第22話 F.A.E

 上級委員に任命されるルートはいくつか存在するが、イレクトロ・フィデリオの場合は幹部候補たる有望な若手としての任命だった。名誉職的に任命された若干名を除けば、他の大多数は楊何業やモチュアのように各国本部長経験のある実力者である。だが将来的にはイレクトロの方が主導権を握り、彼らをまとめることになるのだ。

 以上のような立場の違いは、そのまま職掌や待遇の差にも影響を与えている。最大の違いは、イレク達若手が「総論」を執筆したことがないという点である。委員会活動の代表的存在でもある「総論」の監督執筆資格が与えられるには、上級委員であること以外にも多くの条件が存在するからだ。

 モデラ委員長がこのギリシャ人を暗黙の後継者としている事実は、多くの職員が知るところである。ウィーン本部に着任してからの約6年間に、イレクはさも目を見張る業績を当然のように挙げ続けた。そしてモデラが愛娘との縁談を持ちかけた時も、彼は川が低地へ流れるが如くその話を受けたのだった。

 2004年6月。イレクトロ・フィデリオは北京本部長の人事調整に参加していた。それは彼にとって、上級委員に抜擢されて初めての人事会だった。常に涼やかで少しの執着も見せないイレクトロ、その彼が躍起になっている様子を見て、人事調整に与る面々は少なからず戸惑いの表情を浮かべた。彼は実兄の北京本部長任命に断固反対したのだ。

 ペレウスを推薦したのは元北京本部長でもある楊何業上級委員だ。前任者や出身者の推薦承認が慣習化している人事会において、この若き上級委員は他の候補を持ち上げる暴挙まで犯し、その反抗は愈々モデラの叱責を受けるまで続いた。彼の恐ろしく頑迷な態度は、新進気鋭の代名詞たる本人どころか義父の顔にも泥を塗ることになった。

 数日後。モデラの執務室に呼ばれたイレクは、先客を見て顔を顰めた。

「ああ君、来たね。こちらは李奇代表だ。」

「李奇です。人事調整会議以来ですね、どうぞよろしく。」

李奇は無表情で右手を差し出した。イレクトロは怪訝な声色を隠さずに訊ねた。

「それで、ご用件とは?」

モデラは厳めしい表情で言った。

「重要なことだ。今年の1月、アテネ本部に届いた改正条約破棄を求める脅迫状については知っているな。」

「「丁寧な脅迫文書」ですか。」

「そう呼ぶ職員もいるらしい。先日おそらく同一犯人がまた脅迫状を寄越したのだが、そこには殆どの人間が知らない情報が含まれていた。それについて君たち2人に調査してもらいたい。」

「情報漏洩の出所を探れという事ですか?」

「そうだ。何も犯人捜しをしろとまでは言わない。怪しい人間や不可解な状況を見聞きしたら、それを私に報告してくれればいい。フィデリオ君はアテネ本部を、李奇代表には中国と北京本部の関係者とお願いしたい。」

「その情報とは何です?」

「情報は3つ、文書が投函された曄蔚文博士の自宅住所、改正条約に関する内部情報、そしてその「協力者」の存在だ。それら全てを過不足なく知っているのは、曄蔚文博士とリゲル、私だけだ。楊何業上級委員と李奇代表は内部情報のみ知っている。改正条約は中国と関係があるからね。ところで李奇君も曄蔚文博士のご自宅は知らないのか?」

モデラの問に李奇は頷いた。

「はい。博士が大学の教員宿舎に住んでいらした時は、父と一緒に伺う機会もありましたが。」

「そうだろう。彼のご令孫も含め、住所を知るのは極僅かだ。」

「博士はそれほどご自宅を秘密にされているのですか?」

「そうだ。博士は住所とか個人情報に対して大変神経質でいらっしゃる。例えば彼の郵便受けは自宅に無いし、連絡を取りたい人間には、ウェブサイトにメールを送るか、所属していた大学に連絡する方法しかない。私が言いたいのは、文書の送り方が想定される普通の手段ではないという事だ。相手は博士の自宅を知っているという事を、我々に示したかったのかもしれない。ご本人も大変動揺している。」

