見通

 早翔が会社に入ってから3年の月日が経とうとしていた。

 会社に勤務しながら、会計士の研修施設である実務補修所、店や出版社等、日々忙しく出入りし、早翔にしてみれば、追われるような毎日を送っていたら、いつの間にか時が過ぎていたという感覚だった。



 店では、そろそろホストから足を洗う頃合いを考えていると、早翔の指名客の中でも上客揃いのクラブのママ達が、知らない間に連絡を取り合って、早翔の都合を第一に考えたシフトで来店日を決めていた。

 元は、蘭子が会社で使う店のママを一人、二人連れて来たのが始まりだったが、そのうち早翔の客になれば黒田が店を使ってくれるらしいと噂になった。


「俺の客になったからって、蘭子さんの会社とは何も関係ないよ。あんまり当てにされても、ご期待には沿えないと思うよ」

あからさまに口利きを求められると、穏やかな口調ではあるが、はっきりと断るので、それなりに増減を繰り返していたが、黒田とは無関係に早翔の癒しヴォイスと落ち着いた会話にはまる客もいて、ここ何年かは人数も固まっていた。


「蘭子嬢が目を光らせてるから、早翔をベッドには誘えないしねぇ… 遠くでこっそり会えないかしら。お互いに一人旅して現地で落ち合うとか計画してみない」

 最初の頃は、そんな言葉で誘ってきたママもいた。

「面白そうだね。バレない自信があるなら、付き合ってもいいけど」

 涼しい顔で、そんな心にもない返しをする。しかし、大概は「やっぱりやめる」とため息交じりに返ってくる。

「バレたら怖いもの。うちなんてあっという間に潰れるわ」

 自嘲の笑いを浮かべるママに「ごめんね」と優しく微笑み返す。


 実際のところ、蘭子との会話に指名客の話題が上がったことなどなかったが、彼女たちが勝手に蘭子を脅威に感じてくれるので、早翔には都合がよかった。

 ある時、店を訪れたクラブのママ、みそのが上機嫌で早翔に話しかける。

「クラブ華花が潰れそうなんですって」と実に楽しそうだ。

「離婚した蘭子嬢の婿養子にしつこく迫ったそうよ。多分、婿養子だって知らなかったんじゃない。黒田の御曹司を手に入れればって考えたのかしら。御曹司じゃなく御令嬢だって、この界隈では知らない人はいないのに」

 そんなことで蘭子が、何がしかの働きかけをしたなどあり得ないことだが、そのことがママ達に、早翔には手を出したらヤバいことになるという意識を確固たるものにしたようだった。



「私達、早翔がホストを辞める時が、ホストクラブからの卒業かなあなんて話し合ってるのよ」

 そう言って、みそのが笑う。

 彼女は、楽しみが増えたと、率先して来店日のシフト表づくりをしていた。

「そんな辞めづらいこと言わないで。俺以外にもいいホストいるから、物色してみてよ」

 穏やかに微笑む早翔に、みそのがぽってりと膨らんだ赤い唇を突き出す。

「いないわよ。今さら口先だけでちやほやされて喜べる年齢でもないしね」

 みそのが寂しさを滲ませた笑みを浮かべる。


「何人か探しておくからさ。たまに若いホストで遊ばないと、男を惹きつける勘が鈍るよ」

「イヤな子ね…」と早翔の肩を突くと、耳元に唇を近づける。

「ホスト辞めても時々、うちの店には顔見せに来てよね。上客連れてこいとは言わないから。ライムとサイダー用意して待ってる」

 みそのは色香を漂わせ、上目遣いに早翔を見上げて艶やかに笑った。



 蘭子がノリノリで話を進めたカクテルの本は、当初、若い女性に向けたもので適度に売れた。

 顔を出さずに「HAYATO」の名義で、プロフィール蘭には一般企業に勤務していることと、「酒は飲めないが、カクテルに魅せられた男」とだけ書いて、謎めいた雰囲気を出すようアイデアを出したのは蘭子である。

 クレジットを入れることを条件に制作協力した京極が、飲食店関係者に営業をかけ、意外にも酒を提供する店に、メニュー代わりに置いたら売上が伸びたと評判にもなった。


 そうなると、切り口を変えてカクテル入門書として数冊出そうと提案される。若い女性に楽しんでもらうためだったものが、いつの間にか専門書の扱いになり図書館にまで購入される。

 商機とばかりに、出版社からはグルメ雑誌にコラムを書くよう依頼され、忙しい中、断ればいいのに引き受けてしまう。そこで書いた、お酒が飲めない人のためのカクテルレシピが話題になり、また仕事が増える。

