第24話 グラーツ

 カラーはバンの荷台部分にペレウスとフェイトンを乗せたため、2人はどのようなルートでオーストリアへ入国したのか分からなかった。しかし大きな振動と騒音から、かなり荒い道を通っている事は想像つく。加えて異常ともいえる寒さだ。空調口からは大分前から温風が吹き出し続けているが、2人の吐く息は目に見えて白い。

 荷台には両側に長座席が配置され、残りのスペースには工具やロープ、木材などが入ったケースが積み重なっている。車体の動きと共にそれらが大きく揺れるので、2人は長椅子に体育座りして背中で棚を抑えていた。少なくとも内装は電気系の作業用車で、カラーの所有車とは思えない。

 フェイトンは電子ファイルについて切り出した。

「ペレウスさん、電子ファイルですが、コピー制限がかかっているようです。もしよければ、今このアルバムでご覧になりますか?」

「いいのか?申し訳ない。」

電子アルバムを受け取ると、ペレウスは席に座り直し、相手にも画面が見えるよう機械を傾けて操作した。

「……私はあまり機械に詳しくないが、見た感じかなり性能が良さそうだ。」

「祖父は工学部の知人の試作品と言っていました。」

ペレウスは画像を眺め気になる点をメモしようと思ったが、どこを気にするべきかすら分からない。結局彼はフェイトンの了承を得てページを1枚1枚撮影することにした。

「あの、少し質問してもいいでしょうか。」

「もちろん。」

「撮影しながらで。邪魔してすみません。……カラーさんは祖父の事件が改正条約と関係あると。つまり祖父が殺害されたのは改正条約が原因のように聞こえるのですが、ペレウスさんはどう思われますか?」

ペレウスは手を止めて言った。

「それは私も考えていた。曄蔚文博士はモデラ委員長たちと改正条約を推し進めていた。単純に考えれば、それに反対する人物なり集団の仕業じゃないだろうか。」

「反対する人に心当たりが?」

「いや。でも君を追いかけた例の集団の一味という可能性はある。或いは……。」

「或いは?」

余計な事をしゃべってフェイトンを混乱させたくはない。だが彼が殺害事件の手がかりを求めている事は明らかだ。

「……今まで改正条約に対する反対意見は殆ど出ていなかった。君も知っている通り、面と向かって批判しているのはロシアとスロヴェニア本部だけ。でもその抗議が博士殺害に繋がるとも思えない。だが私の知る限り、1つだけ主体が分からない抗議がある。今年の初めにアテネ本部に届いた、改正条約破棄を求める脅迫文書だ。」

「脅迫文書?」

「ああ。文面を見たわけじゃないが、すごく丁寧な記述だったらしく、「丁寧な脅迫状」と言う人も。尤も脅迫状という位だから、脅しが含まれていたのは確かだろう。その後その文書がどう扱われたのか分からないが、恐らく危険性は無いと判断され無視されたのだと思う。」

ペレウスは続けて言った。

「リュブリャナではああ言ったが、実はまだ弟に連絡していないんだ。君が委員会の誰からも連絡を受け取らなかったのは、やはりどこか不自然だと思う。だがマリアンたちの話を聞く限り、少なくともウィーンの協力者は情報を明かす積りがあるらしい。彼が事件や改正条約について情報を所持しているなら、それを聞いてからどうするか決めたい。」

「……分かりました。」

「マリアンは大分信用しているようだが、カラーさんの兄は警戒した方がいいと思う。」

「僕もそう思います。」

「私は君をアテネに送り届けると言ったが、場合によっては分かれて移動せざるを得なくなるかも。」

 ペレウスは2つの住所をそれぞれギリシャ語と英語で書いた紙を見せた。

「上が私のアパートの住所だ。タクシーに見せれば連れて行ってくれる。君と私の荷物は1階の管理人さんが預かっているが、君一人で行くのも心もとないだろう。だから差し支えなければ、下の住所を訪ねると良い。」

