第33話 幻影宮殿②

 ペレウスは自分を起こした腕の主を見た。

「マリアン!なんでここに。」

「一先ず大丈夫そうだね。ところで僕のウナギは?」

「ああ……。」

「冗談さ。フェイトン君が僕らに知らせてくれたんだ。ペレウス、旺盛すぎる好奇心も考え物だな。」

傍らにはフェイトンが立っている。

「本当にすまない。だけど―――。」

「言いたいことは分かるよ。だが今は大人しくしておこう。ほら。」

マリアンは3人と少し離れた所に立つアルファルドを一瞥した。彼はカトとシャウラが巻き起こす霧渦を眺めていたが、不意にしゃがみ込み地面に両手を突いた。

 アルファルドに呼応して地中から現したのは、巨大な蠢く黒い塊である。緩慢に収縮を繰り返しすその物体は、一瞬ぴたりと静止したかと思うと、次の瞬間カトに向かって突進した。無数の巨大な線虫が蠕動するようにも見える。カトは数歩後退しつつ水槍を円盤状に変化させて盾としたが、線虫たちはぐちゃぐちゃと音を上げて次から次へ水盤にへばりつくと、最後には爆発とともに粉々に打ち破ってしまった。

 たった10秒足らずの出来事だ。庭園の暗い電灯と水盤だった水滴群に照らされたカトの表情からは、先程までの軽妙さが消え失せている。彼は大きく抉られた右腕をぶらぶらさせた。

「醜悪以外の言葉が見つからないよ、アルファルド。何を「再生」したらそうなるんだ?」

「答える義理はないよ。」

アルファルドは侮蔑的な眼差しを向けた。

「ところで覚えているだろうか。以前私は君に、二度と私の前に姿を見せるなと丁重に頼んだ。なのに旧友のお願いを無碍にして使い走りとは、随分な忠犬ぶりだこと。」

カトは首をかしげた。

「「丁重」……本当に記憶に無いのだが。まあいいや、別にお前を訪ねて来たのではないさ。僕はドーナーに用があった。だがシャウラが彼女を殺してしまったので、わざわざここまで追いかけてきた。まさかシャウラがお前の差し金だとは思わないが、ドーナー殺しに心当たりがあるだろうか?」

「ドーナーが死んだ?」

「無いか、分かったよ。それじゃあアルファルド、「大変恐れ多いことですが」、僕の邪魔はしないでもらおうか。」

 カトは尊大に言い放つと、シャウラの方を振り向きざま左手で水鎗を投擲した。だが水鎗は目標に届く直前で黒い塊に飲み込まれてしまった。シャウラの姿は耳障りな笑い声を残して消えていく。カトは無数の水鎗を当てずっぽうに操り出し続けたが、悉く黒塊に妨害されてしまった。彼はアルファルドをじろりと睨んだ。

「邪魔しないでって言ったでしょ。」

「君はもう少し他人の言葉に耳を傾けろ。」

 カトは猶も執拗にシャウラの影を追いかけながら言った。

「傾聴に値する話ならいくらでも。だがどうせミラについてだろう。」

「分かっているなら話は早い。お前と飼い主が調査共有委員会に干渉しているから―――。」

「委員会は曄蔚文とモデラのものだ。ミラは関係ないんだよ。お前はミラが関係すると、妙な方向に進むな。リゲルが殺されたのもお前のせいだ。きっとミラもお前の愚行を嘆いているだろう。」

カトはアルファルドの背後にいるマリアンに鋭い視線を向けた。アルファルドはそれを遮るように一層激しく黒塊を仕掛ける。

「もういいよ。君と話しても無駄。ユリアに洗脳された君とは。」

 カトは自由の利く片腕で次々と水槍を取り出し、アルファルドの攻撃を一撃一撃退したが、水鎗は黒い塊に触れると、瞬時に砕け散ってしまう。だがカトは超然とした態度を崩さずペラペラ喋り続ける。

「相変わらず思い込みが激しいな。僕は彼女の下僕じゃない。ただ最も重要な目的が一致しているだけだ。だから仮に僕の行動が彼女に利益に反しても、目的達成に影響しない範疇なら、お咎めを受けたりしない。そもそも彼女は予想外のハプニングを好む質だし。だからアルファルド、お前に役立つ情報を教えてあげるよ。ユリアは今北京にいる。リゲルの遺品整理をするらしい。きっと―――。」

カトの声は轟轟と巻き起こる黒塊と弾ける様な水鎗の音で完全にかき消された。ペレウスはアルファルドに叫んだ。

「アルファルドさん、止まってください。彼の話を聞きましょう!」

 だが彼の耳には届いていないようだ。土埃と辺り一面に広がる水飛沫によって、視界は曇り呼吸もしづらい。遠近の判別がつかない所からマリアンの声が聞こえる。

「二人とも、とにかく庭園を出よう!」

マリアンは周囲を見渡し、フェイトンの姿を見つけると驚いた。彼のすぐ後ろでシャウラが警棒を振りかぶっている。

「危ない!」

 実のところ、マリアンが見た姿は本物のフェイトンではなかった。シャウラは自分の性質が通用しない同類二人から隠れ、密かに幻覚を誘う紫霧を庭園中に張り巡らせていたのだ。彼はカトが幻影の性質を見切っていると信じている点を逆手に取り、本来マリアンがいる場所に自分の姿を映し出し、フェイトンに手を伸ばすマリアンを、恰も自分が中国人に危害を加えているらしい姿に投影した。本来カトはその程度の小細工に惑わされないが、彼の判断力は旧友の猛攻によって少しだけ鈍っていたので、手にしていた水鎗をシャウラの影へ迷いなく投げ込んだ。

 

