金曜の夜おそく

 もやもやと蒸し暑い夜の中、ひたすら自転車をこぐ。

 中京なかぎょうにあるムギさんの入院先から、北区の我が家まではだらだらと上り坂。

 今出川いまでがわを越え、北大路きたおおじを渡ってもう少し上にあがったところ。閑静な、という表現でほぼ間違いのない住宅地に我が家はある。サラリーマンの父がおじいちゃんに頭金をがっつり出してもらって、それでもまだローンはあと五年程のこってる四十坪の一戸建て。

 この辺りは昭和な感じの古い家と、新しい家が入り混じって並んでる。年季の入った家は空き家が多くて、中には朽ち果てそうなヤバいのもある。大丈夫なのかな、と思ってると、いきなり更地になって、元は一軒だったところに三軒ぐらい並んで建ったりする。

 まさに新陳代謝進行中って感じなのかな。

 玄関脇に自転車を停めると、私はジーンズのポケットから鍵を出して引き戸を開けた。廊下は暗く、奥のリビングからテレビの音がうっすら聞こえてくる。

 でも私はリビングには行かず、階段を上がり、そのまま自分の部屋に入って明かりをつける。昼間の熱気が缶詰にされた空間。自転車をこいできた自身の熱とあいまって、一気に汗が吹き出す。

 慌ててエアコンのスイッチを入れ、クローゼットから着替えとタオルを取り出すと、私はシャワーを浴びに行った。


 ほんの十分ばかりのシャワーの間では、部屋の温度はそう下がるものじゃない。でもまあ、私もエコには多少の関心を寄せているので、敢えてリモコンの温度設定は下げず、風力だけマックスにしてからベッドに腰を下ろす。

 そうすると右手は自然とリュックサックに入れたスマホへと伸びて、もしや青木センパイからメッセージなんか来てやしないかと、チェックしてしまうのだ。

 虚しい。

 そんなもの、来るわけないのに。

 その代わり、でもないだろうけど、姉からメッセージが来ている。

「ムギさん、京都きていきなり入院やて?」

 たぶんムギさん本人から聞いたんだろう。ホンマびっくりした、と打ちかけて、やめた。そんな一言じゃすまされない、私のモヤモヤ感。でも、このまま溜め込んでおくのも耐えがたい。