「確か1月に届いた「丁寧な脅迫文書」には取り合わない決定が下されたはずです。やはり差出人の情報は依然不明のままなのでしょうか。」

「正直な所その通りだ。1月の封筒には消印が無かったが、今回は北京市内の物だった。もしかしたら2通目は1通目の模倣犯かもしれない。だがそうなると、当然内部犯の可能性が一層高くなる。1通目の詳細は一応非公開だったから。」

 モデラの話を聞きながら、李奇は犯人に考えを巡らせた。仮に内部犯だった場合、最もその可能性が高いのは楊何業だ。根城と言える北京本部は彼の意の儘に動き、法外の手段を用いて曄蔚文の住所を探し出したとしても不思議でない。それに2通目が国内郵便を経由している事も、何かしらの誘導に思われる。そういう狡猾で翻弄させる能力は、例の香港調査ではっきりと証明されている。

 一方イレクは中国に関連する問題で、李奇を調査人員に加えることを訝しんだ。その気持ちを察したのか、モデラはイレクに向き直った。

「君も十分承知していると思うが、李奇代表は9月の改正条約に無くてはならない人だ。もちろん君自身にも、次世代の委員会を率いて欲しいと思っている。」

だから人事委員会で大揉めを起こし、李奇の母国といらぬ遺恨を生むなど言語道断である。期待を寄せる娘婿がたかだか実兄の人事如きで取り乱した事実に、モデラは少なからず失望している。彼に条約改正の詳細から遠ざけたのもそれが原因である。しかしそういう青二才を「善き」指導者に育て上げるのも彼の職務なのだ。

「情報漏洩元の特定はセンシティブな問題だ。アテネ警察にも脅迫状のことは伝えているが、当然「部外者が立ち入るべきでない領域」もある。脅迫状に書かれていた「協力者」がそれだ。既に先日彼らに相談したが、君たちにも紹介したいと思う。彼らは私たちにとって最大の「協力者」と言ってもいいだろう。俄かには理解しがたい存在なのは間違いないが……。とにかく一緒に来てくれ。」

李奇とイレクはモデラのどこか要領を得ない言葉に首をかしげたが、大人しく彼に従うことにした。

 

 市街の中心部に位置するシンタグマ広場、モデラは李奇とイレクトロを連れて、その南側に佇む高級ホテルの一室を訪れた。中から現れたのは、長身で浅黒い肌の男性である。

「こんにちは、モデラ委員長。そちらのお2人は?」

「どうもカトさん、彼らは私の連れです。お邪魔しますよ。」

カトに通された部屋のソファには、2人の少女が座って談笑していた。どちらも年齢は10代後半ほどで、片方は強くウェーブしたオリーブ色の髪と焦げ茶の瞳の、もう1人は肩上で切り揃えたカラス色の髪で白磁を思わせる肌を縁取っている。オリーブ色の方がモデラたちの姿を認めて笑顔を向けた。

「モデラ委員長だ。こんにちは。」

「お忙しいところ申し訳ありません、ユリアさん。こちらは李奇中国代表とイレクトロ・フィデリオ上級委員です。」

ユリアは手をひらひらと振って言った。

「忙しくないってわかるでしょ?奇妙な人ね。ユリアです。こちらはヨシコ。」

ヨシコは3人に小さく会釈をした。彼女は東洋的な顔立ちの持ち主だ。

「2人は次世代の中核となる存在です。これを機に皆さんへ紹介しておこうと思いまして。」

「引退気分なのかしら。」

「まさか。後継者育成の一環ですよ。」

「後継者。あたしの記憶が確かなら、もう1人いたと思うけど。」

「もう1人は長期出張中です。」

「へえ、そう。」

ユリアは相手をまじまじと見てから、ヨシコの耳に口を近づけて小声で何か言った。ヨシコは小さく微笑んで頷くと、立ち上がっておもむろにテーブルに右手を翳した。

「!!」

ドンという音と共に、李奇とイレクは目を見開いた。木目に沿って炎の赤が広がったかと思うと、テーブルは忽ち炭化したのだ。2人の様子を見て、ユリアはケラケラと笑った。

「ふは、驚いた?……せっかくだから、カトも見せてあげれば?」

「……あまり気は進みませんが。」

「いいじゃない。ほら、やってよ。」

 カトはサイドテーブルに置かれたグラスを手に取ると、それをひっくり返した。零れ落ちる水に手を濡らしたかと思うと、その水が鑓の様に李奇とイレクの眼前へと突き伸ばされたのだ。水の槍は眼球のすぐ手前で止まったが、2人が仰け反るような態勢を取ったので、その様子を見てユリアは爆笑し、ヨシコも口に手を当てて笑っている。モデラは押し殺した声で少女を諫めた。