ペレウスは下段に記した住所を指し示した。

「そっちはアンティゴノスという家の住所だ。アンティゴノス朝のアンティゴノスだよ。英語も通じるし、君の境遇を適切な態度で理解し助けてくれると思う。少なくとも訳の分からないまま大使館やアテネ本部に放り出される事にはならない。」

「どんな方なのです?僕が突然押しかけて大丈夫でしょうか。」

「アンティゴノス教授は私が大学院時代に指導を仰いだ先生だ。委員会の在り方には非常に懐疑的だが、今の状況ではそういう人の方が信用できると思うから。……そうだ、アテネの地図を持ってる?」

 フェイトンは頷いて、トートバッグからイギリス出発前に買った冊子を取り出した。

「ありがとう。アテネ本部があるリカヴィトスの丘はここ。アンティゴノス邸はここ、「ハドリアヌスの図書館」や「風の塔」の近くだ。私のアパートは載っていないが、もっと港に近い方にある。方角としてはこっち。」

ペレウスはそう言いながら地図に点や矢印を書いた。

「家にはヨアニスという大学生がいるから、彼に頼んで管理人さんに取り次いでもらえば安全だ。」

そう言ってペレウスは鍵も渡した。

「すみません、ありがとうございます。」

「色々言ってなんだが、アテネでどこを頼るかはもちろん君の判断に任せる。本当は―――。」

 車のエンジンが切れたので、ペレウスは口を閉じた。間もなくマリアンがバンの入り口を開けて2人を外に出した。

「グラーツに着いた。もう高速を行くだけだから、自家用車に乗り換えよう。僕は給油してくる。」

マリアンは2人を下すと、ガソリンスタンドの方に車を徐行させて行った。ペレウスとフェイトンはオーストリアの地図を買おうとすぐ目の前にある売店に向かった。店内は扇風機が回っている。

「風邪でもひきそうな寒暖差ですね。」

「まったくだ。」

 ふと道路情報を掲載した電子掲示板を見ると、昨晩から今朝方にかけて発令されていた大雪による交通規制が解除されたとある。フェイトンが水を買いに店の奥へ行き、ペレウスが1人で掲示板を眺めていると、マリアンがやってきた。

「まだ8月なのに交通規制する程の雪が?」

「スロヴェニア国境の局地的なものだったらしい。ついさっきまで国境検問所付近も閉鎖されていたんだ。」

「君は運転するとき大丈夫だったのか?」

「獣道だからそれなりには。事故にならないでよかったよ。」

「バンが通れる獣道があるのか。」

「それもそうだ。」

ペレウスが暖簾に袖押しな様子にむっとすると、マリアンが軽く突き飛ばされた。後ろにはフェイトンを連れたカラーが立っている。

「彼を放って馬鹿みたいに談笑とは余裕ね。」

「ごめん、じゃあ出発しよう。」

 4人を乗せた自動車は北に向かって走り出した。周囲の景色を適当に見回すなどしている内に、今度は2時間もしないでウィーン市内の立体駐車場に到着した。マリアンは安堵して言った。

