした。

 「あら、あなたは崇斦スギンじゃないようね」

 美璃碧は、残念そうに呟くと、再び樹上の黒い鴉に目を向けた。

 「じゃあ、あなたも、もしかすると黎斦レギンじゃないの?」

 美璃碧は、樹上の黒い鴉に話しかけたが、反応はなかった。

 悲しそうな目で妖鴉を見つめる美璃碧に寄り添って、エドは優しく美土奴国の言葉で語りかけた。

 「残念ですが、あなたの生きていた時代の妖鴉ではないようですね」

 「この鳥たちが崇斦スギン黎斦レギンでないとすると、誰の妖鴉なのでしょう?」

 美璃碧は、うつむきながら小声で呟いた。

 「さあ、どうでしょうねえ。でも、妖鴉がここにいたのですから、もしかしたら美土奴国の宮殿は近いのかもしれませんよ」

 エドが慰めるように言った。

 「そうだったわ。私は宮殿に戻らなければならないのでした」

 美璃碧が思い出したように声をはずませて、再び馬車に乗り込んだ。

 「この辺りの森の様子は、昔とすっかり変わってしまったわ。でも、宮殿がこの近くにあることは間違いないでしょうから、急ぎましょう」

 美璃碧は、急に元気を取り戻し、エドに先を急ぐように促した。

 妖鴉がここにいるということは、あの傀儡女くぐつめがいるはずだと思ったリディアが、辺りを見廻すと、予想した通り、馬に乗った傀儡女くぐつめが、少し離れた場所の木の陰に隠れるようにして、こちらをいぶかしむように眺めていた。

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