第31話 so help me god

李奇とイレクトロ・フィデリオは、ユリア調査の協力関係を結んだものの、未だ目ぼしい手がかりは得られていない。7月終わり、李奇は一人で彼女の拠点であるトライデント・ホテルを訪れた。

 ドアを開けたのはヨシコだった。

「ユリアはおりません。でもせっかくご足労頂いたのですもの。李奇さん……ですよね?お茶でもお召し上がりになりませんか?」

李奇が思わず聞き返すと、ヨシコは首をかしげて言った。

「あら、そんな暇なんて無いですか?」

「とんでもない。ご迷惑でなければ、ぜひお邪魔させてください。」

李奇はヨシコの歓迎に戸惑いつつも、大人しく彼女に従ってソファへ座った。目の前のテーブルは前回来た時の物とほぼ同じだが、李奇にはそれが同一でないと分かる。あの時この卓を燃やしたのは他ならぬヨシコだからだ。

「モデラ委員長から貴方について聞きましたよ。以前日本に住んでいらしたとか。」

 初対面の委員会関係者は、必ずと言っていい程大して知りもしない父李魁の話題を振る。だから李奇はやや拍子抜けしつつ頷いた。

「え、ええ。短い間ですが長崎の中国領事館に赴任していました。」

「そのようですね。実は私も昔、割合近くに住んでいたのですよ。」

李奇は大げさに反応した。

「そうなのですか?お名前から日本の方だとは思いましたが、同じ長崎とは……。」

ヨシコが何も言わないので、李奇は躊躇いがちに尋ねた。

「……ユリアさんとカトさんはお出かけですか?」

「ええ。」

 李奇はどうすれば相手から有益な情報を得られるか考えた。ヨシコは漆黒の瞳でその様子をじっと観察している。結局先に口を開いたのは彼女だった。

「ふふ、そう警戒なさらないでください。別にとって燃やしたりはしません。」

「そんなことは思っていません。ただこんな機会を頂けるとは思っていなかったので……。」

「嬉しくありませんか?貴方はユリアについて知りたいのかと思っていましたが。」

李奇は頷き、師に尋ねる愚か者のように言った。

「その通りです。私はつい2か月前まで存在すら知らなかった。それだけじゃない。皆さんは委員会の協力者と仰いましたが、その直後カトさんは水を刃物のように扱い、貴方は簡単にテーブルを燃やしてしまった。モデラ委員長は同類を様々な自然的現象の象徴だと言いました。ですがそんな説明ではとても理解できません。更にミラ博士やリゲル本部長など、委員会には何人もの同類が関与しているとか。」

「私たちが何者なのか、誰にもよく知りません。自分の存在意味や本質は、同類にとってそれほど重要な問題ではないのかも。」

 ヨシコが湯呑を軽く揺すったり傾けたりすると、何度に一回かボッと音を上げて蒼い炎が上がる。

「もうお聞きになったでしょうが、同類は各々一つだけ自然を操ることができます。そしてその「性質」は、自分の淵源と密接に関係する。ユリアは以前こう言いました。思わず身震いするような自然の驚異、自分はそれを目にした人間の心から生まれたと。思えばユリアは、他の同類と違って、誕生の瞬間から人間に近しい存在だったのかも。」

「ヨシコさんは違うのですか?炎も人間と密接な関りがあるのに。」

「私?ご存じの通り、九州島は火山活動が活発な土地です。小さな噴火を繰り返す山もあれば、地面からふつふつと煙が噴き出す場所もある。私は草木を焦がし、大地を熔かす焔の中から生まれた。だから人間との関りを持たず、人の姿を取ってもいなかった。」

「人間の姿を取らない同類もいるのですか?いや、それ以前に、なぜ人間の姿を取るのです?」

「外国語を理解するため母語に訳すのと同じですよ。未知を探る時、人は自分の理解が及ぶ所を手掛かりにする。渾沌を前にした時、自分と同じ形で目や口を開ければ、それを手がかりにして、恰も自分の事のように渾沌を理解できるかも。同類が人間と関りたい理由は一概に言えませんが、人間を知るためには人間と同じ様に穴を穿つのが効率的です。」