「はー、無事に着いてよかった。フェイトン君はつい先日振りのウィーンだから、目新しいものは無いだろうが。」

「いいえ。乗り換えで1泊しただけなので、街の様子は全然見ていません。」

フェイトンの心にはこの数日間に遭遇した出来事が俄かに想起された。

「なるほどね。僕らは旧市街の南側にいる。すぐ前の建物が国立歌劇場だ。地図を買ってただろう、ついでに確認すると良い。」

そう言いながらマリアンはフェイトンのバックパックを担ぎ、今度はペレウスに尋ねた。

「ペレウスはウィーン本部の弟さんに会いに行ったこともあるだろう。」

「いや無い。ウィーンには初めて来た。君はアルファルドを訪ねて何度も来たらしいな。」

ペレウスは余所余所しく言った。

「それもある。もちろん学会で来ることも。」

 会話はそこで終わると思われたが、2人にとっては意外なことに、フェイトンが話題に興味を示した。

「マリアンさんは何を研究なさっているのですか?」

「僕は言語学。スロヴェニアやハンガリーで使われたドイツ語に関する研究だよ。」

「へえ、なるほど。」

「あはは、興味なさそう。」

「まさか、違います!ただドイツ語は全然なので。そうだ、ペレウスさんも堪能ですよね。どこで習得したのですか?」

「私?……昔少し習った事が。でもマリアンが言うみたいな地域毎の差は分からないよ。リューベク出身の知人がいて、低地ドイツ語の特徴なら多少聞いたことがあるけど。」

「え、誰?女の人だったら紹介して。」

「やめろ、いつもそれだな。フェイトン君、こんな緊張感のないおじさんにならないでね。」

「はは、分かりました。」

フェイトンが恐らく初めて冗談に応じたので、ペレウスは安堵と共に複雑な心境を覚えた。少しでも気を紛らわせてくれたら良いが、努めて明るく振舞って欲しい訳でもない。だが彼はエレナのロッジでの口論に責任を感じたフェイトンが、2人の関係改善に苦心しているとまでは気づかなかった。

「あはは。一つ訂正だが、僕はおじさんじゃない。」

「さっさと歩く。」

マリアンはカラーに睨まれて黙った。3人は彼女を先頭に北に向かって道路を渡ると、イェリッツァ・ホテルを過ぎて最初の小路に入った。

 通行人が皆無である以上に、人が居住する雰囲気を感じさせない通りは、両側に迫り建つ重厚な建物群が作る濃い影で満ちている。カラーは10メートルほど進んで一際古く壮麗な建物で立ち止まると、門扉の暗証番号を入力して開錠した。そこには工事現場で見かける形式の、簡易なエレベーターが置かれている。4人が乗ると、エレベーターは不気味な音を立てて上昇した。

 3階に当たるのだろうか、到着したのは天井と壁一面がガラス張りの温室である。壁一面に張り巡らされた窓は向かいの建物より高い所に位置するため、日差しが十二分に入るらしく、この空間自体が青々と葉を伸ばすシダや棕櫚らしき低木で満ちている。3人は生暖かく淀んだ空気と至る所に配置された植物たちを掻き分けるように彼女の後に続いた。

最後に温室の奥の扉を開けると、そこは豪奢な調度品の数々で埋め尽くされたホールだった。来訪者の音に気付きソファから立ち上がったのは、極めて美しい容姿の青年である。

「無事に到着して何よりだ。私がアルファルド。どうぞよろしく!」

ペレウスは正面から相手を見て驚いた。アルファルドは完全に写真の姿通りで、15年の加齢を全く感じさせないのだ。青年は右手をひらひらさせ、マリアンと同じ笑い声を上げた。

「あはは、遠慮してらっしゃるのかな。とにかく荷物を置いて、こっちに座りなよ。マリアン君も久しぶり~。」

彼はマリアンそっくりの笑い声をあげながら、彼に近づきその頭を無遠慮に撫でた。マリアンは顔を歪めて髪を整えた。

「ちょ、止めてくださいよ。それについ先月もお会いしたでしょう。」

「遠慮じゃなくて、不審者を警戒しているのでしょ。」

兄はカラーの言葉に肩を竦めた。

「カラーは辛辣なのさ。話をする前にフェイトン君、曄蔚文博士が君に送った電子ファイルは持っているかな。」

「ええ。ですがなぜそれを……。」

「それは結構。」

 アルファルドは食い気味に返事をすると、身を翻してソファに深く体を沈めた。額に垂れた赤銅色の髪、その隙間から覗く琥珀色の目でペレウスを見つめて言った。

「君らには疑問があるだろうね。私がなぜファイルの存在を知っているのか、そのファイルは何なのか、自分たちを付け回した中国人は誰なのか、曄蔚文がなぜ殺害される直前に君へファイルを託したのか。なぜマリアンは君らを無理にここへ連れてきたのか、調査共有委員会で何が起こっているのか、そしてこれからどう行動するべきか。時間も押していることだし、一先ず私の知っている事を話していこう。」

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