 しばらく考え、姉に電話する頃にはすっかり汗も引いていた。

「もしもし?今、大丈夫?」

「ああ、珍しいやん、電話かけてくるやなんて」

 大体この時間だと、姉は外で飲んでたりすることが多いのに、どうやら今日は家にいるらしくてノイズが少ない。

「いや、ムギさんのことで、ちょっと」

「入院な。熱中症やって?朝まで飲んでてそのまま来はったんやろ?あの人らしいわぁ」

 姉の口調は心配どころかちょっと面白がっている様子で、しかしそれはムギさん本人が最も望んでいる反応だった。

あまのじゃくなのか負けず嫌いなのか、「疲れてんのよ!」と自己申告するのはオッケーで、人から「疲れてるんじゃない」?と心配されるのは却下、という人なのだから。

「まあ、あと二日ほど入院してたら大丈夫らしいよ」

「そんな風に言うてはったな。なんかイケメンのドクターいはるとかって、嬉しそうやったし」

 そのまま「ほな、おやすみ」と電話を切りそうな姉の様子に、私は急いで「ムギさん、友達と一緒に来てはるねん」と話をつないだ。

「へ?友達?あの、最近お気に入りの、鎌倉の盆栽屋さん?」

「たぶん違うと思う。桃子ももこさんていう、きれいな女の人。歩美あゆみちゃんと同じか、少し上ぐらいだと思う」

「私と同じか、少し上の、桃子さん?」

 姉は一瞬しずかになって、それから「ああわかった!ジェットコースターの桃子さんや!」と声を上げた。

「ジェットコースター?絶叫マシーン好きなん?あの人」

「ちゃうちゃう、人生がジェットコースターやねん」

「人生が?」

「そう。上がったり下がったり、カーブも半端ないし、遠心力で何遍もコースアウト寸前」

「何それ、すごいハードな人生なん?」

「聞いた限りではな。まあ、男運が悪い、いうのがそもそもの原因やろ」

「でも全然、そんな感じに見えへん、ものすご堅実ていうか、ちゃんとした人っぽかったよ」

「そうそう、外側はものすごちゃんとしてはるねん。ムギさんも彼女のそこが好き、いうか、なのになんで男の趣味だけぶっ壊れてんだろうねーって、よう言うてはるわ」

「ぶっ壊れてるって、具体的にどんな?」

「それは言わんとく。知りたかったら本人に直接聞いとぉみ」

「そんなん、できるわけないやん」

「でも私から色々言うのは、やっぱりルール違反やろ。まあ、悪い人ではないし、一緒にいたら絶対、この人ともっと仲良くなりたいって思わせる人やろな。向こうが同じくらい好いてくれはるかどうかは知らんけど」

 姉の声には少し冷たい響きがあって、これが彼女の辛辣というか、本音を語る時のトーンだった。

「つまり?桃子さんて、好き嫌い激しい、ていうか、難しい人?」

「知るかいな、直接おうたことないのに。ただ、私の経験として、めちゃくちゃ人あたりのええ人というのは、たいがいガードが堅いし、人間不信やったりするもんや。ムギさんかて、人づきあいは割り切ってはるとこあるし」

「そうなん?」

 結局何が言いたいんだか。まあ、とどのつまり、姉は私との会話が面倒になってきたのだろう。その証拠に「ほな、お風呂入るし」と、切り上げにかかった。

「あ、待って待って、一番大事なことまだ聞いてへん。なあ、丑の刻参りって知ってるやろ?」

「は?丑の刻参り?藁人形に釘うつやつ?」

「そう。それを、その、桃子さんがやりたいんやて。貴船神社で」

 しばし沈黙の後、姉は「アホちゃう?」と呟いた。

「やっぱり、変やんなあ」

「まあ、ムギさんの友達なんて変な人ばっかりやしな。私もあんたも、含めて」

「私は、ムギさんと友達とは違うよ」

 そう、私はそこまで身分は高くないのだ。

「いやいや、あの人と一度でも食事かお茶して、連絡先交換してたら友達認定やわ。しっかし、丑の刻参り、なあ」

「そもそも私は関係なかったんやけど、ムギさんが入院しはったから、代わりに一緒に行ってあげてって」

 私がまだ言い終わらないうち、姉は電話の向こうで爆笑した。

「ええやん!丑の刻参りなんて、そうそうできる経験ちゃうで。しかも本家本元の貴船神社やて」

「もう、こっちは困ってるんやで」

「そらそやろ、私かてそんなん言われたら困るわ。まあ、曲りなりにも男やし、あてにされたんやろ。しゃあない、頑張りや」

「ちょっと待ってえな、ホンマにあかんねん」

「嫌やったら断りぃな。それでムギさんから切られたところで、あんた別に困ることあらへんやろ?ほな、丑の刻参り、どんなんやったか、また教えてな」

 私が次の言葉を思いつく前に、電話はもう切られていた。


 エアコンが効きすぎて、部屋は寒いほどになっている。私はリモコンを手にして室温を上げると、ベッドに寝転がる。

 たしかに、嫌なら断ればいいのだ。丑の刻参りなんて付き合えない。顔の広いムギさんの事だから、私以外にも京都に住んでる知人友達、何人もいるはずだし。ただ、こんな無茶なことを頼めるような相手ではないのかもしれない。

 結局のところ、私に白羽の矢が立ったのは、ドロップアウト気味の学生で、実家に住んでて、友達関係希薄だからけっこうヒマにしてるって事と、男だから桃子さんの用心棒にもなると、そういう事なんだろう。

 曲がりなりにも、男やから。

 姉に悪気がないというか、むしろ彼女は私の一番の理解者と言ってもいいのに、この表現は胸にざっくりと刺さってくる。

 自分で自分のこと、女の子だといくら思ったところで、現実問題として身体は男であり、男としてこの世に登録して、その行動規範に則って世間に迷惑かけないように十九年も生きてきた。でも何をどうしたところで私は女子なのだ。