「渾沌七竅に死す、ですか。でもその伝説に従えば、穴を穿たれた渾沌は……。」

「渾沌は一つの世界、同じ方法でその体内に入れば、同じ既知を共有できる。外殻が生きていようが死んでいようがどうでもいい。同類も同じです。」

ヨシコは小さく欠伸をした。

「あーあ、誰かと一対一で話すのはとても久しぶりだから、少し疲れてしまいました。次はいつ来られますか?続きはその時にしましょう。」


 自分でも頗る予想外なことに、それから毎週、彼はヨシコを訪ねては様々な話をした。彼女はいつも一人で過ごしていた。ヨシコは相手と知識を共有すると言ったものの、実際のところ雑談の対象は玉石混交で移ろいやすく、その上同じ話題の繰り返しも少なくなかった。しかし李奇は手っ取り早く本題を尋ねる気にはならなかった。それはヨシコが外見や話し振りに似合わず、割合幼い印象を与える人物だったからだ。李奇にはそんな相手に対し、無暗に圧倒し問い質すだけの度胸は無い。否、より率直に言えば、李奇はヨシコとの会話を素直に楽しんでいた。だからその日も彼女が適当な話題を振るのに任せていた。

「急に降り出したみたい。でも私は雨が好き。」

「私もです。こんな日は窓を開けて雨音を聞きながら読書したくなる。」

「本が黴てしまうわ。」

「今の所は大丈夫です。それに頁から少し湿気を感じると、何となくより集中できる気がします。」

「じゃあ李奇さんにとって、本の世界に入る鍵は湿度なのね。」

「はは、そうかもしれません。」

 ヨシコが窓辺に手をかざすと、蒼い炎は魚の形をとって素早く泳ぎ回る。そして彼女がそっと手を離すと、蒼色の魚は音もなくかき消えた。

「そういえば、ユリアに初めて会った時も雨の日だったわ。」

「長崎で、ですか?」

「そうですよ。彼女は初め自分をアメリカ船の乗組員だと自己紹介しました。」

ユリアによれば、彼女は同類の本質と淵源を知るために世界を見聞しているという。そしてヨシコに対し自分の友となり一緒に冒険しようと提案した。

「友達……。」

「そうですよ。どうですか?今の彼女と私は友人に見えますか?」」

「ええ、そう思いますよ。ですが突然そんな風に言われて、貴方は驚いたのではありませんか?」

「当然です。ただ当時は寧ろユリアの方が私の無知に驚いていました。私はアメリカも長崎も知りませんでしたし。加えて私は自分の存在意義や淵源について、一度も考えたことがなかった。そんな私にヨシコは言いました。一人では解明し難い問題でも、二人で分かち合えば愉しめるはずだと。」

自分自身が何者なのか、それは李奇にとっても馴染みある難題だった。

「私も少し考る時があります。人間の存在とは、個人的な人間関係の中だけで語られるに留まらない。人間が所属する集団やそれを包摂する世界について、その本質や成り立ちを理解しない限り、答えは出せないのかも。」

その点歴史とは、過去を鑑にして世界を知る手段となり得る。それは李奇が父李魁から見倣った態度でもあった。

「でも難題に挑み続けるのは苦しいでしょう。いっそ放棄した方が幸せかも。」

「それも一理あるでしょうね……。」

「ユリアはそういう放棄を「排思考主義」と呼んで軽蔑している。でも自己の本質を知る手段を敢えて手放すのも、同じく勇気が要る選択には違いないわ。……そうだ、ユリアの話でした。私はユリアの友達になり、最終的にモースの伝手でアメリカに渡航したのです。」

「モース?もしかして考古学者のモースですか?」

「ええ。その後しばらくユリアはモースの博物館で手伝いをしていました。彼女は遺物を手掛かりにして、極東という未知を考察していた。私も手掛かりの一つだった。でも最終的に、彼女は遺物ではなく記述こそが世界を知るための鍵だと断言したわ。」