 早翔は、あくせく働く必要もそろそろなくなりつつあっても、何となくスケジュールを埋め尽くす方向で動くのは、一つのさがだろうと苦笑交じりに諦める。



「お前はとことんまで自分を追い詰めるMだな」

 向井がぶっきら棒に言いながら、隣で寝ている早翔の乳首を捻り上げる。

 早翔がその手を払いのけて顔をゆがめる。

「ここでの時間が一番体力消耗して疲れるんですけどね。俺の身体を心配して仕事減らせと言うなら、そこんとこを配慮願いたいね。向井取締役」

 向井は表情一つ変えずにフンと鼻を鳴らす。

「下らん仕事は切り捨てて、ここでの時間をもっと増やせと言ってる」

 早翔がああとうなり、身体を反転させてベッドに突っ伏す。


 忙しいを理由に何度も断り、久しぶりに会ったその日、向井はしつこく早翔を求めて来た。

「もうかんべん… やめて…」

 早翔が背後に覆いかぶさる向井から這うようにして身体を離そうとすると、ごつい2本の腕が早翔の肩に伸び、がっちりと掴む。あっという間に身体をひっくり返され膝を抱え上げられる。

「俺の本能だから仕方がない。俺の本能がお前の微妙な変化を感じ取って、俺に無理をさせる」

 吐息は交じるが、ほぼ平時の口調で言い捨てる。


 ようやく解放されたと思ったら、下らない仕事ばかり増やしてと説教が始まったのだ。

 どうやら出版関係の仕事が気に入らないらしい。

 本業のためなら我慢もできるが、畑違いの仕事を理由に会えないことは我慢ならないということだろう。

「向井さんに無理をさせる、俺の微妙な変化って何…」

 早翔の問いに向井がしばらく黙る。

「わからんのなら、わからんでいい」


 その素っ気ない返しに、早翔の気持ちが揺れる。

 早翔の中に向井の癇に障るような変化があるとしたら、それは終わりの模索だ。

 互いに新しい恋人ができるまでの身体だけの関係として始まったにしては長すぎた。向井が新しい恋人を探す素振りもなく、早翔にはそんな余裕もなかった。それ以上に向井を利用し頼ってきた側面もある。だからと言って、このままの関係を続けるつもりはなかった。

 それは蘭子についても同じだった。金の対価と割り切った付き合いのはずだった。


 多分二人と別れるとしたら、それは会社を辞める時でもあると漠然と考えていた。頃合いとしては、会計士の3次試験に合格して資格取得したあたりだろうか。

 ただ、二人の早翔への思いに薄々気付きながら、素知らぬ振りで立場を利用して、散々世話になったのに必要がなくなったら去っていく背徳感が、早翔の中におりのようによどんで、どうにも身動きが取れなくなっていた。


 相変わらず機嫌の直らない向井から顔をそむけて吐息をつく。

「ああ、俺、明日も仕事なのに…」

「俺も仕事だ」と、乱暴に返ってくる。

「一つ訊いていいかな…」と、話題を変えてみた。

「この部屋、いつまで借りてるつもり? もしかして、昔、失敗したことを忘れないためのもの? 臥薪嘗胆がしんしょうたんって感じ?」

「それを言うなら家康の顰像しかみぞうだろ」

「またいつか独立しようとか思って残してる?」

「いや…」と短い返事が戻ってくる。

「士業の理想は独立開業だから再挑戦もありだよね」


 向井は天井に冷めた視線を投げたまま、しばらく黙っている。

「俺の理想は…」と、おもむろに語り出す。

「お前が俺と同じ立場になることだな。そうすれば俺の気持ちも少しは理解できるだろう」

 唐突に出された「同じ立場」の言葉を、早翔が思わず笑い飛ばした。

「向井さん、俺より一回り以上も上でしょ。俺、どう頑張っても同じ立場になんかなれないよ、向井取締役」


 向井もふふんと鼻で笑って話を戻す。

「ここは、解約するのが面倒なだけだ」

「無駄だよね。ここのベッドの利用率に比べ、維持費がかかり過ぎてる。普通にホテルを利用したほうが無駄がないと思うけど」

「ホテルは人目が多すぎる。それに、お前にとっては利用率が低いだろうが、俺にとってはそうでもない」

 早翔がむっくりと身体を起こし、向井を見る。

「そういうことか…」

 納得したように何度か頷く。


 向井が急に焦ったようにバカと呟き早翔に視線を送る。すでに不機嫌な様子は消え、微かに動揺の色が走っていた。

「勘違いするな。帰宅時間の調整だ。実際に仕事もしてる」

 くるりと早翔に背を向けるとしばらく黙す。

「ここのベッドはお前以外、誰も入れてない…」

 早翔がふっと笑みを漏らす。

「向井さん… 可愛い」

「可愛いだと…」


 ゆるりと身体を起こし、早翔に向き直ると、ニヤリと口元をゆがめる。

「お前はそういう年上をバカにしたような言葉を平気で使う」

「バカにしてないよ」

「した。40過ぎた地位のある男に対して、名誉と信用を棄損しかねない言葉で侮辱し、精神的に立ち直れないほどの大きな苦痛を与えた… 傷害罪だな」

「何言ってんの」と、早翔が鼻で笑う。

「立派な刑罰の対象だ」

 言うが早いか乱暴に早翔を押し倒す。

「うそだろ…」

 早翔の呟きが向井の口中に埋もれていった。

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