「あまり2人で遊ばないでください。」

「ふはは、だって反応が面白すぎるんだもん。おふたりとも、ちゃんとご覧になりました?あたしたちは人間が知覚する自然現象、ごく簡単に言えば自然の驚異です。」

ユリアが目配せすると、水の鑓は忽ち崩れて言った。床には細長い水跡が残るのみだ。李奇とイレクは揃って理解できていない。少女はふんと鼻を鳴らした。

「信じられない?仕方ないか。モデラ委員長も最初はそうだったから。」

ね、とユリアはモデラに顔を向けて言った。モデラは連れ2人を振り返って呟いた。

「すぐさま理解が追い付かないのは当然だ。だが色々考えないでそういうものだと受け入れ慣れるしかあるまい。」

ユリアはにこりと微笑んで言った。

「慣れて、そして敬ってよね。……あたしたちが委員会を陰で支えてきた功労者なのだから。」

ユリアはにっこりと笑って断言した。

「脅迫状の件は、この2人に調査させるつもりです。」

「やっぱり内部犯なの。」

「ええ……。先日の話では、ユリアさんもまた疑惑を持つべき相手に目星がついているとか。」

「まあね。でももう少し様子を窺わないと。あたし慎重だから。」

ユリアは再び老獪な笑い声をあげた。だがヨシコの方は打って変わって怯えとも嘆きともつかない微妙な表情をした。

「ところでお2人はどこのご出身なの?」

「中国です。」

「僕はギリシャです。」

「ふーん。まあどうでもいいわ。せいぜい頑張って、「自然あたしたち」を制御し活用することね。」

ただ少女が気ままに話しているだけなのに、李奇とイレクはどことなく尋常でない雰囲気に冷や汗を流していた。

「じゃあまた何か進展があれば、また教えて。」

カトに促されて3人は出口に向かった。背後から追いかけるようにユリアとヨシコの囁きが聞こえてくる。


 3人はリカヴィトスの丘へ戻った。道中全員が一言もしゃべらなかったが、李奇とイレクは訳が分からないなりに状況を整理していた。ユリアは自分を自然の驚異だと言った。つまりヨシコがテーブルを燃やしたり、カトが水の槍を作ったりしたように、ユリアも何か奇妙な能力を持っているのだろうか。

「ユリアは自然の驚異と言っていましたが、一体どういう意味なのです?」

開口一番尋ねたイレクに、モデラは言葉を選ぶように言った。

「……本人の受け売りに過ぎないが、彼女たちはそれぞれ異なる自然現象を体現し自在に操るのだという。」

「ではユリア自身も何かしらの自然の体現者、ということですか?」

李奇の問いに、モデラは苦虫を踏み潰したような表情で答えた。

「ああ。2人に比べて大分抽象的だが、ユリアが操るのは、人が自然に対して覚える感動らしい。」

「感動?」

2人の若手は口を揃えて聞き返した。

「彼女は人間の心を感動させ、集団心理を過剰に高揚させることができる。色々な方法を見てきたが、例えば自分が善だと思い込ませ、邪悪な敵がいると思いこませたり、或いは同じ過去を持つ人々に強固に団結させたりする。そうすることで人々を意図する行動に導くのだ。」

「感動を媒介に集団心理を操るという事ですか?」

「ああ、あくまで現時点における私個人の理解だと念を押しておくが。」

モデラは同類との遭遇の経緯を説明した。1989年、ユリアたちはモデラの出張先のローマで突然現れたという。当時は冷戦終結による一時的な加盟国数増加のピークを迎えていたが、その一方でいくつかの国では加盟実態の形骸化が表出し始めていた。曄蔚文博士も帰国したばかりだったため、組織の求心力が従前になく欠如していたのだ。そこに現れた彼女が、運よく「感動」の力を行使し、忽ち加盟国の結束が再強化されたのだという。