「記述が鍵か。それが調査共有委員会への協力に繋がるのですか?」

ヨシコは噴き出した。

「ふふふ、「協力」ね……。でも事はそう単純じゃない。ユリアが記述を鍵に極東という未知を探求した時、何が起こったと思いますか?彼女は長崎近辺で二つの事件を惹起しました。一つは細々と私と知縁ある人間の一族を全滅させ、もう一つでは没落士族を嗾けて大反乱の火種を作った。」

「一体ユリアさんはどうしてそんなことを……。彼女にはそれが世界を知る手掛かりになるとでも言うのですか?」

ヨシコは更に続けた。

「全ての行動はユリアの中で有機的に結びついている。私にはその絲が見えないけれど。ただ恐らく彼女は、長崎以前にも似たような行為を繰り返してきたのだと思います。「唆す」という行為を。彼女の「性質」は誰かを唆すのにぴったりだわ。心理的誘導に必要なのは、十分な思考ではなく、同方向への高揚感や感動だから。それは過去の共有か、或いは異端者の排斥かもしれない。」

「委員会の場合、その行動とはつまり改正条約ってことか。改正条約は彼女が「唆した」計画なのですね。モデラ委員長や曄蔚文博士ではなく。」

「確証はないけれどね。」

ただ、とヨシコは続けた。

「ユリアは以前こう言ったわ。歴史とは記述によって創造される一つの世界で、創造主が別の場所で邪神と扱われるように、それは尊ばれたり蔑まれたりするのだと。その言葉に従えば、調査共有委員会とは、信者に創造主を取捨し妥協させる機関だと言えるでしょう。改正条約によってもっと多くの国を巻き込むのは、つまり機関の在り方がユリアの考えと合致したって事……?」

「それなら寧ろ歓迎です。覆しがたい「創造物」によって苦渋を舐めている人をより多く助けられる。」

「でも委員会にも創造主がいる。彼らは一体どんな権限で他の創造物に対する取捨妥協を許容しているの?」

「つまり曄蔚文博士という意味ですか?勿論博士は尊敬に値すべき偉業の持ち主ですが、だからと言って信仰し奉るべき神とは思いません。」

「私が言いたいのは、委員会が「提唱」や「提言」という創造主を鍵に、世界における自らの意義を示してきたという事。自らを神の意思に従い、それを遂行する者と宣言する。でもね、その宣誓自体は神と何の関係もないのよ。だって信仰も宣誓もあくまで人間の創造物、神が感知できる領域ではないもの。善悪や正誤、或いは自らの存在意義などを、「明白な天命」に委ねる。それは単純で分かり易い手段よ。でも信仰が信者の創造物と思えば、それは「創造物の意思」に至る思考の責任を、創造主が負っていないことを意味するのでは?」

「……だとしても、人間には価値観の拠り所が必要な時もあるでしょう。全ての物事に対し、逐一十分な思考を巡らし、正しい判断を下す事は誰にも出来ません。」

「過去という未知に対し、委員会は見解の共有という竅を穿つ。それによって人々は、平和や協調はもちろん、歴史的文脈における己の存在を「分かち合える」。だけどその「明白な天命」に対し、誰も責任を負う者はいない。天命とは「神」の導きだから。」

 李奇が沈黙するので、ヨシコは恰も子供を優しく諭すように言った。

「以前渾沌の話をしたのを覚えていますか?曄蔚文とモデラを核に培われてきた渾沌という秩序は形を失い、その中から共有すべき既知が生まれる。その過程では、あらゆるレベルにおいて、無遠慮で激烈な吊し上げが行われるはず。」

李奇はスロヴェニア本部を思い浮かべた。長年委員会を支えてきた創設国の片割れは、ズメルノストの事実上の失脚と共にその権威を瞬く間に失った。

「そんな事態をできるだけ避けたいと思っています。少なくとも私は。」

ヨシコは微笑して答えた。

「それは防ぎようのない事よ。だって七つ目の竅が穿たれた時、渾沌が正気だったとは思えないもの。」

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