 水鎗はマリアンの横腹を貫通し、他の鎗と同じように砂嵐の中へ消えて行った。フェイトンと少し離れた場所で異変に気付いたペレウスが近づく前に、アルファルドが全ての攻撃を止めて蹲る彼の下に駆け寄った。

 マリアンはぐったりとしていて、腹部から大量の血を流している。フェイトンは蒼白の肌とのコントラストを見て、咄嗟に彼が死んでしまったのではと恐れた。実際には、マリアンは非常に浅い呼吸を繰り返していて、早鐘を打つような鼓動が彼の体を小刻みに震わしている。しかしフェイトンはそれが分かる距離まで近づけなかった。

 ペレウスも慌てて友人に駆け寄ったが、アルファルドの行動を見て驚愕した。彼がマリアンの服を捲り上げ、どくどくと体液が溢れ出る傷口に手を翳すと、たちどころに傷が塞がるではないか。マリアンは上体を起こせるほど回復し、傷は服に残った赤黒いシミでしかその存在を認められない。

 そして不思議なことに、マリアンの姿を見て最も動揺したのはカトだった。彼を取り巻く広大な水溜まりは、既に波一つ立てていない。唯我独尊的な態度が嘘のように、カトは呆然と「再生」の様子を眺めていた。シャウラはそんな彼の周囲を取り囲み、彼の破戒を嘲笑した。相手が動揺すればするほど、幻惑の主にとって有利な局面に転ずるのだ。

「ひゃははあああ!カト!人間を守るなんて誓いを、何千年も馬鹿真面目に守って来たお前が、「俺なんか」に引っかかるなんて!」

 シャウラの姿が不愉快な笑い声と共に消えて行くが、カトはそれを追うことができなかった。アルファルドが全力と言わんばかりに猛攻を加え始めたからだ。奇妙な黒塊がカトの太ももを捉え、彼がバランスを崩して転倒すると、アルファルドは次の照準をカトの左脚に素早く定めた。

 だがその一撃はカトに直撃しなかった。ペレウスに体当たりされて、アルファルドの体が前方につんのめったからだ。すぐには二撃目が来ないと認めると、カトは体勢を整えざま空へ大きく手を掲げた。それに応えるように、庭園の池と噴水全てが上空へ巻き上がる。


 その瞬間、フェイトンは空中に波打つ巨大な水面の中に、歪んで映る反転した庭園とこちらを「見上げる」自身の姿を見た。地表でカトが手を振り下ろすと、それに応じて水盤は凄まじい轟音を上げながら地表に落下した。マリアンがフェイトンに覆いかぶさったので、三人の内何が起こったか目にしたのはペレウスだけだった。アルファルドの蠢く黒い影は、彼らの頭上3、4メートルという所で水鏡とぶつかり合い、鼓膜を破るような破裂音と大量の水飛沫を上げて衝撃を相殺し尽くしてしまったのだ。

 一面に立ち込めた水霧がようやく晴れた時には、既にカトもシャウラの姿も無かった。アルファルドはペレウスの襟首を掴み上げた。

「おい!どういうつもりだ!?」

 ペレウスは相手の気迫に恐怖したが、声を振り絞って反論した。

「ドーナー本部長や私たちを助けてくれたのは彼です!彼は既に酷い怪我を負っていたのに、更に追い打ちをかけるなんて!」

 アルファルドは氷のように冷たい声で言った。

「私が居なかったらマリアンは死んでいた。自分の欲求の為にフェイトン君も放り出した。君はそんな事態を引き起こした自覚はあるのか?」

「仕方ないじゃないか!貴方の奇妙な態度が信用に足りないからです!!さっきの彼らは、いや貴方は何者なのですか!?貴方が動かした奇妙な塊は!?ユリアという人物が北京本部にいると何が起こるのですか!?」

 マリアンが間に割って入った。

「二人とも落ち着いて!アルファルド、僕たちは二人に説明しないと。」

彼が平然としている様子を見て、ペレウスはいよいよ頭がおかしくなりそうだ。アルファルドは依然相手を睨みながらも忽ち矛を収めた。

「まあいいよ。十分な説明をしなかった私にも非があるよね。」

 フェイトンはアルファルドに尋ねた。

「アルファルドさん、リゲルさんは殺害されたと……。」

「そうだよ。リゲルが死んだ時の様子を知りたいか?彼女の病室には霜が降りていて、花瓶の水は凍っていたそうだ。じゃあリゲルの死因は何だと思う?彼女の口腔、気道、肺、そして心臓の一部は炭化していた。」

フェイトンは相槌すら打てなかった。

「同類の存在さえ知っていれば、この状況には極めて明快な説明をつけることができる。同類とは、簡単に言うと自然現象の体現者だ。室温が異常に低かったのは、リゲル本人が気温を下げる性質を持った同類だから。加えて私は触れた物を燃やせる同類を知っている。ユリアの配下だ。」

「ではユリアという人物も同類なのですか。」

「ユリアは「感動」の性質を使って、調査共有委員会の条約改正を推し進めようとしている。」 

「信じがたい話だ……。」

「人間にとって、同類とは理不尽そのものだ。知らずに済むならそれに越したことは無い。だから敢えて言わなかった。」

ペレウスは項垂れた。下宮の方から騒ぎ声が近づいて来る。

「アルファルド、早くここから出ましょう。」

「勿論。はあ、カトの尻拭いは不本意だが仕方ない。」

 アルファルドは崩壊した宮殿に歩み寄り、マリアンにした時と同様に壁へ手を翳した。すると庭園中に散らばった建物の破片があるべき場所に戻っていく。先程の黒塊の歪な奇怪さとは正反対で、極めて優美で調和のとれた光景である。宮殿と庭園がすっかり元通りになると、四人は騒ぎ声とは反対の方向へ走り出した。

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