「結局彼女が齎した結束と問題意識の共有が、当時曄蔚文博士や私が構想していた条約内容の改正にも合致していた。その後も香港調査などのアクシデントが起きたが、その度に彼女は「感動」によって委員会に内部瓦解を起こさせなかった。私たちは所詮人間集団の紐帯、各々の行動や選択に理論や法則が皆無とは言わないが、名状しがたい感情の機敏によって思わぬ行動をとることがある。決断の隙間とでも表現すればいいのか、ユリアはそういう感情の隙間に通じているのだ。……まあ、私も分からない事が多いから、何か情報を得たら追って話すつもりでいる。何か今聞きたいことがあるかね?」

李奇はやや思案して尋ねた。

「彼女はなぜ委員会や加盟国に関心を持つに至ったのです?」

「さあ、ただ唯一はっきりとわかるのは、彼女が改正条約に執心している事だ。」

「だから彼女も脅迫文書の犯人を捜すつもりなのですね。」

「私も伺いたい事が。曄蔚文博士やリゲル博士以外に、ユリアたちの存在を知る人はいるのですか?」

「私の知る限りはいない。」

「楊何業上級委員には?」

「まさか!ユリアが彼に目をつけたらどうなるか。彼女たちとのやり取りは君たち2人だけで行ってほしい。口外しないのはもちろん、誰にも存在を悟られないように。」

 モデラは疲れ切った様子で息を吐くと、李奇とイレクを交互に見据えて締めくくった。

「ヨシコやカトはもちろんだが、ユリアの力は恐るべきものだ。限定的とはいえ集団心理を操れるのだから。彼女の一声で大暴動が起きる。現に何度も民衆を扇動してきたらしい。私が最初に聞いたのは、彼女が第2次ポエニ戦争でカルタゴを撃破したとか、初代ローマ皇帝の娘を助けたとか何とか。尤もあの性格だから、本当かふざけているのかも分からない。……だがある意味、あれほど危険な力を有する彼女の動向を、他ならぬ私たちが監視できるのは幸いかもしれない。いや、幸いだと思えるよう慎重に行動してくれ。」


 モデラは李奇に続いて退出しようとするイレクを呼び止めた。

「イレク。この話題が今相応しくないのは承知の上で聞くが、エマはまた旅行なのか?」

モデラ委員長は、人事会におけるイレクの「乱心」の原因を、実娘との夫婦関係不和に求めているらしい。イレクは慌てた様子で言った。

「いえ、僕が勧めたんです。恥ずかしながら最近神経質気味で。彼女に気を遣わせてしまうのも申し訳ありませんから。」

「そうか。何か困ったことがあれば、遠慮せず相談してくれよ。」

「ありがとうございます、お義父さん。ではこれで。」

 妻のエマの旅行仲間とは彼女と親密な男性なのだが、イレクトロはそれを一度も詰問したことは無い。結婚して1年、イレクの妻への態度は常に、恰も偶然同じバスに乗り合わせた見知らぬ客へのそれと変わりなかった。彼はもちろん悪意を持ってそういう態度を取ったのではないが、エマは夫の淡泊な言動に逐一動揺し不安を隠さなかった。だが半年も経つと、今度は打って変わって彼女の方が夫を軽蔑し始めた。しかし当のイレクは反発も傷心も示さなかったため、エマの言動は一層荒んだ。それでも夫婦は各々家庭の優等生を自認しているのか、互いの両親に悟られる事態だけは避けようとしていた。

 エマはイレクに他の恋い慕う相手がいると見抜いた。そしてせめて自分の心を守ろるため、夫の精神的堕落ぶりを嘲笑したが、肝心の相手が誰かまではなかなか察することができなかった。ではイレクは誰の事を考えていたのか?彼の関心は1つだけ、イレクは相手のために独り心を砕き、馬鹿げた努力を積み重ね、相手によって孤独を和らげ、心を安らかにしたのである。

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