第13話 ファイル

午後3時頃、電子アルバムを持ったフェイトンがダイニングに現れた。ノートパソコンから顔を上げたペレウスは、台所からコーヒーを運んできた。

「ありがとうございます。コブリーツさんたちは……。」

「出かけているよ。何度か外を伺ってみたが、例の男たちの姿は見えない。」

「良かった……、ありがとうございます。」

フェイトンは暫し逡巡してから、ペレウスに電子アルバムを差し出した。

「ペレウスさんに相談したいことが。このファイルを見てください。」

液晶画面にはアルファベットや漢字の羅列と不鮮明な画像が映っている。

「これは?」

ペレウスが首を傾げるのを見て、フェイトンは口早に補足した。

「これは留学する時に祖父が僕に贈ってくれた機械で……、すみません、これは昨晩祖父のパソコンから送られていた電子ファイルです。」

ペレウスはピクリと反応した。

「曄蔚文博士が?……アルファベットの箇所は意味不明だけど、漢字の部分は理解できるのかな?」

「いいえ。なんとなくですが、言語という感じがしません。文字化けみたいです。」

「確かに。お祖父さんは今までもこういうファイルを送ってきたことがあるの?」

「いいえ。祖父とは写真の送受信をしていただけです。先月アテネに滞在したと分かるのも、このアルバムに写真が送られてきたからです。」

フェイトンは7月のフォルダを開いて、該当する写真を示した。街路に五輪の旗が下がっているのを見るに、先月の写真なのは間違いない。だが――――。

「全部風景写真だ。言い難いが、曄蔚文博士が撮影したとは限らないかも。」

「それは……。ですがもし写真が偽物だとして、そんな嘘をつく必要があるでしょうか?」

2人が沈黙していると、マリアンが紙袋を抱えて帰ってきた。

「やあフェイトン君、体調はどう?」

「よくなりました。たくさんご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません。」

「気にしないで。僕こそ朝は失礼な言い方をしてしまった。反省している。ところで何を見ているんだ?」

機械を受け取ったマリアンは、フェイトンの話を聴きながら暫く沈黙した。

「マリアン?」

「ああごめん。そうだ、このファイル、コピーしても良い?」

「あ、私も良いかな。」

「はい。」

フェイトンは画を指で操作し始めた。

「それと夕方には出発しようと思う。2人ともそれでいいかな。」

「私は良いけど、そんなに早く出発する必要があるのか?」

「実はトリエステには殆ど行ったことが無いんだ。」

「もちろん構わないよ。」

「僕もです。」

日が傾き始めた頃、本屋の店主ザトラー氏は、色白の東洋人男性が入店したのに気づいた。珍しさ故目で追っていると、そこへ杖を突いたコブリーツ氏が現れた。義理堅さと人懐っこさで慕われる老人は、しかし今日は挨拶も漫ろに本棚へ直行すると、一冊の本をレジに持ってきた。

「道路地図?コブリーツ先生、もしかしてご旅行ですか?」

「倅がな。」

すると東洋人は振り向いて、漆黒の眼でコブリーツ氏の背中を見下ろした。その視線に気づいたザトラー氏が見返すと、彼は踵を返して店を出て行った。

「どうかしたのか?」

「いえ何でも。先生の方を振り向いた客がいたので。ほら彼ですよ。」

ザトラーはガラスの向こうに見える人物に目を遣った。彼の師は興味なさげに一瞥すると、再び事務所の奥に姿を消した。

 コブリーツ氏は急いで階段を上がり、出発準備を終えた息子たちに訊ねた。

「追手のアジア人は若い色白の男だと言ったな、服装は?」 

「黒か炭色チャコールかのワイシャツです。」

フェイトンの言葉にマリアンも付け加えた。

「そう。はっきり見たわけじゃありませんが、少し変わった襟だったのは覚えています。スタンドカラーのような。」

「やっぱりな。さっき同じ恰好の男が、下の本屋にいたぞ。」

3人の表情は途端に緊張を帯びた。

「マリアン、車は何処に停めている?」

「大通りに駐車しています。車庫に入れるのが面倒だったので。」

「じゃあ本屋から出て、車で待っていなさい。2人は儂が内廊下で搬入口まで連れて行くから。」

「分かりました。」

「でもコブリーツさんが……。」

ペレウスの言葉をコブリーツ氏はぴしゃりと遮った。

「儂を心配している場合か?君らは今朝、確かに追手を撒いたと言ったはずだ。儂は君たちの気のせいだと思ったが、現に今彼らはここまでたどり着いた。彼らは一旦見失った相手を探し続け、この数時間で追い付いたという事だ。もっと緊張感を持ちなさい!」

マリアンは棚から取り出した懐中電灯をテーブルに置いた。

「大丈夫、2人とも分かっていますよ。じゃあ僕は先に失礼します。」

「ああ、くれぐれも気をつけろ。彼らを怪我させんように。」

「もちろんです。父さんも気を付けて。」

マリアンはそう言うと居間を出て行った。流れるような父子の会話に戸惑うペレウスたちを無視して、コブリーツ氏は懐中電灯を手に2人をマリアンが消えた扉の

「大通りにカフェがあるだろう?この建物の内廊下を通れば、そこの脇に出られるのさ。」

 コブリーツ氏は2人を廊下の突き当りにある扉、その先にある内階段へ案内した。1階に降りると、そこは切れかけた裸電球が照らす内壁剥き出しの廊下である。

「ここのドアは本屋の事務所に続いているが、儂らはこのまま廊下を進むぞ。暗いから気をつけなさい。」

  3人は懐中電灯を頼りに雑然とした廊下を進んだ。ペレウスは漠然と、この建物がいつ建設され、この内廊下が何の用途で作られたのか考えていた。思えばテッサロニキの生家もアテネの実家も精々築30数年、ペレウスが知らない過去や記憶を感じさせる場所は無い。

 突き当りの非常扉を出ると、そこは搬入口というよりゴミ捨て場で、通り沿いにはマリアンの車が停まっている。

「アテネに着いた後でいいから、できる時に連絡してくれ。すまないが、マリアンをよろしく頼む。」

「……ありがとうございます。コブリーツさん。」

善良な父親に隠し事をする後ろめたさを感じつつ、2人はマリアンの車へ駆け込んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る