第3話

「ふぁあ……おなかいっぱい……」


 古めかしい祖母の家で、七海に割り当てられたのは昔父が使っていたという二階の一室だ。十畳ほどの広い部屋に、東京から送った家具が配置されている。

 もともとは六畳の部屋に押し込んでいたものだから、部屋が広すぎてスペースが余り放題だ。ただ、クローゼットなどという洒落たものは存在していないので、おいおい祖母に頼んで入れてもらう必要があるだろう。それか、今は空っぽのこの押入れを改造するか、だ。

 七海が引っ越してくることが決まってから少し手をいれたという部屋は、以前は畳張りだったが今はフローリングになっている。この時期はまだ床が冷たく感じられるので、ラグなどもあったほうがいいかもしれない。

 部屋の中を見回しながら必要になりそうなものをあれこれと考えているうちに、七海の瞼がだんだんと重くなり始めた。


「ん……まだ八時なのに……」


 七海の歓迎会だから、と祖母が張り切って用意した料理をおなかがパンパンになるまで食べ、風呂に入ってさっぱりとしたはずだが、体が重い。

 窓際においてもらったベッドにぼすんと倒れ込むと、七海は目を閉じた。

 ――やっぱ、長距離移動がきつかったか……。

 帰省するときはいつも、父の運転する車に乗っていたから、電車での移動は久しぶりだった。しかも、一人で奈良まで来るのは初めてだ。

 自分でも意識していなかったが、やはり緊張していたのだろう。ゆるゆるとした睡魔に身を任せて、暖かな掛布団にくるまった七海はすぐに寝息を立て始めた。



「う、ううん……」


 バタバタと走り回る足音。誰かの叫ぶ声。うるさいなあ、と夢うつつに呟いて、七海の意識がふっと浮上する。


「ん……? あれ、あ……」


 いつもと違う部屋の様子に一瞬ぎょっとして、それから今日から祖母の家で暮らすことになったのを思い出す。ふぁあ、と口から飛び出たあくびを手で押さえて、もう一度目を閉じようとしたとき、七海の部屋の窓にどん、と衝撃が走った。

 びりびりとガラス窓が震え、その影響かカーテンがひらりと揺れる。


「え、えっ、なに、なんなの?」


 誰かの罵声と思しき叫び声と、ばたばたと走る音。耳を澄ませてみると、時折ひゅうっと風を切るような音がしている。

 時計を見ると、夜中の二時だ。こんな時間に外で遊んでいる子どももいるまい。それどころか、七海はこの辺で外を走り回って遊ぶような小さな子どもを見たことがない。

 そもそも田舎の一軒家。隣の家とはだいぶ距離もある。

 ――え、やだ……。

 一瞬、七海の頭に「泥棒」の二文字がよぎる。だが、泥棒がこんなに騒がしいなんて話は聞いたことがない。だいたい、これでは家の人はみな起きてしまうだろう。

 ――でも、じゃあ何……?

 ごくん、とつばを飲み込んで、七海は恐る恐るカーテンの端を摘まんだ。そっと隙間を作って外を覗く。

 この時間、田舎の町は寝静まっていて、窓の外に見える光は切れかけて時折点滅する街灯と、月明かりくらいだ。だが、地上に光がない分、都会で見るよりも煌々と明るい月があたりを照らしていた。

 そして、その月明かりの下では、誰かが子どもくらいの背丈のなにかを追いかけまわしている。


「ええ、なにアレ……」


 よくよく目を凝らしてみると、月明かりに一瞬その「誰か」の顔が明るく照らされた。どこかで見たような顔だ――そう思った七海は、よく見ようと窓を開けて身を乗り出す。

 再び目を凝らして人影を追う。すると、追いかけられている小柄な方が、ぴょーんと屋根の上に飛び上がった。


「え、と、とん……っ」


 息をのんでいる間に、追いかけていた側がそれを追って顔を上げる。月明かりに照ら

その人物の顔を見て、七海は今度こそ叫び声をあげた。


「あ、あ、赤人さん……っ⁉」


 昼間とは違い、眼鏡をかけていない。だが、さすがに小一時間顔を突き合わせていた相手だ。それくらいの違いで見間違えたりしない。

 七海の声が本人に届いたかどうかはわからなかった。だが、追いかけられていた側は七海の存在に気が付いたようだ。ぎゃえ、と気味の悪い声を上げると、屋根伝いにまっすぐ七海の方へと向かってくる。

 その姿も月明かりに照らされて、七海の目にもはっきりとその形がわかった。人間とは思えないような赤黒い肌の色と、ぎょろりとした大きな目。その頭に生えているのは、角ではなかろうか。


「ひ、ひえっ……」


 思わずベッドの上にへたりこむ。慌てて逃げようとしたが、恐怖のためか足が動かない。思わず目を閉じた時、窓の外から落ち着いた声が七海を呼んだ。


「七海、大丈夫だ。アレはじきに赤人が捕まえる」

「ふぇ、え⁉」


 どこぞの声優張りの美声に、七海が恐る恐る目を開ける。すると、窓の外に真っ白な毛並みをした大きな犬がいるのが見えた。


「な、ななな⁉」


 半ばパニック状態で周囲を見回してみるが、他には誰もいない。再び視線を犬に戻すと、それがおかしそうにしっぽをぱたりと振った。


「なに、すぐに済むからおとなしくしていろ」


 犬が、人間の言葉をしゃべっている。驚きすぎて、七海の口からはすでに声が出ず、ぱくぱくと口を開け閉めするだけになっていた。

 そうこうしているうちに、どうやら表では決着がついたらしい。この、とか、おとなしくしろ、とかいう赤人の声と、ぎゅるぎゅる言う「なにか」の声がして、それからすぐに静かになった。



「どういうことだよ、誰も起きてこないようにしろって言っただろ」

「そう怒るな。水分の娘だからなあ、そういうこともある」


 屋根の上に軽く飛び上がってきた赤人が、犬に向って怒っている。だが、その怒られている側の犬は、白々しくそっぽを向くと、なぜか七海のほうに責任を転嫁してきた。

 犬としゃべる男。奇妙な絵面である。

 ぼけっとその様子を眺めていた七海だったが、突然自分の方に話が及んで目を丸くした。


「え、なに、ちょっと意味が分からない……」

「お前、水分の家のものだろう? 今日店に来ていた」

「店? え?」


 店、というのは喫茶店陽炎のことだろうか。でも、あの時こんな犬、店にはいなかった。それどころか、七海の祖母が来るまで、店の中は二人だけだったはずだ。

 混乱してあわあわと一人と一匹の間で視線を右往左往させる七海を見て、赤人が大きなため息をつく。その背後では、夜が明けるのだろう。太陽の光が連なる山を明るく浮き上がらせている。

 それを振り返ると、赤人は再び大きなため息をついた。


「事情は後で説明する。今日の夕方、店に来てくれ」


 くれ、と言いながらも、断らせないぞという強い圧を感じる。気おされて頷いた七海を見ると、赤人は来た時と同じように屋根から軽く飛び降りて、恐ろしいスピードで消えていった。白い犬もそれに続く。

 あとに残されたのは、呆然とベッドの上に座り込んでいる七海だけだ。

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