 女として考え、女として笑い、女としてお腹も空けば飯も食う。

 十歳ちがいの姉は、幼い頃から私の本性を見抜いていたようで、ミツヨシ、という親のつけた名前にひっかけて「ハニー」という呼び名と、女の子としての人格を与えてくれた。

 幸か不幸か、両親はこの「ハニー」の人格をたんなる姉と弟のお遊びと思っているが、私にとっては、男のふりという潜伏生活における、貴重な息継ぎの機会だったのだ。


 姉は大学も就職も京都だったが、OL三年目の秋に仕事を辞め、彼氏を追っかけて東京に行ってしまった。ところが彼氏が元カノと切れていなかったため、挙式目前で破局。彼氏は元カノと結婚すべく地元の富山へ戻り、難民化した姉は微妙な感じで横浜へと流れた。今はロシアから水産物を輸入する会社で働いている。

 身内が首都圏にいるのはなかなか便利で、私は東京に行くとなれば、彼女の部屋に泊めてもらう。去年の秋、姉弟揃ってとち狂っているバンド、ソーラー・エクリプス、略してソラエクの横浜アリーナ公演に参戦して、そこでムギさんに遭遇したのだ。

「なんか、このバンドは行っとけって、勧められちゃって」と、コアなファンからみるとなかなかに上から目線だったけれど、ムギさんはそんな風にあちこちアンテナを張って、先入観なしにまずは直接ふれてみよう、という人なのだ。

 だから飲み友達の一人にすぎない姉と、京都からやって来たその弟、なんて我々にも気さくに接してくれて、ライブがはけた後で一緒に食事をしたのだ。

 まだ高三だった私にとって、ムギさんはとにかく謎の人だった。

 まず男だか女だか判らない。いや、男なのに女のような身のこなしと話し方。世間一般に言われる「オネエ」というその存在は、私が初めて他者として接する「自分のような人」だった。もちろん、見た目も性格も全く違っていたけれど。

 ムギさんは三十代後半らしくて、けっこうなハイブランドっぽいファッションに身を包み、それは女装ではないにせよ、「ふつうの」男の人の趣味とも違っていて、奇抜、としか言いようのないデザインの指輪を、さも当たり前のように左右の指にはめていた。

 三人で食事、とはいっても、ムギさんも姉もマシンガントークで、おまけにお酒が入っているから、私の加わる隙などない。二人の会話をホワイトノイズのように聞き流して、私はただぼんやりとライブの余韻に浸って過ごした。

 その後も、ムギさんは姉の帰省に便乗して京都に遊びに来たりしていたのだけれど、気がつくと私のことをハニーと呼び、姉抜きでも会うようになったりしていた。

 ムギさんが何の仕事をしているのか、私はいまだに知らない。だいいち姉もよく判ってないらしくて、「コーディネーターみたいなもんちゃう?人脈めちゃくちゃ豊富やもんな。出張とかも多いけど、基本的に仕事の話はしはらへん。でもお金は持ってはる」という具合だった。

 私の知る限りでは、とても多忙で、アポは平均して午前二件でそのままランチ、午後は三件に夕食と飲み一件。その合間にメールだの何だの、細かいやり取りは数知れず。仕事とプライベートの境界は曖昧で、出張に行ったついでに遊び、遊びの途中で仕事をこなす、というスタイルみたいだった。

 もしかすると今も、病室のベッドに胡坐でもかいて、タブレットを覗き込んで仕事してるのかもしれない。ムギさんの敵はたぶん退屈とか、手持無沙汰とか、そんなとこだろう。

 かたや私はいくらだってぼんやりと過ごせる、時間の浪費家。いっぱい予定が詰まってると何だか憂鬱になるし、一日にこなせる予定は基本的に一件のみ。ムギさんはそんな私に「お若いのにねえ」と、呆れ顔だけけれど、私は小さい頃からそうだった。たぶん年齢じゃなくて、性格の問題なのだ。

 はあ、と溜息をついて、寝転がった私は天井を見上げる。

 嫌なら断ればいいのだ。

 でも微妙に、私の気持ちは「嫌」とは重ならない。

 頭じゃ判っているのだ、こんな風に、引きこもり一歩手前みたいな生活してちゃ駄目だって事。できる事なら、学校もちゃんと行って、世間も広げて、バイトだってこなして、せめてムギさんの百分の一でもいいから、メリハリのある生き方をする事。

 でもだからって、丑の刻参りすべきなんだろうか。



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